第27話:温感シップで極楽往生! 買収された(物理)監査官
新薬学研究室の一角に設えられた清潔な診察台の上で、王都財務省特命筆頭監査官バルトロメ・フォン・グラツィア卿は、完全にまな板の上の鯉と化していた。
豪奢な銀狐の毛皮外套は剥ぎ取られ、上等なベルベットの上着は捲り上げられ、露わになった腰回りは寒冷と激痛のショックでガタガタと痙攣している。
平らな診察台にうつ伏せに固定され、顔だけを横に向けて必死に私を睨み上げるその表情には、激痛への恐怖と、官僚特有の傲慢な猜疑心が醜く入り混じっていた。
「き、貴様……何を企んでいる……! その赤い布は何だ! 湯気が出ているではないか! 私を……私を焼き殺す気か! 謀ったな、ハーディン辺境伯! 王都の特使を謀殺したとあれば、反逆罪で一族郎党ギロチン台送りだぞッ!!」
唾を撒き散らしながら喚き立てる監査官。
部屋の隅の壁に背を預け、腕を組んで見下ろしていたジルヴェスタ様が、紫の双眸をすっと細め、地を這うような低い声で吐き捨てた。
「黙れ、喚く豚が。……エレナの手を煩わせるまでもない。今すぐその首を刎ねて、雪山に放り投げてやろうか」
「ヒィッ……!?」
ジルヴェスタ様が漆黒の大剣の鍔をカチャリと親指で弾いた瞬間、バルトロメは喉をヒュッと詰まらせて硬直した。
その横で、副団長カイエンが手帳を開いたまま、怜悧な眼鏡の奥の瞳で冷ややかに見下ろす。
「バルトロメ卿。お言葉ですが、我が領の専属調合師エレナ殿は、今まさにあなたの生命活動と運動機能を救うために善意で介入してくださっているのですよ。医療妨害および名誉毀損で公式な抗議文書を財務卿閣下へ提出してもよろしいのですよ?」
「う……ぐ……、き、貴様ら全員……覚えていろ……っ!」
脂汗を流しながら歯を食いしばるバルトロメ。
男たちの小競り合いを背中で受け流しながら、私は白衣の腕をしっかりと捲り上げ、蒸留器の上の特製湯沸かし釜から立ち上る蒸気を見つめていた。
「バルトロメ監査官、無駄口を叩いていると舌を噛みますよ。深呼吸をして、吐く息を長くしなさい」
私が手に持っていたのは、桐の木箱から取り出したばかりの、血のように深紅に染まった特製布――「温感生薬湿布」だった。
第一部隊の騎士たちに配ったあの「冷感消炎湿布」とは、配合されている生薬の設計思想が根本から異なっている。
「オットー先生、蒸気による活性化の進み具合はどうですか?」
「ハッ! 師匠、完璧でございますぞ! 八十度の微細蒸気を三十秒間均一に当てることで、パラフィンワックスと親水性軟膏ベースが適度に軟化し、生薬エキスがいつでも皮膚角質層へと浸透できる臨界状態に達しております!」
白髪を振り乱した老侍医オットーが、手製の木製トングを使って、蒸気を浴びてツヤツヤと輝く深紅の湿布を掲げて見せた。
室内に満ちるのは、ツンと鼻腔の奥を心地よく刺激する、暴力的なまでにスパイシーで熱狂的な芳香。
北方の原生林に自生する野性の唐辛子類似植物から高純度抽出した辛味成分――カプサイシン。
それに加えて、血管を力強く拡張させる生姜エキス、筋肉の強張りを解く葛根配糖体、そして古血を散らす当帰の精油成分が、高分子ゲルの中に高密度で練り込まれていた。
「ひっ……! 何だその強烈な匂いは……! 鼻が、鼻がもげそうだぞ! 毒だ、間違いなく毒の類だぁぁっ!」
「毒ではありません、生薬の有効成分です」
私はオットーからトングを受け取り、深紅の布を両手でピンと張り広げた。
「いいですか、バルトロメ監査官。冷感湿布が『炎症の火消し』であるならば、この温感湿布は『凍結した筋肉を溶かす太陽』です。急性腰痛症の初期において、患部は激しい筋攣縮を起こし、毛細血管が極限まで圧迫されて酸欠状態に陥っています。この悪循環を断ち切るには、深部からの血流再開と、神経伝達の物理的遮断が不可欠なのです」
「し、神経の遮断……!? 感覚を麻痺させて殺す気か!?」
「麻痺させるのではなく、痛みの伝達物質を枯渇させるのです」
