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第3話:出迎えた美青年は、胃痛と不眠の役満患者でした

車輪が凍てついた轍に乗り上げるたび、骨身に軋むような振動が腰を突き抜けた。

王都を出発してから、乗り合い馬車に揺られること十有余日。南方の穏やかな秋の気配は疾風のように過ぎ去り、窓の外に広がる景色は、いつしか鉛色の雲と針葉樹の黒い影、そして見渡す限りの白銀に支配されていた。

北方の防壁、帝国最果ての地――ハーディン辺境伯領。


「お嬢ちゃん、着いたぜ! ここが終点、ハーディン城の前だ!」


分厚い毛皮にくるまった御者の荒々しい声とともに、馬車がけたたましい摩擦音を立てて停止した。

ドアが開け放たれた瞬間、室内に雪崩れ込んできたのは、肌を剃刀で削ぎ落とすかのような極寒のブリザードだった。ヒュウ、と耳元で風が悲鳴を上げている。息を吸い込むだけで気管支がキュッと収縮し、肺の奥が凍りつきそうだ。


「うっ……さ、寒っ……! これはマイナス十度を下回っているわね……」


私は首元に巻き付けた羊毛のマフラーを鼻の上まで引き上げ、外套の合わせ目を固く握りしめた。

懐には、出発前に仕込んでおいたショウガと葛根の温補粉末。これを白湯で溶いてこまめに口に含んでいたおかげで、低体温症に陥ることなく末梢血管の血流を保つことができていた。旅の商人たちが凍傷で足の指の感覚をなくしかけていた中、薬剤師の自己管理能力の面目躍如といったところだ。


雪煙を払いながら馬車を降り、見上げた先には――天を突くようにそびえ立つ、黒曜石のような黒ずんだ石造りの巨城があった。

ハーディン城。北方から押し寄せる魔獣の氾濫を何百年も食い止め続けてきた、難攻不落の防壁要塞。豪奢で優美な王都の白亜の宮殿とは対極にある、戦うためだけに削ぎ落とされた無骨な威容がそこにあった。


だが、その城門をくぐり抜けた瞬間、私の皮膚を撫でたのは外の寒さとは質の異なる「冷気」だった。


「……何かしら、この空気」


城内の中庭や回廊には、暖炉の薪が赤々と焚かれ、松明の火が揺らめいている。物理的な気温は外よりずっと高いはずだった。

それなのに、空間全体が異常なまでに重苦しく、どんよりと澱んでいる。

消毒薬の清冽な匂いではない。微かに焦げ付いたような魔力残渣のオゾン臭、古い鉄錆のような血の気配、そして――人間の体が内側から腐敗し、摩耗していく時に放つ、あの独特の酸っぱい呼気の匂い。


(前世の……夜勤帯の救急病棟と同じ匂いがする)


多発外傷、敗血症、多臓器不全の患者が次々と運び込まれ、生体情報モニターの警告音が鳴り止まない、あの死線特有の閉塞感。

行き交う騎士たちの姿を観察して、私の疑念は確信へと変わった。

すれ違う男たちは誰もが筋骨隆々とした歴戦の戦士に見えるが、その足取りには微かなもつれがあり、肌は浅黒く乾いて生気がない。すれ違いざまに聞こえてくるのは、押し殺したような咳払いや、関節の軋む微かな音だった。

城全体が、ひとつの巨大な「限界病棟」と化しているのだ。


「あなたが……王都の王立薬草院から派遣されてきた、専属調合師の方ですね」


張り詰めた空気を切り裂くように、硬質で涼やかな声が降ってきた。


大広間の石造りの階段を下りてきたその人物を目にした瞬間、私の視線は職業病の発作のように、相手の全身の「視診」へと釘付けになった。


現れたのは、二十代半ばとおぼしき美青年だった。

氷の結晶を思わせる銀色の髪をきっちりと撫で付け、銀縁の眼鏡をかけている。仕立てのいい紺青色の軍服に黒い革のロングブーツ、腰には細身のサーベル。無駄肉の一切ない均整の取れた長身と怜悧な美貌は、王都の社交界にいれば令嬢たちに黄色い悲鳴で囲まれること請け合いの貴公子だ。

