第26話:王都から嫌味な監査官が来訪。「……ところで腰、痛くないですか?」
ゴォォォォ……と、北方の空から吹き下ろす凍てつく突風が、城門の上に掲げられたハーディン辺境伯家の黒地百舌鳥の旗を激しく揺らしていた。
跳ね橋を軋ませながら進入してきたのは、この極寒の魔境にはあまりにも不釣り合いな、豪奢を極めた一台の大型馬車だった。
車体は黒漆で艶やかに磨き上げられ、窓枠や車軸には惜しげもなく金箔が施されている。車輪は雪道用の鉄輪ではなく、王都の整えられた石畳を走るための華奢なスポーク造り。その扉の中央には、燦然と輝く王家の紋章――三つ咲きの百合と、財務省の天秤の刻印が刻まれていた。
「……ずいぶんと派手な棺桶が到着したようだな」
城門の内庭、凍結した広場の中央で、ジルヴェスタ様が低く唸るように呟いた。
漆黒の毛皮外套を羽織り、腰の大剣に手をかけたその立ち姿は、まるで雪山に君臨する黒豹そのもの。紫の双眸は研ぎ澄まされた氷の切っ先のように細められ、馬車を取り囲む護衛の衛兵たちを一人残らず威圧していた。
その両脇には、手帳を開いたまま怜悧な眼光を放つ副団長カイエン、そして「いつでも叩き斬れますぜ」とばかりに大剣を肩に担いで仁王立ちする第一部隊長バルツ。
そして――白衣のポケットに両手を突っ込み、首元に羊毛マフラーを巻いた私と、足元で「グルル……」と喉を鳴らして警戒態勢を取る仔獣テオ。
「エレナ、私の背後に下がっていろ。王都の官吏など、言葉を交わす価値もない害虫だ。無礼な口を利いた瞬間、首を刎ねて馬車ごと送り返す」
「ジルヴェスタ様、物騒なことを言わないでください。相手は王室直属の監査官ですよ。正当な手続きを踏んでいれば、法的にこちらに非はありません。……もっとも、うちの調剤台帳も領地会計も、カイエン副団長が完璧に仕上げてくださっていますから、突っつきようがないはずですけれど」
「ええ、エレナ様の仰る通りです。帳簿の改ざんや使途不明金など一銅貨たりとも存在しません。もし因縁をつけてくるようなら、行政訴訟の場で徹底的に叩き潰す準備は整っております」
カイエンが眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、完璧な事務屋の冷笑を浮かべる。
そう、私たちの陣営には何の後ろめたさもないのだ。
やがて、馬車がギギギと重い車輪の軋みを上げて停車した。
従者が恭しく駆け寄り、折り畳み式のステップを雪の上に下ろす。
扉が開かれ、中からゆっくりと姿を現したのは――見るからに神経質そうな、細身の男だった。
年齢は四十代半ば。仕立ての良い王都流行のベルベットの上着の上に、銀狐の分厚い毛皮を何重にも巻きつけ、胸元には大粒の真珠のタイピンが揺れている。白粉を塗りたくった青白い肌に、落ち窪んだ目、そして他者を見下すことに慣れきった薄い唇。
王都財務省・特命筆頭監査官、バルトロメ・フォン・グラツィア卿。
バルトロメはステップを降り、極寒の北風がその頬を撫でた瞬間、ひどく露骨に「ヒィッ」と顔を歪めて鼻をハンカチで覆った。
「……ええい、何という野蛮で不潔な空気だ。肺が凍りついて腐ってしまいそうではないか。王都を出てから二週間、ガタガタと揺れるだけの泥道を延々と走らされ、この私がなぜこのような寒村くんだりまで足を運ばねばならんのだ」
初手からの凄まじい暴言。
出迎えた城の衛兵たちのこめかみに青筋が浮かび、バルツが大剣を握り直す音がギリリと鳴った。
だが、バルトロメは周囲の殺気など意に介さない様子で、手にした金文字の巻物をこれ見よがしに広げると、ジルヴェスタ様へ、そして背後にいた私へと、ねちっこい視線をねめつけてきた。
「ハーディン辺境伯。貴殿が最果ての警備に明け暮れるのは勝手だが、足元の管理がずいぶんと杜撰なようだ。……王都の王立薬草院より、極めて遺憾かつ重大な告発が財務省へと届けられた」
「……何だと?」
ジルヴェスタ様の絶対零度の声。
バルトロメは嫌味たらしい笑みを浮かべ、巻物をペラリと指先で弾いた。
