第4話:余命3日の氷血公爵、その脈拍は危険水域です
凍てついた石造りの回廊を、二組の足音が激しく叩いていた。
先を走るカイエン副団長の背中は、先ほどまでの怜悧な知性派の佇まいをかなぐり捨て、ただ主の死線を前にした一人の騎士として切迫していた。
私は麻のエプロンを翻し、重い調剤トランクの取っ手を固く握りしめながら、彼の背を追う。肺に吸い込む空気が一段と冷たく、重くなっていく。
「この先だ……! 城の最奥、主寝所……!」
カイエンが立ち止まったのは、黒鉄の補強が施された二重開きの巨大な樫の扉の前だった。
扉の両脇には、全身を漆黒の甲冑で固めた屈強な騎士が二名、彫像のように直立していた。だが、そのバイザーの奥の瞳は絶望に濁り、青ざめた唇を噛み締めている。彼らもまた、主が今まさに息絶えようとしていることを知っているのだ。
「カイエン副団長……! そ、その娘は……?」
「通せ! 王都から着任した調合師だ!」
カイエンの鋭い怒号に、騎士たちは一瞬の戸惑いを見せたものの、弾かれたように扉を押し開けた。
重厚な鉄の軋みとともに、室内の空気が廊下へと溢れ出てくる。
――ッ、これは……!
思わず、喉の奥が引き攣った。
鼻腔を殴りつけてきたのは、尋常ではない濃度の異臭だった。
新鮮な血の生臭さ。胃液が混ざり合った酸っぱい吐瀉物の腐敗臭。そして、それらを無理やり覆い隠そうとするかのように部屋中に立ち込める、高濃度魔力ポーション特有の、焦げ付いたオゾンのような暴力的な刺激臭。
部屋の明かりは絞られ、暖炉の炎だけが赤黒く揺らめいている。
豪奢な天蓋付きのベッドの周囲には、何十本もの空になった硝子瓶が転がっていた。そのどれもが、底に青や金の毒々しい魔力残渣をへばりつかせている。
「飲んでくだされ……! 頼みます、閣下、これを飲んでくだされ……!!」
寝台の脇から、掠れた老人の悲痛な叫びが響いていた。
白髪を振り乱し、豪奢な侍医のローブを着た老人が、震える手で一本のフラスコを握りしめている。フラスコの中で揺らめいているのは、眩いばかりの黄金の光を放つ液体――王都の市場で家が一軒建つと言われる、最高等級の「ハイ・メガロポーション」だ。
そして、その寝台の上に横たわっていたのが――この北方の主、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯だった。
(……なんて、身体……)
初見で私の息が止まりかけたのは、その圧倒的な存在感のためだった。
乱れた黒髪の下から覗く骨格は、見る者を威圧するほどに頑強で逞しい。胸板は分厚く、露出した腕の筋線維は太い鋼のように引き締まっている。前線で魔獣の群れを一人で薙ぎ払ってきたという武勇伝が、誇張ではないことを雄弁に物語る偉丈夫の肉体。
しかし――その強靭無比な器は、今まさに内側から崩壊を遂げようとしていた。
枕元には、洗面器一杯にぶちまけられた赤黒い吐血痕。
浅く刻まれる呼吸に合わせて、広い胸板が不自然に小刻みに震えている。
褐色の肌は浅黒く淀み、眼球の結膜と爪の生え際には、誰の目にも明らかな泥のような黄色――重度の黄疸の兆候が浮き彫りになっていた。
そして何より、あの筋骨隆々な男の唇が、酸素を失って毒々しい紫色――完全なチアノーゼへと変色していた。
「閣下……! これさえ胃に入れば……細胞が繋がり、傷が塞がります! 帝国最強のあなたが、こんなところで倒れてたまるものですか……! さあ、口をお開けになって……!」
老侍医――オットーが、無理やりジルヴェスタの青紫の唇を押し開き、金色の劇薬をその喉奥へと流し込もうとした。
「ぐっ……、あ……ッ!!」
その瞬間、ジルヴェスタの巨躯が、見えない雷に打たれたかのように弓なりに跳ね上がった。
喉から漏れ出たのは、人間が耐えうる限界を超えた苦痛の呻き。