――ただし、その外見が「健康」であればの話だが。


「初めまして。北方守護騎士団副団長を務めております、カイエン・アルヴァです」


名乗った青年――カイエンは、胸元に手を当てて事務的に頭を下げた。

その声には抑揚がなく、まるで冷え切った硝子細工のようだ。


「エレナ・ノール男爵令嬢とお見受けする。遠路はるばる極寒の地までご足労いただいた。……だが、見ての通り我が城は非常事態の渦中にある。あなたをもてなす歓迎の宴を開く余裕も、悠長にお茶を淹れて長旅の労をねぎらう時間もない。無礼は承知の上だが、そのトランクを置いたら、即座に客室で待機していただきたい」


突き放すような、明確な拒絶の響き。

王都から体裁だけで送り込まれてきた、役に立たない小娘の相手をしている暇はない――そう言外に告げているのがありありと伝わってきた。


普通に育てられた貴族令嬢なら、その冷たい無礼さに憤慨するか、怯えて涙ぐむところだろう。

しかし、私の意識は彼の無愛想な態度など微塵も気に留めていなかった。

私の目は、彼が発している無数の「危険信号」を、精密機械のように読み取っていた。


(……酷いわね。これ、よく立っていられるわ)


銀縁眼鏡の奥、伏せられた双眸の周囲には、絵の具を塗りたくったかのような赤黒い隈が幾重にも張り巡らされている。重度の慢性的睡眠剥奪の兆候だ。

肌は乾燥して粉を吹き、唇の端には口角炎の乾いた瘡蓋がある。ビタミンB群の極度の枯渇。

そして何より――。

カイエンは私と話しているわずか数十秒の間にも、無意識のうちに右手で軍服の上から鳩尾を強く圧迫し、時折、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきたかのように喉仏を小さく上下させ、苦々しく口元を歪めていた。呼吸は浅く、指先には微小な振戦(細かな震え)が見られる。


私の口が、考えるよりも先に動いていた。


「カイエン副団長様」


「……何でしょうか。部屋へ案内する兵なら、すぐに手配しますが」


「主訴を確認させてください」


「……は?」


カイエンが眼鏡の奥の切れ長の目を細め、怪訝そうに眉をひそめた。

私はトランクを床に置き、一歩、彼との距離を詰める。彼が放つ浅く速い呼吸のリズムに合わせるように、静かで、だが決して遮らせないトーンで言葉を紡いだ。


「就寝時、あるいは横になった瞬間に、喉の奥が焼けるような激しい痛みや胸焼けを感じて飛び起きることはありませんか? 朝起きた時、口の中に苦く酸っぱい液体が広がっていて、強烈な吐き気に襲われませんか? 空腹時に胃が握りつぶされるように痛み、食欲がないのに、無理に流し込むと今度は背中まで突き抜けるような鈍痛が走る……心当たりがおありでしょう」


カイエンの呼吸が、ピタリと止まった。

蒼白だった彼の頬から、さらに血の気が引いていく。


「な……何をご冗談を。私はただの疲労で――」


「疲労だけで片付けていい段階は疾うに過ぎています」


私は彼が言い逃れをする隙を与えず、さらに畳み掛けた。


「加えて、極度の不眠。ベッドに入っても頭の芯が異常に冴え渡り、魔力回路が過敏になって針で刺されるような耳鳴りが止まらない。眠気を誤魔化すために、濃く煮出した覚醒ハーブや強い茶を水代わりに呷り、胃粘膜を自ら削り取っていらっしゃるはずです。違いますか?」


