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第2話:左遷辞令は有給休暇? 万年ブラック薬剤師の荷造り

王立薬草院の敷地内、その最北端に位置する薄暗い職員宿舎の一室。

西向きの窓から差し込む夕日はすでに褪せ、石造りの簡素な部屋を薄墨色に染め上げていた。

私はバタンと重い樫の扉を背中で閉め、施錠を確かめると、机の上に手元の羊皮紙を放り出した。乾いた音を立てて広がる、赤黒い封蝋の割れた辞令。


『北方国境守護軍駐留地・ハーディン辺境伯領 専属調合師ヲ命ズ』


その達筆な墨文字を指先でなぞりながら、私は椅子の背もたれに深く身体を預け、肺の中の空気をすべて吐き出すように長いため息をついた。

……静かだ。

耳を澄ませても、廊下を行き交う弟子たちの甲高いおべっかも、ユルゲンがフラスコを叩き鳴らすヒステリックな金属音も、ミレーヌの鼻につく甘ったるい香油の匂いも、何一つ届いてこない。


「終わった……。本当に、終わったのね……」


思わず口から零れ出たのは、絶望の言葉ではなく、肩の関節が外れそうなほどの安堵だった。

前世の記憶が、濁流のように脳裏をよぎる。

三十代半ばまで総合病院の門前薬局と病棟を駆けずり回っていた、あの果てしない激務の日々。朝八時半の開局前からシャッターの前で行列を作る患者たち、途切れることのない処方箋の山、重箱の隅をつつくような疑義照会に激昂する医師、夕方から始まる入院患者の持参薬鑑査と無菌調剤室での点滴混注。当直明けの朦朧とした意識のまま「あと半日だけ」と栄養ドリンクを胃に流し込み、気付けば病院の階段の踊り場で冷たくなっていた――あの、文字通りの過労死。


そして、男爵令嬢エレナとして転生したこの世界でも、待っていたのは別の形のブラック労働だった。

王立薬草院に配属されてから三年間。私は「魔力光が出せない地味な女」と嘲笑されながら、ユルゲンをはじめとする上級錬金術師たちが嫌がる基礎作業をすべて押し付けられていた。

泥だらけの薬草の水洗い、根の選別、細根の切断、乾燥炉の温度管理、何百枚もの研究報告書の代筆、貴族たちへの贈答用ハーブティーの梱包。朝露が消える前から深夜の鐘が鳴るまで乳棒を振り続け、手柄はすべてユルゲンの「新作ポーション」の材料費として吸い上げられる。有給休暇など一日たりとも存在しなかった。


けれど、いま私の目の前にあるのは――紛れもない追放令状。


「……待って?」


私は身を起こし、辞令の文面を改めて上から下まで舐めるように読み返した。

薬草院の規定集の文言が、前世から鍛え上げられた事務屋の記憶力で脳裏に蘇る。


「王立薬草院服務規程、第四条……『勅命または院長命令による遠隔地への転属において、移動に要する日数は全日を公務出張期間とみなし、所定の日当および旅費を支給するものとする』……。王都からハーディン辺境伯領までは、乗り合い馬車を乗り継いで早くても二週間、悪天候なら三週間……」


私の唇が、徐々に弧を描き始めた。


「さらに、辺境伯領は中央直轄地ではなく自治領。つまり、王都薬草院の息がかかった派閥抗争もなければ、くだらない社交界の夜会への強制参加もない。貴族の機嫌取りのお茶会も、ユルゲンの学会発表用のデータ捏造に付き合わされる深夜残業も……ゼロ!」


ポン、と手のひらを打つ乾いた音が部屋に響いた。


「これって……実質的な、給与保証付きの長期有給休暇じゃないの!」


なんということだろう。

あんな傲慢な男と手を切ることができた上に、三年分の溜まりに溜まった代休を一気に消化できるのだ。しかも行き先は、王都の監視が届かない極寒の僻地。誰にも邪魔されず、自分のペースで薬理学の研究ができる楽園ではないか。

死にかけの冷徹公爵がいるという噂はあるが、所詮は現場の患者の一人に過ぎない。重症患者のバイタル管理など、前世の救急病棟で嫌というほど経験してきた。理不尽な上司の相手をするより、気難しくても命のやり取りに真剣な患者を相手にする方が、医療従事者としては百万倍やりがいがあるというものだ。


