第25話:「エレナ様のお茶会」は半年待ち! 北方発のトレンド大逆転
カラカラカラ、と雪を踏みしめて車輪が軋む音が、早朝の城下町に途切れることなく響き渡っていた。
かつては冬ともなれば人通りが途絶え、ただ凍てつく寒風と魔獣の遠吠えに怯えるだけだった最果ての要塞都市。それが今や――見渡す限りの大通りが、色鮮やかな家紋の旗を掲げた豪奢な貴族馬車の列によって、端から端まで埋め尽くされていた。
「おいおい、見ろよ! あっちの馬車、西部の穀倉地帯を牛耳ってるブランドン伯爵家の紋章だぞ!」
「こっちは南の交易都市の豪商の特注馬車だ! 雪道用の特製鉄輪を履かせて、わざわざ山を三つも越えてきやがった!」
「宿屋街はどこも満室で、馬の飼料用の干し草まで飛ぶように売れてるってよ! 炭も薪も、卸値の倍で飛んでいく! こんな好景気、爺さんの代でも見たことねえぞ!」
防寒具を着込んだ商人や町民たちが、湯気を吐き出しながら興奮冷めやらぬ様子で語り合っている。
街道沿いに立ち並ぶ宿場宿は、数ヶ月先まで貴族たちの従者や護衛騎士の予約で完全に埋まり、町の飲食店では温かいハーブ煮込みや滋養スープが飛ぶように売れていた。極寒の温泉街にいたっては、湯治目的の貴婦人たちで連日貸し切り状態。
すべては――この北方の城で週に二回だけ開催される、ある「催し」に参加するためだった。
その名も――『エレナ様の健康・美容相談お茶会』。
クランツ伯爵領のサロンで起きたあの「美肌と月経痛の克服」の奇跡は、貴婦人たちの秘密のネットワークを通じて、瞬く間に近隣諸侯、さらには中部の地方貴族の間にまで電撃的な速度で拡散していた。
かつて王都のサロンで幅を利かせていた「光る薬」「派手な即効性」に疑問を抱きながらも、他にすがるものがなかった地方の女性たちが、こぞって北方の辺境へと馬車を走らせたのだ。
「王都の光る化粧水なんて、お肌を痛めるだけの時代遅れですわ! 今はエレナ様のオーガニック・バリアケアでなくては、淑女の輪に入れませんのよ!」
「あのお茶をいただかないと、月の障りの一週間を乗り切れませんもの! あのお茶のない生活なんて、考えただけで身の毛がよだちますわ!」
いまや社交界における最大のステータスは、「エレナ様のお茶会の招待状を持っているかどうか」だった。
木版印刷で刷られた相談会の整理券は、貴族たちの間で金貨数十枚で取引されるほどの超プラチナチケットと化し、公式の予約表はすでに半年先まで完全に埋まり切っていた。
◇
城の東翼、日当たりの良いサロンの一室。
そこでは、本日分のお茶会が、優雅かつ熱烈な熱気に包まれて開かれていた。
白大理石のテーブルの上には、上品な銀のティーセットと、色とりどりの乾燥ハーブ、そして手製のカルテが並んでいる。
「ソフィア様、お肌の水分量は基準値をしっかり維持できていますね。皮脂の分泌も落ち着いています。次は、夜の保湿クリームの量を小豆粒半分ほど減らして、日中のビタミンローションの重ね付けを増やしてみましょう」
「まあ……! ありがとうございます、エレナ様! 言われた通りにいたしますわ!」
白衣をパリッと着こなした私の前で、クランツ伯爵令嬢のソフィア様が、まるで神託を授かった敬虔な信徒のように胸元で両手を合わせ、うっとりと目を輝かせた。
その隣では、別の令嬢が自らの手帳を開き、真剣な面持ちでペンを走らせている。
「エレナ様、わたくしの娘のことでご相談が……! 冷え症で手足が氷のように冷たく、冬になると足の指先がしもやけで紫色になってしまいますの。何か良い処方はございませんでしょうか?」
「それでしたら、血管を拡張させるトウガラシ様成分とショウガを微量配合した温補の足湯オイルをお作りしましょう。毎晩、寝る前の十五分間、ぬるめのお湯にオイルを三滴垂らして足首まで浸かるよう指導してください。末梢血管の血流が促され、自律神経も整いますから」
「まあ、足湯専用のオイル……! 素晴らしいですわ! 今すぐ一ダース予約させていただきます!」
「予約は嬉しいですが、オイルにも品質保持期限がありますから、まずは一ヶ月分から処方しますね。用法用量を守って、新鮮なものを使いましょう」
「は、はいっ! エレナ様の仰せの通りに!」
私が穏やかに微笑むだけで、サロンの貴婦人たちは感嘆の溜息を漏らし、拝むように頭を下げる。
高圧的に「私の薬を崇めよ」と怒鳴り散らしていた王都の錬金術師たちとは、何もかもが違っていた。