「先の薬草院筆頭錬金術師ユルゲン殿の婚約者でありながら、無能の烙印を押されて追放された男爵令嬢エレナ・ノール。……その小娘が、辺境伯の威光を傘に着て、無認可の怪しげな泥水を『奇跡の薬』と偽って領民や貴族に売り捌き、法外な暴利を貪っているとの告発だ」
「……言わせておけば」
カイエンが前に出ようとしたが、バルトロメは尊大に顎を跳ね上げて遮った。
「黙りたまえ、副団長。王都の市場を無視し、正規の魔力流通税も納めず、さらには地方貴族のサロンを唆して王立薬草院の認可ポーションを排斥せしめた罪……国家反逆罪および闇調合の罪は免れんぞ! この私が直々に査察を行い、違法とあらば――調剤室の全資材を没収の上、その小娘を王都の地下牢へ連行し、一生陽の目を見ぬ鉱山送りにしてくれるわ!!」
勝ち誇ったように大見得を切る監査官。
背後には、ユルゲンの影が色濃くちらついていた。
地方貴族たちが自分の「光るデトックス茶」を捨て、エレナのスキンケアとお茶に乗り換えたことで、王都の利権が脅かされたのだ。だからこそ、財務省の権力を振りかざして力ずくでエレナを潰し、その調合技術と財産を強奪しようという魂胆。
「……貴様」
ドォォォォンッ! と大気が爆縮するような轟音が響いた。
ジルヴェスタ様の全身から、怒りの魔力障壁が吹き荒れる。
黒剣の切っ先が鞘から三寸ほど滑り出た。
いま、この場で監査官の首が宙を舞ってもおかしくない、極限の一触即発――。
――その、まさに決定的な瞬間だった。
「フハハハ! 分かったなら、今すぐその小娘をこちらへ引き渡し――」
バルトロメが、自らの権威を誇示するように大仰に両手を広げ、雪を踏みしめて一歩前へ踏み出した、その刹那。
――ピキィンッッッ!!!!
静寂の広場に、何かが弾け飛んだような、鋭く不穏な音が響き渡った。
金属の軋みでも、氷が割れた音でもない。
人間の肉体の奥深く、骨と筋肉の狭間から発せられた、決定的な破壊の音。
「――ぶ、ぎゃあああああああああっっっっっっっっっっっっ!?!?!?!?」
鼓膜を劈くような、この世の終わりを告げる絶叫。
先ほどまで傲岸不遜に胸を反らせていたバルトロメの身体が、まるで目に見えない巨大な杭を腰に打ち込まれたかのように、くの字に折れ曲がった。
大見得を切って広げられていた両手は、虚空をむなしく掻きむしり、そのまま右手を腰の付け根へと押し当てた状態で、ドシャァァッ! と雪泥の地面へと前のめりに崩れ落ちたのだ。
「「「…………え?」」」
殺気立っていたジルヴェスタ様が固まり、抜剣しかけていたバルツが大剣を取り落としそうになり、カイエンの眼鏡がツルリと鼻先から滑り落ちかけた。
地面に這いつくばった監査官は、金文字の巻物を雪の上に放り出し、白目を剥いて痙攣していた。
「ひ、ひぃぃぃ……っ! い、痛い……! 腰が……私の腰が、砕けたぁぁぁっ! 息が……息が吸えん……! 誰か……誰か助け……ぎゃあああっ、動かすなぁぁっ!!」
従者たちが「か、閣下!?」「監査官様、どうされたのですか!?」と血相を変えて駆け寄ろうとするが、従者が触れようとしただけで、バルトロメは「触るなあああっ! 骨が刺さるぅぅっ!」と絶叫し、額を凍りついた泥に擦り付けて脂汗を噴き出させた。
その顔色は、先ほどの白粉の白さを遥かに超えて、土気色を通り越し、完全な虚脱状態へと陥っている。
「……あ」
その間抜けで、だが切実極まりない悲鳴を耳にした瞬間。
私の頭の中で、政治的対立や王都の陰謀といったノイズが、綺麗さっぱり一瞬で吹き飛んだ。
パチン、と音を立てて切り替わる「臨床現場のトリアージ・スイッチ」。
「ジルヴェスタ様、剣を収めてください! 敵襲でも謀略でもありません!」
私は白衣の裾を翻し、雪泥の上に倒れ伏す敵方の大官へと、迷うことなく駆け寄った。
「エ、エレナ!? 近づくな、罠かもしれん!」
「罠でこんなに綺麗な脂汗と血圧低下が起きるわけないでしょうが! どきなさい、救護に入ります!」
ジルヴェスタ様の制止を平手打ちするかのような勢いで振り払い、私はバルトロメの傍らに膝をついた。
足元ではテオが「わふっ」と私の白衣の裾を咥えて心配そうに見上げている。
私は即座に、バルトロメの右手の橈骨動脈を押さえた。
ト・ト・ト・ト……!