「よし。そうと決まれば、のんびり落ち込んでいる暇なんてないわね。迅速かつ完璧に、撤収作業を開始しなくちゃ!」


私は作業着の袖を勢いよくまくり上げると、部屋の隅に積んであった頑丈な革張りのトランクを中央へと引きずり出した。


ここからが、薬剤師の真骨頂である。

まずは資金調達だ。

私はクローゼットを開け放ち、男爵令嬢として実家から持たされていたものの、一度も着る機会のなかった華美なドレスや、ユルゲンから「婚約者の義務」として押し付けられていた安物の宝石類を一纏めにした。これらは明日の一番に、薬草院御用達の質屋へ持ち込んで即座に現金化する。辺境でドレスなど着ていたら凍死するだけだ。貴族の体面などという実利のないものは、すべて金貨と銀貨に変えてしまうに限る。


次に、何よりも重要な「医薬品および調剤器具」の選定とパッキングだ。

極寒の北方へ向かうにあたり、最大の敵は「寒冷」と「輸送中の劣化」である。生薬の有効成分をいかに壊さず、長期間の振動と湿度変化に耐えさせるか。これには現代薬学の知見が不可欠だった。


「乾燥生薬は、湿気を吸えばカビが生えて分解が進む。特にグリコシド(配糖体)系の成分は加水分解に弱いから……」


私は机の下から、自作の密閉容器を取り出した。陶器の壺の内側に天然ゴムの樹液を塗り、フタの隙間を蜜蝋でシーリングできるように加工したものだ。

そこへ、丁寧にエアドライ(陰干し送風乾燥)処理を施したハーブ類を詰めていく。

風邪の初期症状や悪寒に効く葛根・麻黄類似の生薬。

抗炎症作用と消化管保護に欠かせない甘草。

痛みを散らす桂皮と、局所の血流を劇的に改善する乾姜(乾燥させたショウガ)。

どれも前世の漢方方剤でおなじみの基原植物に近いものを、この三年間の休日に王都近郊の山野で採集し、丹念に脱水処理しておいた私の宝物たちだ。


「抽出用の溶媒も、現地で手に入るか分からないわね。高純度のスピリッツ(蒸留酒)を三瓶……これはチンキ剤の調製用。それから、基剤となる精製蜜蝋と、皮膚の保護膜を作る植物性油脂。これがあれば、どんな重度のあかぎれや創傷にも即座に軟膏が作れる」


愛用の小さな乳鉢と乳棒は、厚手の羊毛布で何重にも包んでトランクの底、衝撃の最も少ない重心位置へと収める。ガラス製の漏斗、目盛り付きのシリンダー、平底フラスコ。どれも王立薬草院の備品ではなく、私のなけなしの給与から少しずつ買い揃えてきた私物だ。これらを手放す気は毛頭ない。


そして――最後に私が引き出しの二重底から取り出したのは、厚い革表紙で綴じられた一冊の分厚い手帳だった。

表紙を開くと、そこにはぎっしりと、この世界の人間には決して読めない文字列が並んでいる。


『TDM(治療薬物モニタリング)基準値一覧』

『各種生薬の推定有効血中濃度および半減期(t1/2)』

『ショック時における初期輸液負荷プロトコル(晶質液/膠質液)』

『小児投与量計算式(Augsberger式・von Harnack換算表)』


前世の医学・薬学知識を、日本語の漢字とカタカナ、そして英語の医療略語を交えて書き留めた、私だけの「特製臨床カルテ」兼「処方設計書」だ。

異世界の調合師たちは、感覚と魔力濃度だけで薬を作る。だが、私にとってはこれこそが命の羅針盤だった。どんな未知の病態であっても、生化学と生理学の基本に立ち返れば、必ず打つべき手は見えてくる。


「よし……梱包完了。完璧ね」


トランクの頑丈な真鍮の留め金をパチンと鳴らして閉じた時、部屋の扉が控えめにノックされた。


「……エレナ様? 入ってもよろしいでしょうか……」


消え入りそうな声とともに扉を開けて入ってきたのは、薬草院で下働きをしている見習い調合師の少女、コリンナだった。後ろには、同じく下級研究員の青年たちが、まるで葬式にでも参列するかのような沈痛な面持ちで控えている。


