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第1話:光らない薬は無価値? いいえ、その光は肝臓の悲鳴です

鼻腔をくすぐるはずの甘やかなハーブの薫香は、どこか尖った魔力刺激臭と、悪趣味な香油の匂いにかき消されていた。

王立薬草院、第一調合室。

天井の高い豪奢な石造りの部屋には、国中から集められた選りすぐりの硝子器具が並び、磨き上げられた白大理石の作業台が冷たい光を跳ね返している。

その部屋の中央で、筆頭錬金術師の肩書きを持つ私の婚約者――ユルゲン・フォン・ブラントは、天に掲げた細首のフラスコを愛おしそうに見つめていた。


「見よ、この息を呑むような輝きを! 我が叡智の結晶、神代の奇跡を再現した『ハイ・エーテルポーション』の完全体だ!」


ユルゲンの手の中で、液体が激しく青白い燐光を放っている。

まるでフラスコの内側に雷雲を閉じ込めたかのように、バチバチと魔力の火花が硝子を打っていた。直視すれば網膜を焼かれそうなほどの光量である。部屋を取り囲む弟子や研究員たちから、感嘆と追従の混ざり合った拍手が沸き起こる。


「素晴らしいですわ、ユルゲン様! こんなにも強く、眩い光……まるで天上の神々が宿っているかのようです!」


ユルゲンの腕にぴったりと身を寄せ、陶酔した声を上げたのは、豪奢な金糸のドレスに身を包んだ侯爵令嬢、ミレーヌだった。

艶やかに波打つ蜂蜜色の髪を揺らし、私の方へと勝ち誇った視線を投げてくる。その双眸には、明確な侮蔑と嘲笑の色が浮かんでいた。

対する私はといえば、使い込まれてところどころ薬草の渋がついた作業着に、麻のエプロン姿。髪は後ろで無造作に束ね、手元には先ほどまで煎じ詰めていた平底フラスコを抱えている。


「それに引き換え……まあ、見苦しいこと」


ミレーヌが、扇子の端で小さく私の手元を指した。


「ユルゲン様、あちらの泥水のようなものは何ですの? あんな濁った汚らしい液体、見ているだけでこちらの気分が悪くなりましてよ」


「ああ、気にするなミレーヌ。あれはただの出来損ないだ」


ユルゲンが吐き捨てるように言い、掲げていたフラスコを作業台の特等席へと置いた。そして、冷え切った青い瞳を私へと向ける。

その口元には、かつて私に向けられていた微かな敬意すら欠片も残っていなかった。あるのは、目障りな虫を払うかのような嗜虐的な冷酷さだけだ。


「エレナ・ノール。君には心底失望したよ」


室内のざわめきがすっと引いていく。

研究員たちが息を潜め、これから始まる見世物を楽しむように私を取り囲んだ。


「王立薬草院に籍を置きながら、君が半年かけて提出した成果がその濁った茶褐色の煎じ薬だと? 光の一筋も放たず、何の魔力も感じられぬただの草汁。我がブラント家の名を冠する研究室から、このようなゴミ同然の代物を出すなど言語道断だ」


「ユルゲン様。これはゴミなどではありません」


私は努めて冷静に、声を荒らげることなく返した。


「これは、長期服用を想定した胃粘膜保護および毛細血管の消炎鎮痛生薬です。極力魔力刺激を抑え、体内の自然治癒力を阻害しないよう、浸透圧と有効成分の抽出温度を分単位で管理して――」


「言い訳は聞き飽きた!」


ユルゲンの怒声が石壁に反響する。彼は私の言葉を途中で遮り、忌々しそうに手を振った。


「薬の価値とは何か! それは『劇的な奇跡』だ! 致命傷を負った騎士が一口呷れば、瞬時に傷が塞がり再び剣を握る。その圧倒的な結果こそが錬金術の神髄であり、大衆が薬草院に求めるものなのだ! 光らない薬など無価値だ。そんな地味な草汁で茶を濁すような無能な女は、我が薬草院には不要なのだよ」


「……即効性、ですか」


私は胸の奥で、深いため息を呑み込んだ。

前世の記憶が、脳裏をかすめる。


私の前世は、日本の総合病院で病棟担当と門前薬局を掛け持ちしていた臨床薬剤師だった。

朝から晩まで処方鑑査、医師への疑義照会、無菌調剤、服薬指導、そしてカルテの山。慢性的な人手不足の中、当直明けでそのまま日勤に入り、栄養ドリンクと頭痛薬を胃に流し込みながら働き続けた末、三十代半ばで過労死した。