首筋の血管が破裂しそうなほどに浮き上がり、筋骨隆々な手足が激しい強直性の痙攣を起こす。流し込まれた黄金の液体は、喉を通ることなく、胃から逆流した暗赤色の胃液とともに、ゴボリと口端から大量に噴き出された。
「ひぃっ……!? か、閣下! いけません、吐き出しては……!」
オットーの手から薬瓶が滑り落ちそうになる。
老侍医の顔は絶望に染まり、その目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ……神よ……! 最高峰の神薬ですら受け付けぬとは……! もう、手遅れだ……脈も乱れ、熱も下がらず、内臓が完全に腐り落ちておられる……。あと三日……いや、今夜を越せるかどうか……奇跡でも起きぬ限り、もう……!」
オットーが両手で顔を覆い、がっくりと膝をついた。
寝台のジルヴェスタは、荒い呼気を漏らしながら、焦点の定まらない紫の双眸で虚ろに天井を見つめている。
その瞳に宿っていたのは、激痛への恐怖ではなかった。
――ああ、ここまでか。
北方の盾として戦い続け、魔獣の牙に倒れるのではなく、病床で無様に果てることへの、冷え切った諦念。死を覚悟した武人の、救いようのない孤独だった。
その瞳を見た瞬間、私の脳内で何かがプツンと音を立てて弾け飛んだ。
(……ふざけないで)
諦める? 手遅れ? 奇跡を待つ?
臨床の現場で、バイタルも正確に取らずに患者を見捨てる言葉を吐く人間を、私は前世から何十人と見てきた。そして、その度に怒りで血を沸騰させてきたのだ。
奇跡に頼るな。神に祈るな。
目の前にまだ動いている心臓があるなら、医療従事者がやるべきことは一つしかない。
「どきなさいッ!!」
私の凛とした怒声が、静まり返った主寝室の天井を突き抜けた。
「な、何だ貴様は……!? 小娘が、ここは戦士の死に場所だぞ、無礼な真似を――!」
立ち上がろうとするオットーを、私はトランクを床に叩きつける勢いで押し退けた。
躊躇など一秒たりともなかった。
私は天蓋のカーテンを乱暴に払いのけ、ジルヴェスタの寝台の脇へと膝をついた。
「おい、何を……ッ!」
カイエンが後ろで息を呑むのを背中で制し、私は即座に白衣の袖をまくり上げた。
頭の中の思考は、すでに感情を排した冷徹な「トリアージ・モード」へと完全に切り替わっている。
「失礼します、触診に入ります!」
まず右手の人差し指と中指を、ジルヴェスタの左手首――橈骨動脈へ沈める。
……速い!
ト・ト・ト・ト・ト・ト……ッ!
一分間に百四十を超える異常な頻脈。しかも、規則正しく打っていたかと思えば、突然脈が飛び、二拍続けて乱れる。期外収縮の頻発、心室性不整脈の移行段階だ。
すかさず、空いた左手で彼の太い首筋へ手を伸ばし、総頸動脈の拍動の強さと左右差を確認する。脈波は糸のように細く、収縮期血圧は八十を切っている危険水域だ。
「頻脈、重度の脈拍欠損あり。不整脈の頻発……心筋への魔力毒性と電解質異常による刺激伝導系の破綻ね」
私の呟きに、ジルヴェスタの微かに開いた紫の瞳が、驚愕に揺れた。
だが私は構わず、親指で彼の右目の下瞼をぐっと引き下げた。
眼瞼結膜の視診。
本来なら鮮やかな赤みを持つはずの結膜は、真っ白に抜けていた。重度の失血性貧血。そして、強膜(白目の部分)は、濁った山吹色に染まりきっている。
「高度の黄疸、進行性の貧血……血中ビリルビン濃度が致死レベルまで跳ね上がっているわ」
「な……何をぶつぶつと……! 閣下の御体に気安く触れるでない、無礼者めが!」
オットーが喚き立て、私の肩を掴もうと手を伸ばしてくる。
私は振り返りもせず、その手を鋭く払いのけた。
「邪魔をしないで! 今、患者の全身状態をアセスメントしている最中です!」
「ヒッ……!?」
前世の救命救急センターで、パニックを起こした研修医を一喝する時の気迫がそのまま漏れ出た。老侍医が息を呑んで後退る。
私はジルヴェスタの寝巻きのボタンを容赦なく引きちぎるように外し、その鋼のような胸から腹部を露わにした。