彼女たちの悩みに真摯に耳を傾け、人体の仕組みを優しく解き明かし、生活習慣の改善とともに安全な生薬を届ける――その誠実な姿勢こそが、彼女たちの心を芯から捉えて離さなかったのだ。
お茶会が終わり、満足げに帰路につく令嬢たちを見送った後。
私の新薬学研究室へと戻ると――そこには、もはや足の踏み場もないほどの「お礼の品々」が山積みにされていた。
「……う、うわあ……」
私は作業台の前で立ち尽くし、乾いた笑いを漏らした。
部屋の隅には、近隣の鉱山主たちから届けられた最高純度のミスリル鉱石や水晶の塊。
棚の上には、南方の温室から運ばれてきた希少な薬草の苗木や、乾燥ハーブの特大木箱。
そして机の上には、各地の領主夫人たちの直筆の感謝状とともに、分厚い謝礼金の手形が、トランプのタワーのように積み重なっていた。
「きゅぅん、わふっ!」
足元では、すっかり元気になった仔獣テオが、ミスリル鉱石の冷たい輝きに興味津々で前足をちょいちょいと伸ばしている。
「テオ、それでお手玉しちゃ駄目よ。……それにしても、こんなにたくさんの金貨や鉱石、どうしたらいいのかしら。私、ただの男爵令嬢なのに、一生遊んで暮らせる以上の資産になっちゃってるわよ……」
私が頭を抱えていると、机の上の苗木に視線が留まった。
――南方原産の、抗炎症作用を持つ極めて希少なアロエベラ類似植物。
途端に、私の薬剤師としてのオタク魂がカチリと音を立てて点火した。
「あ、でも待って! このミスリル鉱石を高密度に加工すれば、蒸留器の冷却管の内壁にコーティングして、熱伝導率を三倍に引き上げられるわね!? それにこの苗木、温室の南側の土壌に植え替えれば、冬の間でも新鮮な粘液多糖類が採取し放題じゃない……! よし、テオ! 鉢植えの準備をするわよ!」
「わふんっ!」
莫大な財宝を前にしても、用途が「研究機材の強化」と「土いじり」にしか向かわない私の清々しいまでの職業病。
テオと一緒に意気揚々と土の配合を練り始めた、その時だった。
コンコン、と控えめなノックとともに、白樺の扉が開かれた。
◇
「失礼いたします、エレナ様。少々お耳に入れたい喜ばしい報告がございまして」
入ってきたのは、副団長カイエンだった。
紺青の軍服に乱れはなく、銀縁眼鏡の奥の瞳には、かつてないほど晴れやかな――そして、極上の腹黒さを孕んだ満面の笑みが浮かんでいた。
その手には、革表紙の分厚い領地総決算帳簿が抱えられている。
「カイエン副団長! 胃の調子はいかがですか? 今日はお粥をしっかり召し上がりましたか?」
「ええ、おかげさまで胃酸の逆流も胸焼けも皆無です。毎朝の消化薬と、あなたの温かいお茶のおかげで、私の身体はかつてないほど完璧に機能しております」
カイエンは優雅に一礼すると、机の上の書類の隙間に、パチンと帳簿を広げて見せた。
「さて、エレナ様。今期の中間財政報告書が上がってまいりました。……結論から申し上げましょう。我がハーディン辺境伯領の今期の総税収は、前年同期比で――【百五十パーセント】を記録いたしました」
「ひゃ、百五十パーセント……!?」
数字の規模が大きすぎて、私の頭が一瞬フリーズした。
「ええ。あなたが開局した『エレナ薬局』の売上、本日のお茶会による寄付金や処方料、それだけではありません。あなたを求めて領内外から押し寄せた貴族や商人たちが、宿場町に落とした宿泊費、飲食費、馬の飼育費、温泉の利用料……果ては、新薬の原料となる生薬を栽培し始めた農民たちの所得増に至るまで。領内全体の経済活動が、凄まじい勢いで活性化しているのです」
カイエンは眼鏡を指先でクイと押し上げ、どこか陶酔するように数字の並びを指でなぞった。
「医療とは、単に病人を治して出費を抑えるだけのものではないのですね。民が健康になり、痛みに怯えずに働き、そして正しいケアを求めて外から莫大な富が流入する……。医療と日常ケアの融合がもたらす、完璧な『セルフケア市場の経済的波及効果』です」
社会医学、そして医療経済学の観点からの完璧な分析。
前世でも、予防医学やセルフメディケーションの推進が、結果として社会全体の生産性を劇的に押し上げることは立証されていた。
それを、この極寒の異世界で、私の処方箋が見事に証明してみせたのだ。
「これで、我がハーディン領は完全に経済的自立を達成いたしました。中央政府からの雀の涙ほどの防衛補助金も、王立薬草院からの粗悪なポーション配給も、もはや微塵も必要ありません。我が領は、軍事のみならず、経済においても完全に王都の手を離れました。……すべて、あなたのおかげです、エレナ様」