私はバルトロメの腰背部――右の腸骨稜のすぐ上、盛り上がって岩のように硬直している「腰方形筋」と「最長筋」の筋膜交差点へと、狙いを定めた。
「現代薬理学における至高のメカニズム――『カプサイシンによるTRPV1受容体の刺激、およびサブスタンスPの枯渇』です!」
「てぃー……あーる……さぶすたんす……!? また意味の分からん呪文をぉぉっ!」
「人間の知覚神経の末端には、『TRPV1』という、熱と痛みを感知する受容体が存在します。この温感湿布に配合されたカプサイシンがTRPV1受容体に結合すると、神経細胞は一瞬だけ『強烈な熱』を感じます。しかし、その刺激が継続すると、痛みを脳へと伝える神経伝達物質――『サブスタンスP』が神経終末から一気に放出され尽くし、完全に底をつくのです! 痛みを運ぶトラックの燃料が空っぽになるようなもの。その結果、神経は痛みのシグナルを脳へ送ることができなくなり、長時間の強力な鎮痛効果が発揮されるのです!」
さらに私は、生化学のロジックを畳み掛けた。
「同時に、神経から放出されたカルシトニン遺伝子関連ペプチド(CGRP)が、周囲の血管平滑筋を強力に弛緩させます! 過緊張でペシャンコに潰れていた毛細血管が一気に押し広げられ、患部に温かい動脈血が怒涛のように流れ込む! 虚血によって蓄積していた発痛物質ブラジキニンや乳酸が洗い流され、カチコチに凍りついていた筋肉が、内側からふわりと解きほぐされるのです!」
「わ、訳の分からん講釈はいい! やめろ、それを近づけるな! 触るな、触るなあああっ!」
喚き散らすバルトロメ。
だが、臨床薬剤師エレナ・ノールに、治療の中断という選択肢は存在しない。
「暴れないでください、貼る位置がズレます! ……いきますよ!」
「ぎゃああああっ、来るなぁぁぁぁっ――」
バルトロメの絶叫が木霊する中。
私の両手によって、湯気を上げる深紅の温感湿布が――。
ピタァァァァァァンッッッッ!!!!
小気味のいい炸裂音とともに、カチコチに盛り上がった右の腰方形筋の真上へと、寸分の狂いもなく密着させられた。
「ぎゃあああああああああっっっっっ熱っっっっっっっっっっっっっっっっっっ!?!?!?!?!?!?」
診察室の天井が吹き飛ぶかのような、凄まじい断末魔が響き渡った。
バルトロメの細身の身体が、まるで熱湯を浴びせられた魚のように診察台の上でピチピチと跳ね上がる。
「あ、熱い! 燃える! 焼けるぅぅぅっ! 背中に炭火を押し付けられたぁぁっ! 皮膚が……皮膚が炭になって剥がれ落ちるぅぅぅっ!!」
涙と鼻水を撒き散らしながら、爪を立てて診察台のシーツをかきむしる監査官。
だが、私は動じない。すかさずオットーに指示を飛ばす。
「オットー先生、保温用の分厚い羊毛毛布を上から被せなさい! 熱を外へ逃がしてはいけません!」
「ハッ! 二重毛布による密閉保温でございますな!」
バサリ、と分厚い毛布がバルトロメの背中から腰、下半身全体へと被せられた。
外部の冷気を完全に遮断し、カプサイシンの局所血管拡張作用をブーストさせる「密封包帯療法(ODT)」の応用だ。
「熱い! 殺される! 降ろせ、ここから出せぇぇぇっ!」
毛布の下で芋虫のように身をよじって暴れるバルトロメ。
私は毛布の上から、彼の腰の両脇をしっかりと両手で押さえつけた。
「三十秒です! 三十秒だけ我慢しなさい! TRPV1受容体が反応し、サブスタンスPが燃え尽きるまでの時間です! 男なら歯を食いしばりなさい!」
「ぎ、ぎぎぎ……三十秒……!? 熱い……死ぬ……十、十一……くそっ、皮膚が……溶けるぅぅぅ……」
必死に数を数え始めるバルトロメ。
部屋の隅で見ていたバルツが、「へっ、俺の時の冷感湿布と全く同じリアクションだな」と鼻で笑い、ジルヴェスタ様は「……騒々しい奴だ」と呆れたように眉を寄せていた。
――十五秒。
カプサイシンの刺激が、知覚神経の末端を激しく叩く。
激痛と熱感のピーク。
しかし、毛布の下で、目に見えない生化学の奇跡がすでに始まっていた。
知覚神経の末端から、痛覚伝達物質サブスタンスPが爆発的に放出され、瞬く間にその貯蔵プールが空っぽになっていく。
