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第21話:氷の辺境伯の不器用な甘え方。「私の毎朝の脈診はどうした?」

大気中の水分が一瞬にして過冷却を起こし、目に見えない無数の氷針となって降り注いだかのようだった。

新設されたばかりの白大理石の研究室。

南と東のアーチ窓から差し込んでいたはずの柔らかな朝の陽光すら、その男が立っているだけで、まるで薄墨を流したように凍てついて見えた。


開け放たれた白樺の扉の前に立つ、漆黒の毛皮外套を羽織った偉丈夫――北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。

その彫刻のように研ぎ澄まされた美貌には、一切の慈悲も温もりも存在しなかった。吹雪の後の夜空のように深く澄み渡っていたはずの紫の双眸は、ドス黒い深淵の底へと沈み込み、部屋の中にいた三人の男たちを――バルツ、ロディン、カイエンを、まな板の上の魚どころか、瞬時に凍結破砕すべき標的として射抜いていた。


「私の執務室へも顔を出さず……誰の許可を得て、私のエレナの部屋で、そのように茶を啜っている?」


低く、地脈を砕くような重低音が室内に響き渡る。

ゴゴゴ……と、物理的な質量を伴った魔力の奔流が床の絨毯を波打たせ、部屋の隅に置かれていた観葉植物の葉先が、パキパキと音を立てて白く凍りついていく。


「ヒッ……!?」


先ほどまで「大胸筋をほぐしてくれ」と騒ぎ立てていた第一部隊長バルツが、息を呑んで直立不動になった。金髪の短髪が恐怖のあまり逆立ち、背中に貼られた冷感湿布の清涼感など一瞬で吹き飛ぶほどの、本物の「死の冷気」がその分厚い背筋を駆け上がる。


「か、閣下……! これはその、決してサボっていたわけでは……! 筋肉の、その、定期点検を……!」


「バルツ。朝の素振りが千回で筋肉が攣りそうだと抜かしたな」


ジルヴェスタが一歩、足を踏み出した。

コツン、と革靴が石床を叩く乾いた音が、処刑人の足音のように響く。


「基礎体力が落ちている証拠だ。今すぐ第一鍛錬場へ戻り、甲冑を着込んだ上で外周を五十周走ってこい。……一刻以内に走り切れねば、明朝は百周だ」


「ご、五十周ぅぅぅっ!? ひぃっ、ただちにィィッ!!」


バルツは脱ぎ捨てていたシャツをひっつかむと、私の後ろをすり抜け、脱兎のごとく廊下へと弾け飛んでいった。巨漢とは思えない神速の退散劇だった。


逃げ出した忠犬の背中を冷酷に見送ったジルヴェスタの視線が、次にスッとスライドする。

標的となったのは、胸元のボタンを留め直したばかりの治癒魔術師ロディンだった。


「ひ……」


優雅を気取っていた美青年の顔から、完全に血の気が引いていた。

ロディンは後退りしようとしたが、背後の壁にコツンと背中が当たり、退路が塞がれていることを悟る。


「ロディン。魔力脈が乱れ、体の芯が熱いそうだな」


「あ、いや、閣下、これは術式の微小な過負荷による一時的な変調でして、エレナ様に少しだけアドバイスを――」


「魔力の制御が乱れているなら、余剰魔力をすべて消費するのが最善の治療法だ。北の第二防壁へ行け。あそこの防護結界の魔力炉が、先日の戦闘で目減りしている。貴様のその有り余る魔力で、日没までに炉を満杯にしてこい」


「な……ッ!? あそこの炉は、術者五人がかりで丸一日かかる容量ですよ!? 魔力枯渇で倒れてしまいます!」


「倒れたらオットーが泥水を飲ませて運んでくれる。……行け」


「ヒィィッ、行ってまいりますぅぅっ!」


ロディンは優美なローブの裾を乱暴にたくし上げると、風の魔術を使ったのではないかと疑うほどの速度で、扉の向こうへと消え去っていった。


残されたのは――お茶の缶を手に持ったまま、静かに眼鏡の位置を正していた副団長カイエンだった。

カイエンは冷や汗を一筋だけこめかみに流しながらも、努めて平然とした事務屋の仮面を崩さずに、胸元に手を当てて一礼した。


「閣下。私は正当な領地経営の公務で参った次第です。エレナ薬局の流通認可および生薬買い付け予算の決済は、領の財政に関わる急務――」


「カイエン」


ジルヴェスタが、氷の刃のような声で遮った。


「胃潰瘍で血を吐いて倒れた病人が、病み上がりに歩き回り、公務を盾にして茶を飲もうとするとは……ずいぶんと職務に熱心だな」


「ぐっ……」


「貴様の机の上に、王都の財務省から届いた査問書類がまだ三十通ほど未決済のまま積んであったはずだ。……今すぐ自室へ戻り、胃薬を煽ってベッドの上で片付けろ。夕方までに私の執務机に上がっていなければ、来期の副団長手当を全額、エレナの研究費に組み込む」