そこには、かつて負ったであろう無数の刀傷や魔獣の爪痕が刻まれていた。
だが、問題は傷の跡ではない。
彼の引き締まっていたはずの腹部は、異様な緊張を帯びてパンパンに張っていた。
私は両手の掌を重ね、彼の右季肋部から心窩部(鳩尾)にかけて、ゆっくりと、しかし確実に圧迫を加えた。深部触診。
「っ……、ぐあああああっ……ッ!!」
あの歴戦の猛将が、声を殺しきれずに歯を食いしばり、全身を震わせて脂汗を噴き出させた。
腹壁が、まるで鉄板のように硬直して私の指先を跳ね返す。
「……筋性防御、板状硬。消化管穿孔寸前、急性腹膜炎の兆候……!」
指先を離すと、彼の巨躯が微かに痙攣を再開した。
両腕の筋肉が脱力し、指先をピクピクと跳ね上げるような不自然な動きを見せる。羽ばたき振戦。
アンモニアなどの毒素が脳へ達し始めている証拠――肝性脳症の第Ⅱ度からⅢ度への移行期だ。
私の脳内カルテに、すべてのパズルのピースが組み合わさり、戦慄すべき病態の全貌が組み上がった。
「……オットー侍医、カイエン副団長。よく聞きなさい」
私はジルヴェスタの額に浮いた冷や汗を乱暴に自分の袖で拭い、仁王立ちになって二人を睨みつけた。
「閣下が死にかけているのは、魔獣の爪のせいでも、呪いのせいでもありません」
「な……何を言うか! 魔獣の傷が塞がらぬから、閣下はお苦しみになっておられるのだ!」
「違います!」
私はオットーの反論を一刀両断にした。
「傷口はとっくに肉芽が形成され、表面上は塞がっています! 彼を殺しかけている真犯人は――『薬物性急性肝障害』および『重篤な急性腎不全』、そして過剰な魔力刺激によって引き起こされた『急性消化性潰瘍穿孔寸前』の多臓器不全です!!」
「や、やくぶつせい……!? きゅうせい、じん……!?」
オットーが目を白黒させ、口をパクパクと金魚のように開閉させる。
カイエンもまた、衝撃に眼鏡を取り落としそうになりながら立ち尽くしていた。
「高濃度の魔力ポーションは、細胞を魔力で無理やり癒着させる劇薬です! 短期間にそんなものを何十本も胃に流し込めば、胃粘膜は強酸と魔素の嵐で焼き爛れて大出血を起こし、分解と解毒を一手に引き受ける肝臓は細胞が壊死して機能を停止します! さらに、破壊された筋肉や血液の残渣が腎臓の微細なフィルターを目詰まりさせ、尿が出せなくなっている! 体内に毒素とアンモニアが充満し、全身の臓器が溺れかけているのよ!」
私の言葉は、医学的な事実の連打となって部屋に響き渡った。
異世界の人々が「奇跡の神薬」と信じて疑わないポーションが、生化学的にどれほど残虐な毒物としてジルヴェスタの肉体を破壊してきたか。
その残酷な真実を、私は容赦なく突きつけた。
「傷を治すための魔力が、彼の体を内側から焼き尽くしている。……この人は、病気で死ぬんじゃない。あなたたちが善意で飲ませ続けた『ポーションの過剰投与』によって、殺されかけているんです!」
「ば、莫迦な……! そんなはずがあるか!」
オットーが真っ赤な顔をして叫んだ。長年培ってきた侍医としての誇りを、ぽっと出の小娘に根底から否定されたのだ。受け入れられるはずがなかった。
「王都から届いたこのポーションは、金貨百枚もする最高峰の品だぞ! 王立薬草院の天才、ユルゲン筆頭錬金術師様が精製された至高の霊薬だ! これを飲ませずして、どうやって閣下の命を繋ぐというのだ! 現に、これを飲ませた直後は傷の痛みが消え、閣下はお立ちになられたのだぞ!」
「それは痛みが消えたのではなく、神経が麻痺しただけです! 末期の患者に劇薬を打って一時的に暴れさせているのと何ら変わりません!」
私はベッドの上のジルヴェスタを見下ろした。
荒い息の下で、男の紫の瞳が、じっと私を捉えていた。
意識は朦朧としているはずなのに、その眼差しには、周囲の喧騒を突き抜けて私の魂を品定めするかのような、冷徹で研ぎ澄まされた光が宿っていた。
――この女は、何者だ?