――二十秒。
神経が痛みのシグナルを脳へ送れなくなるのと同時に、強力な血管拡張ペプチドが毛細血管へと浸透する。
ギュッと縮こまっていた血管の蛇口が一気に全開になり、温かい血液が、乾ききった大地に雪解け水が流れ込むように、ガチガチに固まっていた筋線維の間隙へと雪崩れ込んでいく。
そして――三十秒。
「……にじゅうはち……にじゅうきゅう……さ、さんじゅ……」
バルトロメの悲鳴が、ふっと途切れた。
毛布の下でバタバタと暴れていた足の動きが、ピタリと止まる。
「……おい、息絶えたか?」
バルツが怪訝そうに覗き込んだ、その時だった。
「……あ……」
毛布の端から、バルトロメの顔がゆっくりと覗いた。
その表情は――先ほどまでの激痛と恐怖に引き攣ったものとは、完全に別世界のものだった。
白粉が剥げ落ちた青白い頬に、ポッと桜色の健康的な紅潮が差している。
見開かれていた瞳は、まるで極上の酒を煽ったかのようにトロリと蕩け、半開きになった薄い唇からは、魂が抜けたような間抜けな吐息が漏れていた。
「……あ……れ……?」
バルトロメが、うわ言のように呟いた。
「……熱い……のに……痛く、ない……?」
「ええ、痛覚の伝達がブロックされ、深部血管が拡張したのです」
私が毛布越しに優しく声をかけると、バルトロメは恐る恐る、自らの右手を腰へと滑り込ませた。
毛布の下の深紅の湿布から、じんわりと、どこまでも深く、優しい温もりが腰骨の奥底へと染み渡っていた。
「な……何だ、これは……?」
バルトロメの身体が、震えた。
激痛による震えではない。
生まれて初めて味わう、圧倒的な「快楽」と「解放」による戦慄。
「温かい……。燃えるような熱さだったはずなのに……今は、まるで……最高級の天然温泉の湯船に、腰の奥底までどっぷりと浸かっているような……」
バルトロメの腰方形筋を万力のように締め上げていた、あの忌まわしい筋攣縮。
それが――まるで春の陽光を浴びた残雪のように、跡形もなく、ジュワリと音を立てて溶け去っていく。
血が巡る。
王都を出発してから二週間、ガタガタと揺れる粗悪な馬車の中で、冷えと疲労に苛まれ、鉛のように重く強張っていた下半身の筋肉すべてに、温かい命の血潮がドクドクと注ぎ込まれていく。
「うあああぁぁぁぁ……っ……」
バルトロメの喉から、男とは思えない艶っぽい嬌声が漏れ出た。
両手の指先がシーツを弱々しく掴み、顔面が完全に崩壊していく。
「温かい……痛みが……あの、針で刺されるようだった激痛が……溶けていく……! 腰が……腰が羽のように軽い……! 極楽じゃあぁぁ……ここは天国か……私は極楽往生したのかぁぁぁっ……!!」
診察台の上で、王都の特命筆頭監査官が、完全に蕩けた軟体動物のようにグニャグニャと悶絶していた。
尊大な態度も、冷酷な眼光も、他者を見下すプライドも、すべてがカプサイシンの温熱の海の中へと綺麗さっぱり溶けて消え去っていた。
そのあまりに無様で、だが至福に満ちた表情に、部屋にいた男たちが一斉に絶句する。
「……おいおい、嘘だろ……」
バルツが顎が外れんばかりに口を開けた。
「あの嫌味ったらしい野郎が、まるで酒樽に落っこちたタコみてえな顔してやがるぞ……」
「ふむ……」
カイエンが手帳を閉じ、眼鏡の奥で冷徹な笑みを深めた。
「『買収された』という言葉がありますが……まさか、物理的な温熱刺激によって精神まで買収されるとは。エレナ様の処方箋は、いかなる軍略よりも恐ろしいですね」
「……全くだ」
ジルヴェスタ様も大剣から手を離し、心底呆れたように肩をすくめていた。
◇
それから三十分後。
急性期の筋攣縮が完全に解け、自力で診察台から起き上がれるようになったバルトロメは、研究室の応接スペースにある革張りの長椅子に、深々と腰掛けていた。
その姿には、城門に到着した時のあのトゲトゲしい威圧感など、微塵も残っていなかった。
腰にはしっかりと深紅の温感湿布が貼られ、その上から腹巻きのようにリネン布が巻かれている。