「あら、コリンナ。どうしたの、こんな夜遅くに?」


私が屈託なく声をかけると、コリンナは私の足元にある大きなトランクを見て、わっと大粒の涙をこぼした。


「ううっ……エレナ様! 本当だったんですね……! ユルゲン筆頭から婚約を破棄されて、北の果てのハーディン領へ追放されるなんて……!」


「エレナ様、あんまりです!」


青年の研究員も、悔しげに拳を握りしめて訴えかけてくる。


「俺たちが研究室でミスをした時、いつも庇って正しい調合を教えてくれたのはエレナ様でした! ユルゲン様は手柄を独り占めにして、危険な劇薬ばかり作って……それを諫めたエレナ様を追い出すなんて、狂っています!」


「そうよ、あんな極寒の魔境に行かされるなんて、死刑宣告と同じですわ! ハーディン辺境伯は戦場で血を浴びすぎて正気を失った『氷血の狂犬』なんですよ!? 逆鱗に触れたら、即座に首を刎ねられて魔獣の餌にされるって噂です……!」


口々に私を憐れみ、涙を拭う後輩たち。

彼らの優しさは心から嬉しかった。私が三年間にわたって地道に教えてきた衛生管理や、生薬の下処理技術を、彼らはちゃんと理解してくれていたのだ。

だが――彼らの悲痛な表情と、私の内面の晴れやかさとの間には、いかんともしがたい温度差が存在していた。


「みんな、ありがとう。心配してくれて本当に嬉しいわ」


私はコリンナの肩を優しく抱き、ハンカチを差し出した。

そして、努めて穏やかな、しかし一点の曇りもない笑顔を浮かべる。


「でもね、泣く必要なんて全くないのよ? 私、すごく前向きなんだから」


「えっ……? ま、前向き……?」


コリンナが涙で濡れた目を丸くする。


「ええ。考えてもみてちょうだい。朝の五時から深夜まで泥まみれの薬草を洗わされることも、ユルゲン様の支離滅裂な実験の後片付けをさせられることも、ミレーヌ様のドレスを踏んだとか言われて嫌味をネチネチ言われることも、もう二度とないのよ? あっちに行けば、広大な自然の中で珍しい寒冷地生薬が採り放題だし、誰にも邪魔されずに研究ができるわ。これって、最高のリフレッシュ休暇じゃない?」


「リ……リフレッシュ……?」


部屋にいた全員が、ぽかんと口を開けてフリーズした。

無理もない。貴族社会において「辺境追放」とは破滅の代名詞だ。それを「休暇」と呼び、心底嬉しそうに目を輝かせている女など、歴史上存在しなかったに違いない。


「エ、エレナ様……ショックのあまり、お頭の魔力回路が狂ってしまわれたのでは……?」


「失礼ね、いたって正常よ。脈拍七十二、呼吸数十六、意識清明。至極健康です」


私はフフッと笑い、トランクの取っ手を握り直した。


「それより、みんなに遺言……じゃなくて、置き土産があるの。私の作業机の二番目の引き出しに、下級生薬の保管温度マニュアルと、残業を減らすための工程表をまとめておいたわ。ユルゲン様が無理な調合を言いつけてきたら、適当に理由をつけて定時で帰りなさい。あと、食事はちゃんと三食摂ること。胃が痛くなったら、私が置いていく『カモミールと甘草のティーバッグ』を煎じて飲むのよ。いいわね?」


「エ、エレナ様ぁぁっ……! こんな時まで俺たちの体調の心配をしてくださるなんて……!」


後輩たちが再び感極まって泣き崩れる。

完全に「悲劇の聖女」として殉教していく構図に見えているようだが、訂正するのも面倒なのでそのままにしておくことにした。ともあれ、引き継ぎはこれで完璧だ。


翌朝。

肌を刺すような冷たい朝霧が立ち込める中、私は薬草院の通用門をくぐり抜けた。

見送りに来てくれたのは、昨夜のコリンナたち数名だけ。ユルゲンやミレーヌは、今頃豪奢な天蓋付きベッドの中で優雅な夢でも見ていることだろう。清々しいことこの上ない。


王都の外郭門の前に停まっていたのは、北方の宿場町を経由してハーディン領へと向かう、定期の大型幌馬車だった。

頑丈な荷馬が四頭立てられた無骨な馬車で、乗客は毛皮を着込んだ商人や、北方の鉱山へ向かう屈強な鉱夫たちが数人。優雅な貴族令嬢の乗るような代物ではないが、今の私にはむしろ心地よかった。