カイエンは胸元に手を当て、至高の敬意を込めて深々と頭を下げた。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸に熱い達成感が込み上げてきた。
王都から追放された時は、ただ静かに生き延びられればいいと思っていた。
だが今、私の知識が、この過酷な北方の地を豊かにし、人々の暮らしを底から支えているのだ。
「……よかったです。お役に立てて、本当に……」
「お役に立つなどという次元ではありませんよ。あなたは今や、我が領の、そして北方全土の『至宝』です。……まあ、そのせいで」
カイエンがふっと言葉を切り、どこか苦笑混じりに扉の向こう――城の主館の方向へと視線を向けた。
「……少々、厄介な問題を抱えているお方が一名、執務室で頭を抱えていらっしゃいますが」
「え? 厄介な問題? まさか、魔獣の襲来ですか!?」
「いいえ。……もっと個人的で、面倒極まりない問題ですよ。ご自身で見に行かれた方が早いでしょう」
カイエンの思わせぶりな言葉に首を傾げつつ、私は往診鞄を手に取り、最上階の領主執務室へと向かったのだった。
◇
コンコン。
「ジルヴェスタ様? エレナです。入ってもよろしいですか?」
「…………入れ」
中から返ってきたのは、何層もの氷の底から響いてくるような、低く、重苦しい声だった。
私が重厚な扉を押し開けると――。
ヒュルリラ……と、室内に木枯らしが吹き荒れているかのような錯覚を覚えた。
暖炉の火は赤々と燃えているはずなのに、部屋の空気は目に見えてどんよりと沈み込み、執務机の周囲だけ異様な重力がかかっているかのように重苦しい。
机の向こうに座っていたのは、北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯その人だった。
頬杖をつき、長い前髪を額に落とし、紫の双眸は光を失って手元の白紙を見つめている。
その背後からは、まるで黒いオーラのような「不満」と「寂寥感」が、物理的な煙となって立ち上りそうだった。
「ジルヴェスタ様……? あの、どこかお身体の具合でも悪いのですか? 胃が痛みますか?」
私が心配して駆け寄り、机越しに身を乗り出すと――。
ジルヴェスタ様はゆっくりと顔を上げた。
その切れ長の目元には、隠しようもない深い隈……ではなく、あからさまに「拗ねた」光が宿っていた。
「……身体の具合は、極めて良好だ。胃の痛みもない」
「え? じゃあ、どうしてそんなに落ち込んでいらっしゃるのですか? カイエン副団長から、領の税収が百五十パーセントを超えたと伺いましたよ! 素晴らしいことじゃないですか!」
「ああ、素晴らしいな」
ジルヴェスタ様は棒読みのように呟き、それから深く、深ーく息を吐き出した。
「我が領の財政は潤い、近隣諸侯は平伏し、領民は健康になり、城下には笑い声が満ちている。……お前は我が領の女神であり、世界で最も誇らしい主治医だ。その功績に、私は領主として無限の感謝を捧げている」
「は、はい……?」
「――だが」
ジルヴェスタ様がガバッと上体を起こした。
その紫の瞳が、至近距離からカッと燃え上がるような熱を帯びて私を射抜く。
「お茶会が半年待ちだと? 近隣の令嬢どもが連日サロンに押し寄せ、午後は薬局の巡回、夕方は温室の土いじり、夜は新しい生薬の成分分析……! エレナ、お前という人間は、一体いつ休んでいるのだ!?」
「えっ? ちゃんと夜はテオと一緒に六時間睡眠を取っていますよ?」
「そういう問題ではない!!」
ダンッ! とジルヴェスタ様が机を手で叩いた。
大の大人が、帝国最強の武将が、子供のように眉尻を下げて唇を尖らせている。
「私が……私とお前が、顔を合わせる時間がどこにあるのだ! 今週に入ってから、お前と話せたのは昨日の朝の『脈拍正常ですね、いってきます』のわずか三分間だけだぞ! 私の毎朝の脈診はどうした! 触診はどうした! お前を城内に留めておくために特注の研究室まで作ったというのに、これでは王都にいた頃よりも多忙ではないか!!」
「じ、ジルヴェスタ様……!?」
まさかの、直球すぎる不満の爆発。
私は呆気に取られて目を丸くした。
領地の財政が潤い、領民が救われ、領主としてこれ以上ない栄誉を手に入れたというのに――この男が頭を抱えていた理由は、ただ一つ。
「エレナが忙しすぎて、自分に構ってくれないから」。
(……な、何なのこの人……! 大型猛獣どころか、留守番させられて拗ねまくってる大型犬そのものじゃない……!)