手には、私が淹れて差し上げた、血行促進作用のある生姜とシナモン、そして胃腸を整えるカモミールをブレンドした温かいハーブティーのカップ。
「……ズズッ……。ふぅぅぅ……美味い……。五臓六腑に染み渡る……」
バルトロメはカップを両手で包み込み、湯気を鼻から吸い込みながら、深いため息をついた。
背筋はピンと伸び、先ほどまでの「くの字」に曲がった無様な姿勢はどこへやら、完璧に滑らかな立ち居振る舞いを取り戻している。
「バルトロメ監査官。腰の痛みはいかがですか?」
私が向かいの椅子に腰掛け、カルテを膝に乗せて尋ねると、バルトロメはハッと我に返ったようにカップを置き、居住まいを正した。
そして――。
ボロボロと。
その落ち窪んだ目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出したのだ。
「あ……あの……バルトロメ卿……?」
「エレナ様ァァァッッッ!!!!」
ドサァッッッ!!!!
「きゃあっ!?」
突然、バルトロメが長椅子から滑り落ち、私の足元の絨毯へと膝をついた。
そして、床板が割れんばかりの勢いで、深々と額を擦り付けたのだ。
完全無欠の土下座。
王都財務省の特命筆頭監査官が、追放されたはずの男爵令嬢の靴先に向かって、涙と鼻水を流しながら平伏していた。
「も、申し訳ございませんでしたぁぁぁっ! 私は……私は何という愚かな、節穴の老いぼれであったか……!!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 顔を上げてください、腰に負担がかかります!」
「上げられませぬッ! 顔など上げられるはずがございませぬ!」
バルトロメは床に額を押し付けたまま、慟哭するように叫んだ。
「王都を出発する前、筆頭錬金術師ユルゲン殿から『エレナは無能のくせに怪しげな薬で民を騙している、厳罰に処せ』と吹き込まれ……私はそれを鵜呑みにして、あなた様を罪人として裁く気満々で参ったのです! それなのに……それなのに、あなた様は……!」
バルトロメは自らの腰に手を当て、震える声で続けた。
「敵意剥き出しで現れ、無礼な暴言を吐き散らしたこの愚劣な私を……見捨てるどころか、その類まれなる神技の医術をもって、地獄の激痛から救い出してくださいました……! あんなにカチコチだった私の腰が、羽が生えたように軽くなり……温かいお茶まで振る舞ってくださって……! 疑う余地など微塵もございません! あなた様こそ、真の慈愛をお持ちの、王国の生ける宝でございます……!!」
完全に、骨抜きにされていた。
激痛からの劇的な解放、人体の仕組みを解き明かされた知的な納得感、そして敵にすら慈悲を注ぐエレナの高潔なプロ意識。
その三連撃を食らった傲慢な官僚の心は、完全に粉々に粉砕され、純度百パーセントの崇拝へと転がり落ちていたのだ。
「バルトロメ卿、お気持ちは分かりましたから、まずは座ってください。冷たい床の上に跪いていては、せっかく温まった腰がまた冷えてしまいます」
「ハッ! 直ちに座りまする!」
バルトロメは飛び起きるように長椅子へと戻り、直立不動の姿勢で私を見つめた。
そして、胸元から一枚の豪奢な羊皮紙の巻物――王都へ送るための「公式監査報告書」を素早く取り出し、羽ペンを握りしめた。
「エレナ様! このバルトロメ、命に代えてもあなた様とこの薬局をお守りいたしますぞ! 王都への報告書には、こう書いておきます!」
バルトロメは猛烈な勢いでペンを走らせ、涙声で読み上げた。
『査察結果:ハーディン辺境伯領公認・エレナ薬局は、極めて高度かつ合理的生化学理論に基づく、模範的な民生支援・医療拠点である。一切の不正・違法調合の事実は認められず、むしろ王国の医療水準を百歩先んずる至高の国宝施設であると断定する。王立薬草院ユルゲンによる告発は、完全なる事実無根の讒言であり、速やかに却下されるべし!』
「……これで、よろしいでしょうか、エレナ様!?」
上目遣いで、まるでご主人様に褒めてほしい子犬のように私を見つめてくる監査官。
