第24話:プルプル肌の奇跡! 貴族女性を虜にする「月経痛ブレンド」
あれから、約束の一週間が瞬く間に過ぎ去った。
北方の厳しい冬の合間、奇跡のように澄み渡った青空が広がる午後。再びクランツ伯爵家の別邸サロンを訪れた私は、重厚な馬車のステップに足をかけた瞬間から、建物の内部から漏れ聞こえてくる異様な熱気に圧倒されていた。
「きゃああああああっっっ!!」
「見て! わたくしの頬を見てくださる!?」
「信じられませんわ! あの忌まわしい赤みが、跡形もなく消え去っておりますのよ!」
サロンの分厚い防音扉を突き破って響いてくるのは、若い令嬢たちの甲高い歓声と、鳥肌が立つほどの興奮に満ちた叫びだった。
護衛として馬車の脇に控えていた第一部隊長バルツが、肩に担いだ大剣の位置を直しながら、呆れたように目を白黒させている。
「おいおい……中からすげえ雄叫びが聞こえるぜ。まるで、魔獣を討ち取った後の野営地みてえな騒ぎじゃねえか。エレナ様、本当に一人で入って大丈夫なんですかい?」
「魔獣狩りではありません、お肌のお手入れの成果確認です。バルツはここで待機していてちょうだい。屈強な武装騎士が十名以上も令嬢たちのサロンに雪崩れ込んだら、せっかくの優雅なお茶会が台無しですからね」
「へいへい。何かあったら即座に扉を叩き割って突入しますんで、大声で呼んでくだせえよ!」
頼もしいというよりは過保護すぎる大型犬の忠告に苦笑しつつ、私は往診鞄を抱え直し、同行してくれた総家政婦長マルグリットさんとともにサロンの扉を押し開けた。
――その瞬間。
「まあ! エレナ様がおいでになりましたわ!」
「エレナ様!」「聖女様!!」「わたくしたちの救世主様!!」
ドババババッ! と絹のドレスが擦れ合う凄まじい衣擦れの音とともに、サロンの中央にいた十数名の貴婦人たちが、まるで獲物を見つけた飢えた子鹿のように一斉に駆け寄ってきた。
先頭を切って私の手元へと飛び込んできたのは、この邸の主であるクランツ伯爵令嬢、ソフィア様だった。
「エレナ様! 見て……見ていただけますか、わたくしのこの顔を!!」
ソフィア令嬢は、私の両手を固く握りしめ、自らの顔をこれでもかと言わんばかりに至近距離へと差し出してきた。
その顔を目にした瞬間――私は医療従事者としての誇りと喜びに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えた。
(……見事だわ。完璧にラメラ構造が再建されている……!)
一週間前、干からびた泥田のようにひび割れ、白粉の下で粉を吹き、化膿した赤黒い吹き出物で埋め尽くされていたソフィア令嬢の顔面。
それが、いま私の目の前にある素肌は――。
一切の化粧下地も白粉も塗っていないというのに、まるで朝露をたっぷりと含んだ白百合の花弁のように、みずみずしく、内側から澄んだ光を放っていた。
赤黒く腫れ上がっていた吹き出物は完全に鎮火し、わずかに淡いピンク色の色素沈着を残すのみ。
毛穴はキュッと引き締まり、目元を覆っていたあの濃紫色のくすみは、血流の改善とビタミンCの抗酸化作用によって綺麗さっぱり消え去っている。
何より、頬の中央に宿る「艶の輪」が、室内のシャンデリアの光を柔らかく乱反射し、陶器のような滑らかさを物語っていた。
「ソフィア様……本当に、素晴らしいです。教えた通り、白粉を完全に断ち、朝晩のハンドプレスとスープの養生を徹底してくださったのですね」
「ええ、ええ、もちろんですわ!」
ソフィア令嬢は興奮のあまり頬を紅潮させ、自らの手の甲で、そっと自らの頬を撫でた。
モチッ、と吸い付くような弾力音がサロンに響く。
「痛くないのです! 朝起きて冷たい風に触れても、あの顔が引き裂かれるような激痛が微塵もしませんの! それに、見てくださる!? 今朝、恐る恐る極薄くお粉をはたいてみましたら……すぅっと、まるで肌がお粉を吸い込むように馴染んで、お化粧のノリが以前の何倍も美しいのですわ!」
「わたくしもですわ、エレナ様!」
「見て、わたくしのあごの吹き出物も、完全に平らになりましたのよ!」