気付いたときには、この剣と魔法の世界の男爵令嬢、エレナ・ノールとして転生していたのだ。


生まれ変わった私には、派手な攻撃魔術の才能はなかった。しかし、前世の医学・生化学の記憶と引き換えにするように、触れた植物や鉱石の薬理成分を分子レベルで直感把握できる「成分鑑定」という固有スキルが備わっていた。

だからこそ、この世界の医療観の狂気に、誰よりも早く気付いてしまったのだ。


「ユルゲン様。ではお伺いしますが、その『ハイ・エーテルポーション』を試作段階で服用した前線の騎士たちの、その後の追跡調査は行いましたか?」


「は? 追跡調査だと?」


「ええ。投与後一時間、二十四時間、一週間後のバイタルサインと血液、尿の状態です」


私の問いに、ユルゲンは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「そんな下らん暇があるか。飲んだ直後に裂傷が瞬時に癒着した、その事実だけで十分だ。兵士たちも『体が焼けるように熱くなり、力がみなぎる』と歓喜していたぞ!」


「それが危険なのです!」


私はフラスコを置き、一歩前へ踏み出した。白衣代わりに着ている作業着の胸元をぎゅっと握りしめる。これだけは、医療に携わる者として見過ごすわけにはいかなかった。


「体が焼けるように熱いのは、過剰な魔力刺激に対する急性のアナフィラキシー様反応です! 先ほど鑑定させていただきましたが、そのポーションは魔力濃度が高すぎるあまり、薬物の有効血中濃度を遥かに超えて『中毒域』に達しています!」


「な……中毒だと!?」


「はい! 高濃度の魔力で強引に細胞を分裂・癒着させれば、傷口の見た目は塞がります。ですがその代償として、代謝と解毒を担う肝臓と腎臓には致死的な過負荷がかかっているのです! 急激な筋線維の変性による横紋筋融解症、糸球体の閉塞、さらには胃粘膜の急速な融解……。そんなものを連用させれば、兵士たちは戦傷ではなく、急性多臓器不全で命を落とします!」


治療域と中毒域。

どんな名薬であっても、適正な用量を超えればただの毒になる。薬理学の祖パラケルススが遺した「すべての物質は毒であり、毒でないものはない。用量こそが毒と薬を区別する」という原則は、この世界でも例外ではないはずなのだ。


「その青白い光は、神の奇跡などではありません。過剰な魔素が体内で暴走し、内臓が悲鳴を上げている予告シグナルです! 直ちに前線への配備を中止し、動物実験からやり直すべきです!」


私が必死に訴え終えた調合室には、水を打ったような静けさが広がった。

しかし、それは納得の沈黙ではなかった。


「……ふっ、くくっ……あはははは!」


ユルゲンが腹を抱えて笑い出したのだ。ミレーヌも扇子の陰でくすくすと肩を揺らし、周囲の研究員たちからも侮蔑的な失笑が漏れ聞こえる。


「聞いたか、皆! 凡人が高みを見上げた時、口から出るのは哀れな妄想だけだという見本だな!」


「本当にお可哀想な方。ユルゲン様の天才的な偉業を理解できないばかりか、毒だなんて難癖をつけて足を引っ張ろうとするなんて……男爵家の貧しい生まれでは、高貴な魔力の恩寵が理解できませんのね」


ミレーヌの嘲笑に、ユルゲンが冷え切った視線で頷く。


「そうだ。即効性こそが正義であり、派手な光こそが人々に希望を与えるのだ。痛みに耐えて薬を飲み干すのが戦士の誉れ。それを内臓がどうのと……所詮、光る薬を作れない無能の負け惜しみだな。エレナ、君のその陰湿で臆病な性格には反吐が出る」


ユルゲンは懐から、一通の封蝋された羊皮紙を取り出した。

そして、部屋中に響き渡る声で宣告した。


「エレナ・ノール! 王立薬草院筆頭の権限において、本日付で貴様との婚約を破棄する! 我が妻となる栄誉に値するのは、高位貴族の血を引き、私の偉大な研究を理解し称えてくれるミレーヌただ一人だ!」


「まあ、ユルゲン様……!」


ミレーヌが頬を染めてユルゲンの胸に寄り添う。

二人の茶番劇を、私は冷めた目で見つめていた。胸が痛むかと問われれば、答えは否だった。

もともと親同士が決めた政略結婚であり、ユルゲンの傲慢さや研究データの杜撰さには前々から辟易していたのだ。前世の総合病院で、患者の話を聞かずに強い新薬をやたらと処方したがる尊大なヤブ医者を見ていた時の、あの胸糞の悪さと全く同じだった。