「き、貴様……っ!」


カイエンが瞠目し、息を呑んで後退りした。

その細身の体が一瞬グラリと揺らぎ、彼は耐えかねたように回廊の石柱へ手をついた。

図星、どころの話ではない。

まるで彼の体を内側から透視し、彼自身すら言語化できていなかった痛みの全貌を白日の下に晒したかのようだった。


「な、なぜそれを……!? オットー侍医にすら、胸焼けの程度しか伝えていないはずだ! 誰から聞いた……王都の密偵か!?」


「誰からも聞いていません。あなたの顔色、瞳孔の対光反射、呼吸の深度、そして何より――その立ち居振る舞いがすべてを雄弁に物語っています」


私は落ち着いた足取りで彼に近づくと、石柱にもたれかかる彼の左手首を、迷うことなく素早く指先で捉えた。


「無礼な、触るな――!」


「動かないで。脈を診ています」


私の凛とした一喝に、カイエンは気圧されたように口を噤んだ。

人差し指、中指、薬指の腹を橈骨動脈に当て、脈拍数をカウントする。

ト・ト・ト・ト・ト……。

速い。安静時にもかかわらず、脈拍は百をゆうに超えている。緊張と過度なカフェイン様物質の摂取、そして交感神経の持続的な異常興奮だ。


「頻脈、緊張脈。血管壁が収縮しきっています。……典型的な重度の『逆流性食道炎』、および過度のストレスと睡眠剥奪に伴う『自律神経失調症』です」


「ぎゃくりゅう……? じりつ……?」


聞き慣れない現代医学の術語に、カイエンは呆然と瞬きを繰り返した。


「胃と食道を繋ぐ弁(下部食道括約筋)が、極度のストレスと過労、そして無理な姿勢の継続によって緩み、強酸性の胃液が食道へ逆流して粘膜を焼き爛れさせているのです。あなたが感じている胸の焼けつくような痛みは、心臓の病気ではなく、胃酸による化学熱傷ですよ。このまま放置すれば食道潰瘍、あるいは出血性の穿孔を起こして吐血します。……よくこの状態で立って職務をこなしていらっしゃいましたね」


私が淡々と、しかし医学的な事実として告げると、カイエンの表情から先ほどまでの冷徹な拒絶の仮面が剥がれ落ちていった。

彼がどれほどの期間、この燃えるような胸の痛みを「騎士の忍耐」という名の気合いだけで耐え忍んできたか。誰にも弱音を吐けず、激務の重圧の中で一人、胃を掻きむしりながら耐えてきたか――その孤独と苦痛が、痛いほど伝わってきた。


「私は……ただ……」


カイエンが、掠れた声で呟く。


「城を……守らねばならなかったのだ。北方の防壁は、一瞬の気の緩みも許されない。……だが、先月から騎士たちが次々と倒れ始めている……」


「騎士たちが?」


「ああ……」


カイエンは自嘲するように口元を歪め、力なく項垂れた。


「軽傷だったはずの兵が、突然の高熱と激痛で昏倒する。訓練中に吐血する者が後を絶たず、第一部隊長のバルツをはじめ、前線の主力までもが満身創痍で動けなくなっている。……王都から取り寄せた最高級の回復ポーションをどれだけ飲ませても、一向に良くならん。それどころか、薬を飲んだ者から順に、まるで毒でも盛られたかのように内臓を痛めつけて倒れていくのだ……! 戦力維持は、もう限界だ。このままでは……次の魔獣の襲来を防ぎきれん……!」


青年の細い肩が、悔しさと無力感で微かに震えていた。

なるほど、と私は合点がいった。

城内に漂うあの異様な死線の気配。それは外敵の脅威だけではない。王都から送られてくる「高濃度ポーション」という名の劇薬が、騎士たちの体を内側から蝕み、組織全体を崩壊に追い込んでいたのだ。


(やっぱりね……。ユルゲンたちの作ったあの『光る猛毒』が、ここでも猛威を振るっているんだわ)


現場の人間は、命を救うために必死で薬を飲ませている。

それが患者の体を壊す毒だとも知らずに。その無知と善意の空回りが、どれほど残酷な結果を生むか。前世でも、間違った民間療法や多剤併用の副作用でボロボロになって運ばれてきた患者を何人も見てきた。


私はトランクの脇に屈み込み、外ポケットから小さな硝子瓶を一本取り出した。

中に入っているのは、道中で調合しておいた、甘草と粘液性ハーブを微量のアルコールで抽出した薄茶色のチンキ剤だ。


「カイエン副団長」


「……何だ」


「水はありますか? なければ、ぬるま湯を一杯」


カイエンは怪訝な顔をしながらも、回廊の給水台から陶器のコップに白湯を汲んできた。

私はその白湯の中に、持っていたチンキ剤をスポイトで正確に三滴、落とした。

フワリと、カモミールに似た甘く穏やかなハーブの香りが立ち上る。光など一筋も放たない、地味で濁った液体だ。


「これを、ゆっくりと一口ずつ、喉を潤すようにして飲み干してください」


「これは……薬なのか? 光っていないが……」


「光る必要はありません。胃粘膜の炎症を抑え、局所の血流を促す生薬の希釈液です。胃酸の攻撃から粘膜を守るバリアを作ってくれます。……毒ではありませんよ。疑うなら、私が先に毒見をしましょうか?」