周囲の夫人たちも、我先にと自慢の素肌を誇示するように顔を寄せてくる。
ある者は目の下のたるみが消えて五歳は若返って見え、ある者は乾燥による小じわが水分によってふっくらと持ち上がっていた。
「旦那様が驚愕していらっしゃいましたの! 『お前、王都の最高級サロンへ秘密裏に通っているのか? 十年前の輝きが戻っているぞ』と……! 昨晩など、何年ぶりかに抱き寄せられて熱い口づけを賜りましたのよ!」
「まあ! ごちそうさまですわ、ヴェルナー子爵夫人!」
「わたくしなど、婚約者の騎士様から『素顔のほうが可憐だ、もう濃い化粧などしないでほしい』と愛の詩を贈られてしまいましたの!」
サロン中が、まるで初恋を迎えた少女たちのような黄色い歓声と笑い声で満ち溢れていく。
王都の粗悪なデトックス茶による重度の脱水とビタミン欠乏を断ち切り、腸内環境を整え、壊れていた角質層をセラミドとスクワランで物理的にシールドした。
その生化学的なアプローチの正しさが、貴族女性たちの美貌という形で、これ以上ない劇的な結果を叩き出したのだ。
「エレナ様、本当にお礼の言葉もございません……! あのような泥水を金貨五枚で売りつけていた王都の商人は、父に命じて領内から永久追放させましたわ! あんな毒茶、二度と見たくもありません!」
ソフィア令嬢がキッと凛々しい表情で言い放つ。
他の夫人たちも「当然ですわ!」「王都の流行など愚劣の極み!」と口々に同調した。
かつて王都の権威に盲従していた地方貴族の女性たちが、エレナの「真の知性」に触れたことで、中央のオカルト医療を完全に唾棄し始めた瞬間だった。
しかし。
歓喜に沸き立つサロンの空気を、私はじっと観察していた。
美しい肌を取り戻し、笑顔を咲かせる彼女たち。
だが――その華やかな輪の片隅で、一人の若い令嬢が、長椅子の背もたれに深く身を預け、顔色を悪くして下腹部を手で押さえている姿を、私の薬剤師レーダーは見逃さなかった。
さらに言えば、ソフィア令嬢をはじめとする他の女性たちも、ふとした瞬間に腰をトントンと叩いたり、眉間に深い陰影を走らせたりしている。
「……皆様」
私が静かに声をかけると、サロンの喧騒がすっと引いた。
全員の視線が、敬愛を込めて私へと集まる。
「お肌の劇的な回復、心からお慶び申し上げます。……ですが、お肌が整った今だからこそ、私は皆様にお伺いしなければならないことがございます」
「お伺い……? 何かしら、エレナ様?」
首を傾げるソフィア令嬢。
私は白衣のポケットから一冊の特製カルテを取り出し、サロンの貴婦人たち全員を、優しく、だが真っ直ぐに見渡した。
「皆様。月に一度訪れる『月の巡り(月経)』の際……下腹部を引き裂かれるような激痛や、腰が砕けそうな重だるさ、激しい頭痛や吐き気、そして理由のない気分の落ち込みを――『耐えるのが淑女の美徳』だと信じ込んで、一人きりでじっと耐え忍んでいらっしゃいませんか?」
「――――ッ!?」
その瞬間。
サロンの空気が、まるで真冬の湖面のように、ピシリと凍りついた。
令嬢たちの息を呑む音が、部屋のあちこちから重なって響く。
貴族社会において、「月の障り」に関する話題は、人前で口にすることすら禁忌とされる最大の秘め事だった。
痛みを訴えることは「身体の弱い不完全な女」の烙印を押されることを意味し、どんなに激痛で意識が飛びそうになろうとも、笑顔でコルセットを締め上げ、何事もない顔で夜会に立たねばならない――それが、彼女たちに課せられた残酷な「淑女の掟」だったのだ。
「エ、エレナ様……そ、そのような破廉恥な……」
最年長の伯爵夫人が、扇子で口元を覆い、狼狽したように声を震わせる。
だが、長椅子の端で踞っていた若い男爵令嬢が、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、震える声で叫んだ。
「……耐えられませんわ……!」
「マリア……!?」