そう問いかけているかのような、底知れない瞳。
私は彼から目を逸らさず、その大きな、冷たく汗ばんだ右手を両手でぎゅっと握りしめた。
無礼だとか、公爵への不敬だとか、そんなものは知ったことではない。
今、この瞬間、彼は帝国最強の猛将などではない。
間違った治療の犠牲になり、たった一人で激痛の暗闇に取り残された、私の担当患者なのだ。
「ジルヴェスタ様」
私は、彼の耳元へ届くよう、澄んだ声で語りかけた。
「痛かったでしょう。苦しかったでしょう。……体の中で火が燃え盛っているような、息をするのも嫌になるような苦痛の中で、よくここまで耐えてこられましたね」
ピク、とジルヴェスタの眉間が動いた。
紫の瞳が、微かに見開かれる。
これまで彼にかけられてきた言葉は、「お立ち寄りください」「戦ってください」「死なないでください」という、武人としての重圧ばかりだったはずだ。
自分の内臓の痛みを、誰にも言えなかった地獄を、そのまま言い当てられ、労われたことなど、この男の人生に一度たりともなかったに違いない。
「もう、あんな毒を無理に飲む必要はありません。……私が、絶対にあなたを死なせませんから」
ジルヴェスタの喉から、掠れた空気の音が漏れた。
それが拒絶なのか、微かな安堵なのかは分からない。
だが、その冷え切った指先が、私の手を微かに握り返そうとするかのようにピクリと動いたのを、私の掌は確かに感じ取っていた。
しかし――その静寂を破るように、背後でカチャリと硝子の擦れ合う音が響いた。
「ええい、小娘の戯言など聞いておられん!」
オットーが、狂気じみた形相で床から新しいフラスコを拾い上げていた。
青白く、そして金色の光が混ざり合う、最高濃度の劇薬ポーション。
老侍医は震える手で栓を抜き、ジルヴェスタの口元へと突進してきた。
「飲んでくだされ閣下! この小娘に騙されてはなりませぬ! これを飲まねば、今度こそ心臓が止まってしまいますぞ! さあ、一気に――!!」
「やめなさいッ!!」
私の身体は、思考よりも速く動いていた。
前世の病棟で、誤薬事故を身体を張って防いだあの数え切れない瞬間と同じように。
私は振り返りざま、踏み込んできたオットーの右前腕を、下から躊躇なく払いのけた。
パシィィィンッ!!
乾いた鋭い破裂音が、静まり返った主寝室に響き渡る。
「ああっ……!?」
オットーの手から放り出された黄金のフラスコが、宙を舞った。
美しい放物線を描き、暖炉の前の石床へと激突する。
ガシャァァァンッッ!!!!
耳朶を劈く甲高い破砕音。
金貨百枚に相当する最高級の霊薬が、飛び散った無数の硝子片とともに、黒ずんだ石畳の上でジュウジュウと不気味な泡を立てて広がっていく。床の隙間に染み込んだ液体から、立ち込める刺激臭とオゾンの煙。
「な……な、何を……ッ!?」
オットーが絶句し、腰を抜かして床にへたり込んだ。
部屋の外で控えていた護衛の騎士たちが、剣の鞘を鳴らして血相を変えて飛び込んでくる。カイエンもまた、信じられないものを見る目で目を見張っていた。
だが、部屋の誰よりも冷徹で、誰よりも激しい怒気を纏っていたのは、私だった。
飛び散った硝子の破片を踏み越え、私はへたり込む侍医と、呆然とする騎士たちを見下ろした。
肩で息をしながら、白衣の裾を握りしめ、絶対零度の声で言い放つ。
「これ以上、その劇薬をこの人に飲ませたら――今夜中に、間違いなく死にますよ!」
主寝室の空気が、完全に凍りついた。