「……いや」


カイエンは首を振った。

初対面の、王都から追放されてきたはずの男爵令嬢。本来なら最も警戒すべき相手のはずだった。

だが、私の目を見つめたカイエンの瞳には、警戒心を押しのけて、すがるような微かな光が宿っていた。自分の体を誰よりも正確に言い当ててくれた人間に対する、本能的な期待。


彼は意を決したようにコップを受け取ると、恐る恐る口をつけ、薄茶色の白湯を喉へと流し込んだ。


「…………っ」


ゴクリ、と音が鳴る。

一秒、二秒。

カイエンの表情が、劇的に変化した。

強張っていた彼の眉間がふっと緩み、大きく見開かれた瞳が揺れる。


「……温かい……? いや、それだけではない……喉の、あの焼けつくような熱が……引いていく……?」


「生薬の粘液成分が、炎症を起こした食道と胃壁を物理的にコーティングしたのです。即効性の治癒魔法ではありませんから、根本的に治すには数週間の服薬と食事制限、そして何より睡眠が必要ですが……一時的な不快感なら、それでかなり緩和されるはずです」


「あ……ああ……」


カイエンは両手でコップを握りしめ、残りの白湯を大切そうに、慈しむように飲み干した。

その顔色に、ほんのりとだが、人間らしい血色が戻ってくる。

胸を押さえていた彼の手が、自然と下ろされていた。


「信じられん……。何年も私を苛んでいたあの痛みが……こんな、ただの草の湯で……」


「ただの草ではありません。科学的に調合された生活改善薬です」


私がクスリと微笑むと、カイエンはハッと我に返ったように姿勢を正した。

眼鏡の奥の瞳には、もはや先ほどの冷酷な拒絶の色は欠片もなかった。あるのは、底知れない衝撃と、溢れんばかりの切迫感だった。


「エレナ殿……いや、エレナ様……! 先ほどの非礼、何と詫びればよいか……!」


「いいえ、お気になさらず。激務で胃が荒れていれば、誰だって機嫌が悪くなります。薬剤師にとっては日常茶飯事ですから」


「私の不調など、どうでもいいのだ……!」


カイエンは激しく首を振ると、突如として私の手首を掴んだ。

先ほどまでの事務的な態度が嘘のように、その手には悲壮なまでの力が込められている。整った顔を歪め、彼は泣き出しそうな目で私を見つめた。


「エレナ様、頼む……! 来てくれ! 私の治療など後回しでいい、一刻を争うのだ!」


「カイエン副団長? 落ち着いてください、一体誰の――」


「閣下だ……! ジルヴェスタ閣下だ!」


カイエンの叫びのような声が、静まり返った回廊に木霊した。


「もう時間がない……! 王都から取り寄せた最高峰のポーションをどれだけ投与しても容態は悪化する一方、今朝ついに大量の血を吐いて意識を失われた……! オットー侍医は『あと三日の命、今夜を越せるかも分からぬ』と匙を投げたのだ! 頼む、閣下を……我が主を救ってくれ……!!」


手首を通じて伝わってくる、カイエンの絶望的な震え。

余命三日。大量吐血。最高峰ポーションの連用。

――やはり、噂は本当だった。

そしてその病状は、私が馬車の中で予測していた最悪のシチュエーションを遥かに超えて進行している。


「分かりました」


私は迷うことなく頷き、足元のトランクの取っ手を強く握り直した。

男爵令嬢としての淑女の顔は、完全に消え去っていた。

そこにあるのは、急変を告げるコードブルーの放送を聞いた瞬間の、歴戦の臨床薬剤師の顔だけだった。


「案内してください、カイエン副団長。……その命、絶対に奪わせはしません」


「あ、ああ……! こちらだ!」


カイエンに引かれるようにして、私は城の最深部へと走り出した。

冷たい石造りの階段を駆け上がり、幾重もの重厚な扉を抜けていく。

目指すは、死の淵に立つ「氷血の辺境伯」が横たわる、重い鉄の扉の奥――。

私の本当の戦いが、今まさに始まろうとしていた。

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