「耐えられるはずがありませんもの……! わたくし、毎月その時期が来るのが怖くて、死んでしまいたくなりますの! お腹の中に刃物を突っ込まれて、ぐりぐりと掻き回されるような激痛で……熱が出て、吐いて、一歩も歩けなくなりますのに、お母様からは『我慢が足りない』『その程度の痛み、誰でも耐えている』と冷たく突き放されて……! でも、痛いのです! 本当に、本当に痛くてたまらないのですわ……!!」
堰を切ったように溢れ出す、若い令嬢の悲痛な慟哭。
その叫びは、サロンにいたすべての女性たちの胸の奥底に突き刺さった。
ソフィア令嬢もまた、青ざめた唇を噛み締め、俯いて自らのドレスの裾を強く握りしめた。
「……わたくしもですわ。あの激痛の週は、ベッドから起き上がることすら叶いません。でも、痛みを訴えれば『世継ぎを産めぬ欠陥品』と婚家に蔑まれるのではないかと……恐ろしくて、誰にも言えませんでした……」
「わたくしも……」
「腰が砕けそうで、夜も眠れず……」
次々と漏れ出る、貴婦人たちの痛切な告白。
前世の現代社会ですら、月経困難症やPMS(月経前症候群)への理解は長年遅れていた。ましてや、男尊女卑の傾向が色濃く残り、医療が未発達なこの異世界において、女性たちがどれほどの孤立と激痛の中で、たった一人で耐え忍んできたか。
私はマリア令嬢の元へ歩み寄り、冷え切っていた彼女の小さな手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
「マリア様。皆様。よく聞いてください」
私の凛とした通る声が、重苦しい静寂を切り裂いて響き渡る。
「月経痛は、あなたの心の弱さでも、我慢が足りないからでも絶対にありません! それは生化学的に発生している明確な『局所炎症』であり、治療すべき『疾患』なのです!」
「しっ……疾患……!?」
令嬢たちが弾かれたように顔を上げる。
「ええ! 医学的に解説いたします。子宮の内膜が剥がれ落ちる際、子宮を収縮させて経血を外へと押し出すために、『プロスタグランジン(PGF2α)』という強力な生体活性物質が局所で大量に産生されます。このプロスタグランジンこそが、血管を激しく収縮させ、子宮の筋肉を過剰に痙攣(攣縮)させる真犯人なのです!」
私は白紙に素早く骨盤腔の断面図を描き、彼女たちに見せた。
「プロスタグランジンが過剰に分泌されれば、子宮の筋肉は酸欠状態に陥り、激しい虚血性の疼痛を引き起こします。さらに、その物質が血流に乗って全身へ回ることで、胃腸の平滑筋まで痙攣させて激しい下痢や吐き気を招き、脳血管を収縮させて片頭痛を引き起こすのです! 心臓発作で胸が痛む人を『我慢が足りない』と笑う人はいませんよね? 子宮の筋肉が激しい酸欠で悲鳴を上げているのに、なぜ耐えることが美徳とされるのですか! そんなものは医療への冒涜です!!」
科学的なロジックによる、痛みの完全な肯定。
長年「お前が弱いからだ」と責め立てられてきた女性たちにとって、エレナの言葉は、自らの存在そのものを救済する福音に他ならなかった。
マリア令嬢の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。
「ですが、恐れる必要はありません。原因物質が分かっているのなら、それをブロックする処方はすでに完成しています」
私は往診鞄から、丁寧に麻布で包まれていた大ぶりの陶器の茶筒を取り出した。
蓋を開けた瞬間――サロンの中に、どこか懐かしく、鼻腔の奥から全身を温めるような、甘くスパイシーな芳香が満ち溢れた。
「これは……? ハーブティー……ですの?」
「ええ。前世……いえ、私の研究室秘伝の婦人科特効生薬ブレンド――『女性用リカバリーハーブティー』です」
私は持ち込んだ携帯用のガラスポットに茶葉を入れ、厨房から運ばせていた沸騰したての熱湯を注ぎ入れた。
ゆらゆらと、湯気の中で踊る色とりどりの乾燥ハーブ。
淡い琥珀色の液体が、見る間に深い茜色へと染まっていく。
「このお茶の主成分は、東洋医学において『婦人科の聖薬』と称される生薬――当帰に酷似した北方の芳香セリ科植物の根、そして芍薬類似の生薬です」
ポットを傾け、私は薄手のティーカップへと茜色のハーブティーを注ぎ分けた。