背後で見ていたカイエンが、手帳に何かを書き込みながら、フッと口元を歪めた。
「……完璧ですね。財務省の筆頭監査官がここまで絶賛の墨付きを与えれば、王都のいかなる貴族も、エレナ薬局に手出しすることは法的に不可能となります」
「うむ。苦しゅうない」
ジルヴェスタ様が腕を組み、満足げに小さく頷いた。
「バルトロメ卿。貴様の腰の養生のため、城内の最上級の客室を用意させよう。一週間ほど滞在し、エレナの処方箋に従って湯治をしていくがいい」
「ははぁっ! 身に余る光栄にございます、辺境伯閣下! 一生、ハーディン家とエレナ様にご恩をお返しいたしますぞ!」
こうして、王都から送り込まれてきた最大の脅威であったはずの特命監査官は――たった一枚の温感湿布によって、完璧に「買収(物理)」され、エレナの最強の味方兼信徒へと鞍替えを遂げたのだった。
◇
バルトロメが従者たちに付き添われ、歓喜の涙を流しながら客室へと案内されていった後。
静まり返った研究室の片隅で、私はホッと深く息を吐き、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「ふぅ……。何とか丸く収まってよかったわね」
「丸く収まったというよりは、完全に手なずけたと言うべきだがな」
ジルヴェスタ様が歩み寄り、私の肩にポンと大きな手を置いた。
その紫の瞳には、先ほどまでの冷徹な威圧感は欠片もなく、誇らしさと、隠しようもない甘やかな熱情が宿っていた。
「お前は本当に、私の予想を遥かに超えていく。剣を交えることもなく、王都の権力機構の牙を根こそぎへし折ってみせるとはな。……やはり、お前を手放す気など微塵も起きん」
「も、もう……ジルヴェスタ様、大袈裟ですよ。私はただ、患者さんのぎっくり腰を治しただけですってば」
私が顔を赤らめてそっぽを向くと、ジルヴェスタ様は低く楽しげに喉を鳴らして笑った。
――その時だった。
「くぅ……ん」
足元から、小さく甘えたような鳴き声が聞こえた。
見下ろすと、そこには銀色に輝く毛並みを持つ聖獣の仔、テオが座っていた。
先ほどの監査官の騒動の間、部屋の隅の影からじっと事の顛末を見届けていた賢い相棒。
テオはつぶらな金色の瞳をキラキラと輝かせ、誇らしげにふさふさの尻尾をパタパタと床に打ち付けていた。
「テオ? どうしたの、お腹が空いたのかしら?」
私がしゃがみ込んで頭を撫でてやろうとした、その瞬間。
「わふっ!」
テオは私の手をするりと身軽にかわすと、私の白衣の裾――エプロンの端を、小さな口でキュッとくわえ込んだのだ。
そして、グイ、グイと、力強く引っ張り始めた。
「えっ……? テオ? 引っ張っちゃ駄目よ、破れちゃうわ」
「きゅぅぅん!」
テオは裾をくわえたまま、研究室の開け放たれた窓枠へと向かって後ずさり、首を振って外を指し示すような仕草を見せた。
窓の外に広がるのは――ハーディン城の背後に聳え立つ、万年雪をいただく北方霊峰。
そして、その裾野に広がる原生林――「氷霧の森」の、深い深い奥地だった。
「……テオ?」
ジルヴェスタ様が眉をひそめ、窓辺へと歩み寄った。
「森の方へ行きたがっているのか……? 何か、見せたいものでもあるのか」
「わふんっ!」
ジルヴェスタ様の言葉を理解したかのように、テオは力強く一度鳴き、窓枠の上にピョンと飛び乗った。
そして、振り返って私をじっと見つめ、早く来いとばかりに短い前足をトントンと打ち鳴らしたのだ。
その金色の瞳には――以前、命を救われた直後に見せたあの恩返しの光よりも、遥かに強く、神秘的な輝きが宿っていた。
「……行ってみましょう、ジルヴェスタ様」
私の胸の中で、薬剤師としての直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。
聖獣の仔が、これほどまでに執拗に森の奥へと誘う理由。
それは単なる散歩や遊びなどではない。
この極寒の要塞都市を、そして世界の薬学の歴史を根底から覆す――途方もない「奇跡」との遭遇を予感させていたのだった。