「おいおい、お嬢ちゃん。本気でその馬車に乗るのかい?」


荷物を荷台へ積み込んでくれた壮年の御者が、毛糸の帽子を脱ぎながら呆れたように私を見た。


「行き先はハーディン辺境伯領の城下町だぞ? あそこは今、初雪が降って一面の銀世界だ。しかも……あそこの領主様は、王都じゃとんでもねえ噂で持ち切りだぜ」


「噂、ですか?」


私がトランクを座席の下に押し込みながら尋ねると、隣に座っていた古参の行商人が、声を潜めて身を乗り出してきた。


「ああ、知らねえのかい? 『氷血のジルヴェスタ』……帝国最強の武人だが、情け容赦のない冷酷非道の狂犬だ。刃向かう者は魔獣だろうが人間だろうが一刀両断。ここ数年は北方防壁にかかりきりで、一度も王都に顔を出さねえ」


「ええ、それくらいは聞き及んでいますけれど」


「問題は、その先だよ」


行商人は周囲を警戒するように視線を走らせ、さらに声を低くした。


「なんでも……昨冬の大規模な魔獣迎撃戦で、閣下は巨大な魔獣の爪に腹を抉られ、内臓をズタズタに食い破られたらしい。王都から高名な治癒術師や最高級のポーションが何百本も送り込まれたが、傷口が塞がるどころか、吐血を繰り返して日に日に衰弱しているそうだ」


「内臓を食い破られて……ポーションを何百本も?」


私の薬剤師レーダーが、不穏な警告音を鳴らし始めた。


「そうだ。もうとっくに死んでいてもおかしくねえ重傷なのに、強いポーションを無理やり胃に流し込んで、気合いだけで生き長らえているって話だ。だが、そのせいで激痛のあまり正気を失いかけていて、侍医が匙を投げたらその場で首を刎ねられるって噂だぜ。城の中はまるで死神の巣窟だ。あんな場所へ、か弱い令嬢が一人で調合師として赴任するなんて……命がいくつあっても足りねえよ」


御者と行商人が、心底気の毒そうに私を見つめる。

だが、私の頭の中で渦巻いていたのは、恐怖ではなかった。


(腹部外傷の既往……。そこへ、魔力濃度の高すぎる劇薬ポーションの大量かつ頻回投与……? 傷口の強制癒着による癒着性イレウス(腸閉塞)か? あるいは、過剰な魔力刺激による消化管潰瘍穿孔……? 吐血を繰り返しているということは、急性胃粘膜病変、もしくは食道静脈瘤の破裂……!?)


ぞっとするような病態の連鎖が、瞬時に脳内カルテへと書き出されていく。

それは「魔獣の呪い」などではない。

明らかな――医療過誤と、過剰投薬による重篤な薬害の兆候だった。


(死にかけているのは、魔獣の傷のせいじゃない。間違った治療で、内側から体を焼き尽くされているんだわ……!)


ガタゴト、と車輪が重い音を立てて軋み、馬車がゆっくりと前進を始めた。

王都の巨大な石造りの城壁が、車窓の向こうへと遠ざかっていく。


私はトランクの中の、丹精込めて調合した生薬と器具の感触を確かめるように、足先でそっと触れた。

冷酷非道の狂犬、余命幾許もない氷血の辺境伯。

世間がどう恐れていようと、関係ない。

もしその噂が真実なら――私の最初の仕事は、領地の統治者への挨拶ではない。


「待っていてください、ジルヴェスタ様」


吹き抜ける冷たい秋風を浴びながら、私は誰にも聞こえない声で静かに呟いた。


「ただちに、その無茶苦茶な処方を差し止めて差し上げますから」


有給休暇気分で始まった私の旅路は、想像以上に厄介で、そして腕の鳴る「重篤患者の救命ミッション」へと姿を変えつつあった。

馬車は北へ、白銀の吹雪が待ち受けるハーディン辺境伯領へと向かって、ひた走っていく。

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