「当帰に含まれるリグスチライドという精油成分は、骨盤腔内の鬱血を取り除き、血行を劇的に改善する『駆瘀血作用』を持ちます。そして芍薬に含まれるペオニフロリンが、過剰に収縮して痙攣している子宮平滑筋の緊張を、まるで魔法のようにふわりと弛緩させるのです。さらに、カモミール由来のアピゲニンが中枢神経の興奮を鎮めてイライラや気分の落ち込みを和らげ、ショウガとシナモンが、下腹部と腰の深部体温を内側から劇的に引き上げます」
プロスタグランジンの過剰産生を抑え、平滑筋の攣縮を解除し、骨盤内の微小循環を再建する。
漢方における三大婦人薬――「当帰芍薬散」と「芍薬甘草湯」の薬理構成を、現地のハーブを用いて完璧に再構築した、究極の鎮痛・温補ブレンド。
「まずは、マリア様。一口召し上がってみてください」
私がカップを差し出すと、マリア令嬢は震える両手でそれを受け取った。
立ち上る湯気を吸い込んだだけで、その強張っていた表情が微かに緩む。
そして、恐る恐る、温かい茜色の液体を口に含んだ。
「…………っ」
ゴクリ、と喉が鳴る。
一秒、二秒。
マリア令嬢の青ざめていた顔に、劇的な変化が訪れた。
「……あ……温かい……?」
マリア令嬢はカップを抱えたまま、驚愕に目を見張った。
喉を通った温もりが、胃へ落ち、そこからまるで温かい波が広がるように――冷え切って石のように硬直していた下腹部の奥底へと、じんわりと染み渡っていく。
「……嘘……お腹の、あの万力で絞られるような痛みが……解けていく……? 腰の重だるさが……消えていくわ……!」
痙攣していた子宮の平滑筋が、ペオニフロリンの作用によって急速に緊張を解かれていく。
毛細血管が広がり、酸素を含んだ温かい血液が巡り始めたことで、激痛を発していた痛覚神経が静まり返っていく。
「信じられませんわ……! あんなに冷え切って、引き裂かれそうだった下腹部が……まるで、温かい毛布で内側から包み込まれているみたい……! 痛くない……痛くありませんわ、エレナ様……!!」
マリア令嬢がカップを胸に抱きしめ、歓喜の涙を流しながら叫んだ。
その奇跡を目の当たりにした他の令嬢たちも、我慢しきれないといった様子でカップを手に取った。
「わたくしも……! まあ、なんて芳醇で優しい香り……!」
「美味しい……! スパイシーなのに、喉を通るとほんのり甘くて……身体の芯からポカポカしてまいりますわ!」
「腰の鈍痛が……嘘のように軽くなりましたわ!」
「肩の強張りが抜けて……なんだか、涙が出そうなくらい心が落ち着きますの……!」
サロン中が、至福のため息と感動の涙で満たされていく。
痛みを我慢することが淑女の掟だと教え込まれ、誰にも言えずに孤独な地獄を耐え続けてきた彼女たちが、生まれて初めて「痛みのない安らぎ」を手に入れたのだ。
それは単なる身体の治療にとどまらない、彼女たちの尊厳そのものの救済だった。
「エレナ様……!」
ソフィア令嬢が私の前に跪き、私の両手を強く握りしめた。
その瞳には、熱狂的な崇拝の光が宿っていた。
「お肌の美しさだけでなく……わたくしたち女性の、誰にも言えなかった最も深き苦しみを、あなたが救ってくださいました……! あなたこそ、真の慈愛をお持ちの聖女様ですわ!」
「エレナ様! そのお茶を、わたくしの家にも分けてくださいまし!」
「一年分……いいえ、わたくしの一生分を前納で買い取らせていただきますわ!」
「娘の分も! 来年成人を迎える娘のためにも、どうしても手に入れなくては!」
サロンの貴婦人たちが一斉に群がり、私の足元には、持参していた予備の茶葉の包みを巡って、金貨の袋や宝石入りの小箱が次々と積み上げられていった。
その熱狂ぶりは、前回のスキンケアセットの比ではなかった。
肌荒れは見た目の問題だが、月経痛は毎月必ず訪れる生存に関わる激痛なのだ。それを完全にコントロールできる術を手に入れたエレナに対し、彼女たちはもはや「一人の調合師」としてではなく、自らの人生の主治医として、絶対の忠誠を捧げ始めていた。