前世の激務時代、過労で倒れるまで誰からも見向きもされず、孤独死していった私にとって、これほどまでに「自分との時間」を渇望されることなど、生まれて初めての経験だった。
呆れ果てると同時に、胸の奥がくすぐったいような、熱い何かがこみ上げてくる。
「ジルヴェスタ様。私、あなたの主治医ですよ? 元気になられた患者さんに付きっきりになる必要はありませんし、領主様がお忙しいお仕事の合間に、私のような調合師に構う暇なんて――」
「構う暇なら、山ほど作る!」
ジルヴェスタ様は椅子を蹴立てて立ち上がると、机を回り込み、私の目の前へと大股で迫ってきた。
長い腕が伸び、逃げ場を塞ぐように私の両肩をガッシリと掴まれる。
至近距離で見下ろしてくるその美貌は、熱っぽく赤らみ、切実な光に満ちていた。
「誰がただの患者だ。誰がただの調合師だ。……私は、お前と過ごす時間のために、血を吐きながら書類を片付け、軍議を秒速で終わらせているのだぞ。それなのに、お前の視線はいつも生薬と令嬢どもに向いている……。私の心臓が、お前への恋慕でどれほど過剰にアドレナリンを分泌しているか、もう一度その手で測ってみろ」
「ひゃ……っ!?」
ジルヴェスタ様は私の右手を取り、自らの胸元――軍服の上から、力強く脈打つ心臓の真上へと押し当てた。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……!
確かに、触れた手のひらを通じて伝わってくる鼓動は、安静時のそれを遥かに超えて、激しく、情熱的なスピードで跳ね上がっていた。
「じ、ジルヴェスタ様……! 脈拍が、百を超えています……! 落ち着いてください、深呼吸を――」
「落ち着けるわけがないだろう! お前が……私の側にいてくれなければ、私の体温はどこまでも冷え切ってしまうのだ……!」
低く、甘く、切ない男の叫び。
ジルヴェスタ様の顔が、ゆっくりと私の顔へと近づいてくる。
その吐息が、私の唇に触れそうなほどの距離。
カアァァァッ! と私の顔面が一瞬にして沸騰し、今度こそ私の心拍数までもが危険水域を突破しそうになった――。
まさに、その決定的な瞬間だった。
ドォォォォォォォンッッッッ!!!!
城の防空尖塔から、空気を切り裂くような重々しい鐘の音が、けたたましく鳴り響いた。
魔獣襲撃の警報ではない。
町民を呼ぶための招集の鐘でもない。
城外から、極めて格式の高い「国家の公式使節」が到達したことを告げる――重々しい儀礼の巨鐘。
「…………っ!?」
ジルヴェスタ様の動きが、ピタリと止まった。
男の表情から甘やかな熱情が一瞬にして消え去り、絶対零度の冷徹な覇道が顔を覗かせる。
男は私を背中に庇うようにして素早く身を翻し、窓の外――城門の方向を鋭い眼光で射抜いた。
バタン! と執務室の扉が開かれ、カイエンが飛び込んできた。
先ほどまでの穏やかな笑みは消え去り、その表情は極度に引き締まっていた。
「閣下、エレナ様! 城門に……王都からの使者が到着いたしました!」
「……誰だ」
ジルヴェスタ様の低くドスの利いた問いに、カイエンは眼鏡の奥の瞳を険しく細めて告げた。
「王都の財務省所属、筆頭特命監査官――バルトロメ卿の部隊です。豪奢な馬車には、王家の百合の紋章が掲げられております。……『追放された無能な男爵令嬢が、辺境で不法な薬を売り捌き、暴利を貪っているとの告発を受理した。直ちに現地査察を行う』と、横柄に門前で喚き散らしております!」
「王都の……監査官……?」
私が息を呑む。
地方貴族たちの心を掴み、空前の大ブームを巻き起こした「エレナ薬局」と「オーガニック・スキンケア」。
その莫大な富と名声の噂は――当然のように、王都の利権に群がるハイエナどもの鼻腔を、強烈に刺激していたのだ。
背後にあるのは、元婚約者ユルゲンと、王立薬草院の影。
ジルヴェスタ様は、腰の漆黒の大剣の柄へと静かに手をかけた。
その紫の双眸に宿っていたのは、国をも焼き尽くすほどの、冷酷無比な怒りの炎。
「……私の領地を潤し、私が一生をかけて囲い込むと決めた宝に……王都の狗が、泥足で踏み込んできたというわけか」
絶対零度の殺気が、執務室を満たしていく。