毎分百十拍を超える頻脈。激痛による急性ストレス反応だ。
続いて、倒れ伏す彼の腰郭から殿部、大腿部にかけての姿勢を素早く視診する。
右の骨盤が極端に引き上がり、背骨が不自然に左へと湾曲している。
右の腰背部――腰方形筋と脊柱起立筋のあたりが、まるで鉄板を埋め込んだかのように異様に盛り上がり、カチコチに硬直していた。
「主訴を確認します。……右の腰の奥底を、焼け火箸で貫かれたような激痛ですね? 上半身を起こそうとするだけで激痛が走り、前にも後ろにも一ミリも動けませんね?」
「ひ、ひぃ……っ、だ、誰だ貴様……! そ、そうだ……動けん……! 息をするだけで、腰が……腰が引き裂かれそうだ……っ!」
バルトロメは泥にまみれた顔をわずかに上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら掠れた声で喘いだ。
私は彼の硬直した腰の筋肉に、人差し指と中指の腹でそっと触れた。
――ガチガチだ。
筋線維が極度の過緊張を起こし、石のように硬い結節(筋硬結)を形成している。触れた瞬間、バルトロメの全身がビクンと跳ね上がり、喉からヒュッという悲鳴が漏れた。
「確定診断を下します。……急性腰痛症、通称『ぎっくり腰』。医学的には『急性筋・筋膜性腰痛』および『急性腸腰筋捻挫』の重症発作です!」
「ぎ、ぎっくり……!? ね、捻挫だと……!? 私は……私は呪いをかけられたのではないのか……!?」
「呪いなわけがあるでしょうが! 完全なる自業自得の、生化学的・解剖学的必然です!」
私の容赦のない一喝に、バルトロメが白目を剥いて息を呑んだ。
私は周囲でおろおろしている従者たちと、後ろでぽかんと立ち尽くしていたジルヴェスタ様たちに向かって、明快な医学ロジックを叩きつけた。
「いいですか! この方は、暖炉の効いた王都の豪邸から、雪道用の鉄輪もついていない揺れる馬車に乗り、二週間もの間、悪路に揺られ続けてきたのです! 長時間の同一座位(座りっぱなし)によって、骨盤を支える大腰筋と腸骨筋は常に極度の圧迫を受け、血流が完全に途絶えて虚血状態に陥っていました!」
私はバルトロメの薄っぺらいベルベットの上着を指差した。
「そこへ持ってきて、この北方の氷点下の冷気です! 毛皮を着込んでいるとはいえ、下半身は薄いズボン一枚! 極度の寒冷刺激によって腰背部の毛細血管が急激に収縮し、筋肉の柔軟性は完全にゼロになっていた! 冷え切って硬化した筋肉は、まるで凍りついたゴムホースです! そこへ、ステップから不用意に降り立ち、大見得を切って急激に体を捻るという回旋負荷をかけた! 耐えきれなくなった筋線維と筋膜が微小断裂を起こし、激しい局所炎症と、自律神経の暴走による『筋スパズム(持続的不随意筋収縮)』が爆発したのです!!」
凍りついたゴムホースを力任せに曲げれば、ボキリと折れる。
それと全く同じ物理的破壊が、この傲慢な監査官の腰の中で起きたのだ。
冷え、長時間の同一姿勢、悪路の振動、そして不用意な動作。
現代社会の長距離ドライバーやデスクワーカーが冬場に最も起こしやすい、急性腰痛症の絵に描いたような教科書的発症プロセス。
「ひ……ひぃぃ……! な、治せ……! 何でもいい、この痛みを止めろ……! 金ならいくらでもやる……! 早く、王都の最高級ポーションを持ってこさせろ……!」
泥まみれのバルトロメが、すがるように叫んだ。
従者が慌てて馬車のトランクから、青白く光る「王立薬草院製・万能鎮痛ポーション」の瓶を取り出そうとする。
だが――。
「ポーションを飲ませたら、絶対に駄目ですッ!!」
私の鋭い怒声が、従者の手をピシャリと止めた。
「えっ……な、なぜですか!? これは痛みを消す神薬で……」
「急性期の筋膜炎に、そんな高浸透圧の強制魔力活性薬を胃に流し込んだらどうなると思いますか!? 中枢神経が無理やり興奮させられて筋肉がさらに激しく痙攣し、断裂した筋線維が引きちぎれて大出血を起こします! おまけに胃が荒れて激しい嘔吐反射を誘発し、吐くときの腹圧で腰椎の椎間板が押し出されて、一生車椅子生活になりますよ!!」