「皆様、落ち着いてください! 茶葉は領内の薬草園で大量栽培の手はずを整えておりますから、全員に行き渡るよう手配いたします! ただし、体質によって配合比率を微調整する必要がありますから、必ずカルテを作ってから処方しますね!」
私が叫ぶと、貴婦人たちは「はいっ!」「カルテを作っていただけるなんて光栄ですわ!」と、まるで高名な画家に肖像画を描いてもらうかのように歓喜して整列した。
美肌と月経痛の克服。
女性としての二大苦痛を一網打尽にしたエレナの存在は、この日、近隣領主の妻・娘たちの心を完全に掌握し、ハーディン辺境伯領の背後に「絶対に崩れない鉄壁の女性貴族ネットワーク」を完成させたのだった。
◇
すべての貴婦人への問診と処方を終え、膨大なお礼の品とともにハーディン城へと帰還した頃には、すでに夜の帳が下りていた。
城の主館・最上階の執務室。
パチパチと暖炉が燃える部屋で、副団長カイエンが机の上に広げられた帳簿を見つめながら、信じられないものを見るように眼鏡を押し上げていた。
「……信じられん。本当に、信じられん……」
知性派副団長の指先が、わずかに震えている。
部屋の中央、長椅子に腰掛けていたジルヴェスタ閣下が、紫の双眸を細めて視線を向けた。
「カイエン。何があった。サロンでエレナに不敬を働いた不届き者でもいたのか? いたのなら今すぐ兵を動かすが」
「いえ、閣下、真逆でございます……!」
カイエンは机の上の書類束を、震える手で掲げた。
「クランツ伯爵領、オルディン男爵領、ヴェルナー子爵領をはじめとする近隣七つの貴族家から、我がハーディン領に対する『生薬の優先供給協定』と、総額金貨三千枚に及ぶ『特別医療振興寄付金』の手形が、一晩で届きました……! さらに、これまで難航していた鉱山資源の関税免除協定に、向こうの領主たちの署名が即座に揃ったのです!」
「……何だと?」
ジルヴェスタ閣下が怪訝そうに眉をひそめる。
「一体、どうやってあの守銭奴の領主どもを抱き込んだのだ?」
「抱き込んだのは領主たちではありません。……彼らの『妻と娘たち』です!」
カイエンは興奮を隠しきれない様子で、手帳を開いて報告を続けた。
『エレナ様のお茶とクリームが手に入らなくなるような協定を結んだら、即座に離縁して実家へ戻ります』
『エレナ薬局の流通を邪魔するなら、今晩からあなたのお食事と寝所を永遠に別室にいたしますわ』
「……各領の奥方様方から、領主たちに対して一斉にこのような猛烈な突き上げがあったとのことです。結果として、領主たちは震え上がり、我が領の要求を百パーセント呑む形で協定書にサインをせざるを得なくなったのです」
「…………」
ジルヴェスタ閣下が、呆然と口を開けた。
軍事力でも、政治的な謀略でもなく。
たった一人の少女が施した「お肌の保湿」と「一杯のハーブティー」が、力尽くでも動かなかった北方の政治力学を、一瞬にして塗り替えてしまったのだ。
「エレナ……」
ジルヴェスタ閣下の口元から、深いため息とともに、隠しようもない甘やかな呟きが漏れた。
男は自らの額を手で覆い、肩を揺らして低く笑い出した。
「本当に……恐ろしい女性だな、あいつは。戦わずして北方の貴族どもを完全に跪かせるとは……。私の出番など、最初からどこにもなかったというわけか」
「ええ。エレナ様は、もはや我が領の調合師にとどまらず、北方の事実上の『女帝』として君臨しつつありますよ」
カイエンが眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、フッと笑う。
「これで、王都の貴族どもが何を喚こうと、近隣諸侯すべてがエレナ様の盾となります。……あの至宝を、誰にも渡す気はありませんからね」
主従の恐るべき囲い込みの意志が、完全に一致した夜。
――だが。
その頃、新設された研究室のベッドの上で、当のエレナはといえば。
「わふっ!」
「ふふ、テオ、くすぐったい。……今日もたくさん患者さんの笑顔が見られて、本当に良い一日だったわね」
仔獣テオのふかふかの腹に顔を埋め、自らが北方の政治を揺るがすフィクサーになっていることなど爪の先ほども気付かずに、天使のような無防備な寝息を立てていたのだった。