「婚約破棄の件、謹んで拝領いたします」


私が淡々と、一礼すら交えて答えると、ユルゲンは拍子抜けしたように眉をひそめた。もっと取り乱し、泣きすがる姿を期待していたのだろう。面白くなさそうに舌打ちをすると、手にした羊皮紙を私の胸元へと無造作に投げつけてきた。


バサリ、と音を立てて乾いた紙が私の足元に落ちる。


「そしてこれが、薬草院総監の署名が入った正式な辞令だ。君のような怠惰で無能な調合師を置いておく席は、この王都にはない。今日限りで貴様を王立薬草院から除籍、国外――いや、僻地へ追放とする!」


周囲の研究員たちが「当然だ」「追放だ」と野次を飛ばす。

私は静かに屈み、床に落ちた辞令を拾い上げた。

表面に押された真っ赤な封蝋を剥ぎ、記載された配属先へ視線を落とす。


『――北方国境守護軍駐留地・ハーディン辺境伯領 専属調合師ヲ命ズ』


その文字を目にした瞬間、背後で息を呑む気配がした。

ミレーヌが残酷な笑みを浮かべ、わざとらしく甲高い声で告げる。


「あらまあ……ハーディン辺境伯領ですって! あそこは年中吹雪が吹き荒れる極寒の魔境。しかも現在の領主ジルヴェスタ様は、人を人とも思わぬ『氷血の狂犬』と恐れられている武骨者ですわ。なんでも、前線で魔獣に内臓を食い破られて、すでに死にかけているとか……」


「そうだ」


ユルゲンが満足げに顎をしゃくった。


「あの気難しく残虐な辺境伯のもとへ行けばいい。無能な君にふさわしい配属先だ。せいぜい、その泥水のような草汁を死にかけの大男に飲ませて、不敬罪で首を刎ねられるがいい!」


嘲笑と罵声の嵐が、調合室を吹き抜けていく。

だが、私の心の中に湧き上がっていたのは、絶望でも恐怖でもなかった。

――ハーディン辺境伯領。

王都から馬車で北へ半月。極寒の大地、厳しい気候。

そして何より、王立薬草院の利権争いからも、貴族たちの不毛な社交界からも、何千キロも離れた最果ての地。


(……待って)


私は手の中の辞令を見つめながら、思考を巡らせた。

このブラック極まりない職場から、合法的に離脱できる。

毎日毎日、ユルゲンの尻拭いで基礎調合の下準備をさせられ、手柄を横取りされ、無意味な書類仕事に追われる日々からの解放。

しかも、辺境伯領への異動ということは、公務員としての異動手当と移動期間の給与は保証されるはずだ。


(有休……実質的な、長期有休消化なのでは……?)


思わず口元が緩みそうになるのを、私は必死に堪えた。

危ない。ここで笑い出したら、本当に頭がおかしくなったと思われてしまう。


「ユルゲン様、ミレーヌ様」


私は背筋をピンと伸ばし、しっかりと二人を見据えた。

澄んだ声で、明確に言い放つ。


「今まで大変お世話になりました。私の調合理念は、患者の生活と命を守るためのものです。見せかけの光で人を壊すような錬金術とは、最初から相容れなかったのだとよく分かりました」


「な、何だと……?」


「どうぞ、お二人でその素晴らしい『光る毒』を王都中に広めてくださいませ。……もっとも、その後の責任を誰が取ることになるのかは、存じ上げませんが」


「貴様っ、最後まで減らず口を……!」


顔を真っ赤にして激昂するユルゲンを綺麗に無視し、私は作業台の上にあった自分の私物――愛用の乳鉢と、丹精込めて作った胃粘膜保護の煎じ薬のフラスコを丁寧に布で包んだ。

そして、部屋にいた全員に向けて、淑女としての完璧なカーテシーを披露する。


「それでは皆様、ごきげんよう。お体を大切になさってくださいね。……特に、肝機能の数値にはお気をつけください」


静まり返る第一調合室に、私の履く革靴の乾いた足音だけが小気味よく響く。

振り返ることは一度もしなかった。


重い樫の木の扉を押し開けて廊下に出ると、王都の秋風が私の頬を撫でた。

見上げた空はどこまでも青く澄み渡っている。

手の中にあるのは、極寒の辺境への左遷辞令。

生きて戻った者はいないと噂される、死にかけの冷血公爵が治める北の最果て。


「……さてと」


私はエプロンを外し、前世から染み付いた職業人としての気合を入れ直すように、小さく息を吐いた。


「まずは部屋に戻って荷造りね。薬草の種子と乾燥標本、それから……あっちの寒さに耐えられるよう、ショウガと葛根に似た生薬をありったけ買い込まなくちゃ」

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