「ヒィィィィッッッ!? い、一生車椅子……!?」
従者が悲鳴を上げてポーション瓶を取り落としそうになる。
バルトロメにいたっては、恐怖のあまり顎をガタガタと震わせ、泡を吹きかけていた。
「バルトロメ監査官。あなた、普段から運動不足で、便秘気味で、慢性的な腰の重だるさを放置していましたね? 腹筋と背筋のバランスが崩壊しているから、骨盤の前傾が強まり、腰椎に常に過剰なストレスがかかっていたのです。身体の悲鳴を無視して虚勢を張るから、こうして無様な姿を晒すことになるのですよ」
「う……ぐ……っ、お、小娘……! 無礼な口を……っ、この私が……財務省の筆頭が……!」
雪泥にまみれながら、なおもプライドを捨てきれずに唸るバルトロメ。
自分を告発し、投獄しに来た敵。
普通であれば、「ざまぁみろ」と笑って雪の中に放置しても誰も文句は言わない場面だ。ジルヴェスタ様も、バルツも、冷え切った蔑みの視線で転がる監査官を見下ろしている。
――だが。
私の心の中には、復讐心など微塵も湧き上がらなかった。
目の前にいるのは、憎き敵官吏ではない。
ただ、激痛に苛まれ、冷たい泥の上で助けを求めている、哀れな一人の「急性期患者」だ。
医療従事者が、患者の思想や身分、敵味方によって命を選別するなど、あってはならない。
前世の救急救命センターで、泥酔して暴れる暴力団員だろうが、無免許運転で事故を起こした犯罪者だろうが、運ばれてくれば全身全霊でバイタルを繋ぎ止めてきた――あの、臨床薬剤師としての不退転の魂が、私の身体を突き動かしていた。
「バルツ! カイエン副団長!」
「お、おうっ! 何だエレナ様!?」
「板切れ……いえ、平らな雨戸か、頑丈な板を持ってきて! 即席の『バックボード(固定担架)』を作ります! 腰を絶対に曲げさせてはいけません! 四人がかりで身体の軸を一直線に保ちながら、丸太を転がすように水平に担架の上に乗せるのです(ログロール法)!」
「了解でありますッ!!」
私の指示を受け、バルツたちが電光石火で動き出した。
城門の警備小屋から平らな木板を外し、毛布を敷いてバルトロメの脇へと滑り込ませる。
屈強な騎士たちの完璧な連携により、バルトロメの腰に一ミリの捻れも加えることなく、木板の上へと水平に移送された。
「城内の医務室……いえ、私の研究室の診察台へ運びます! オットー先生、蒸留器の湯を沸かしておきなさい! 大至急よ!」
「ハッ! 不肖オットー、湯沸かしの火を熾して待機いたしますぞ!」
担架に乗せられたバルトロメは、ガタガタと震えながら、上目遣いで私を睨み上げてきた。
その瞳には、激痛への恐怖と、なおも消えない猜疑心が渦巻いている。
「き、貴様……何を企んでいる……! 私を……私を密室へ連れ込み、毒殺する気か……!? 騙されんぞ……! 触るな……触るな無礼者め!!」
弱々しく喚き散らす監査官。
だが、診察室へと運び込まれ、平らな診察台の上にうつ伏せに寝かせられた瞬間、私はすでに白衣の腕をまくり上げ、調剤トランクの奥底から「あるもの」を取り出していた。
パチン、と開かれた重厚な桐の木箱。
中から現れたのは――。
冷感湿布の青白い色とは完全に異なる、血のように深紅に染まった、分厚い布の束だった。
立ち上る熱気。
ツンと鼻腔を焼き焦がすような、暴力的なまでのスパイシーな芳香。
「ひっ……!? な、何だそれは……!? 赤……赤いぞ!? 毒か!? やはり私に毒を盛る気かァッ!!」
絶叫するバルトロメを見下ろし、私はフッと、慈愛とサディスティックなプロ意識が同居した極上の笑みを浮かべた。
「安心してください、毒ではありませんよ。……急性期を脱し、過緊張で固まった筋肉を芯から焼き溶かす、私の特製処方――『高濃度カプサイシン配合・温感生薬シップ』です」
湯気を上げる真っ赤な布が、エレナの手によって、ピンと空中で張り詰められた。
敵意剥き出しの監査官を、地獄から天国へと叩き落とす――前代未聞の「温熱鎮痛ショック」が、今まさに放たれようとしていた。