「……っ、直ちに処理いたします!」


カイエンは銀の缶を机に置き、帳簿を胸に抱え直すと、一寸の乱れもない完璧な角度で一礼し、早足で廊下の闇へと消えていった。


「あ、あの、師匠……! 儂は、城下の薬局へ届ける胃腸生薬の梱包作業が残っておりますので、これにて失礼をばッ!」


部屋の隅で気配を消していたオットーまでもが、自分の身の危険を察知したのか、トランクから薬草袋を抱えて脱兎のごとく逃走した。

テオだけが、円形ラグの上で丸くなり、「ふぁぁ……」と小さくあくびをして、再び前足に鼻先を埋めて眠りに落ちている。


――バタン。

白樺の扉が、外気圧の変動のように重い音を立てて閉ざされた。


嵐が去った後のような静寂。

広大な研究室の中に残されたのは、白衣を着た私と――漆黒の毛皮外套を纏ったジルヴェスタ様の、二人きりだった。


「……はぁぁぁぁぁ……」


私は両手を腰に当て、肺の中の空気をすべて吐き出すように、深く、長いため息をついた。

そして、眉を吊り上げ、大理石の作業台から一歩踏み出す。


「ジルヴェスタ様! 何をやっているのですか、あなたはッ!」


私の凛とした怒声が、静まり返った部屋に響き渡った。

相手が帝国最強の武人だろうと、北方を統べる公爵だろうと、関係ない。

医療の現場において、医師や看護師の業務を妨害し、他の患者を力ずくで威圧して追い払う行為は、絶対に許されない暴挙なのだ。


「バルツはストレッチ不足、ロディン様は睡眠剥奪、カイエン副団長は過労の兆候……全員、私が適切なトリアージと生活指導を行って、お茶を一杯飲ませて帰すところだったのですよ!? それを、外周五十周だの魔力炉の充填だの……! あんな過度の運動負荷をかけたら、バルツの筋肉痛は悪化しますし、ロディン様はまた片頭痛を再発させてしまいます! 治療計画の邪魔をしないでください!」


私がぷりぷりと怒りながら詰め寄ると――。


「…………」


ジルヴェスタ様は、先ほどまでの冷酷無比な鬼神のような威圧感を、嘘のように消し去っていた。

直立したまま、どこか気まずそうに視線を泳がせ、視線を斜め下の床へと落とす。

そして、無言のまま、ゆっくりと部屋の中央に置かれた革張りの長椅子(カウチ)へと歩み寄ると、どさりと音を立てて腰を下ろしたのだ。


「……ジルヴェスタ様?」


私が怪訝そうに眉をひそめると、ジルヴェスタ様は漆黒の外套をわずかに払いのけ、無造作に、左腕を机の上へと投げ出してきた。

長袖の黒い上着の袖口は、すでに留め具が外され、太く逞しい手首が露わになっている。


「……あいつらばかり診て」


低く、掠れた男の声。

そこには、戦場で数千の兵を指揮する総長の威厳など微塵も残っていなかった。

あるのは――どこか不服そうに、唇をわずかに尖らせ、拗ねたように瞳を伏せる、大型猛獣の素顔だった。


「私の毎朝の脈診を、忘れているのではないか」


「……はい?」


私は目をパチクリと瞬かせた。

脈診。

それは、彼が死の淵から生還して以来、私が毎朝の回診で義務付けていたバイタルチェックのことだ。


「あの……ジルヴェスタ様? 今朝はあなたが執務室で軍議を開いていらっしゃったので、邪魔をしてはいけないと思い、午後に伺うつもりだったのですが……」


「朝一番に来るのが、主治医の役目だろう」


不器用極まりない、子どものような言い分。

見れば、天下の猛将の額には、隠しきれない焦燥の色が滲んでいた。

自分が軍議で拘束されている間に、エレナが他の男たち――半裸の部下や、美貌の魔導士に囲まれ、仲睦まじそうにお茶を振る舞っていた。その光景が、どれほどこの男の胸を激しく掻き乱したか。

それを言葉にできず、ただ「脈診を忘れている」という大義名分を振りかざして、不機嫌そうに手首を突き出しているのだ。


(……まったく、この人は……)


私は呆れ半分、可笑しさ半分で、思わず口元が緩みそうになるのを必死に堪えた。

外では「氷血の狂犬」と恐れられ、近隣の諸侯すら震え上がらせる男が、自分の前でだけは、朝の散歩を待ち焦がれていた大型犬のように拗ねている。

前世の激務病棟で、理不尽に怒鳴り散らすだけの横柄な権力者たちを見てきた私にとって、この不器用で真っ直ぐな甘え方は、毒気が抜けるどころか、どこか愛おしさすら感じてしまうものだった。


「はいはい、分かりましたよ。申し訳ありませんでした、ジルヴェスタ様」


私は白衣の裾を整え、長椅子の脇に置かれた丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。

そして、差し出された彼の太く逞しい左腕へと、自らの両手を伸ばす。


触れた瞬間。

布地越しではない、男の皮膚の熱が、私の指先へとダイレクトに伝わってきた。

鍛え抜かれた硬い筋肉と、太い骨格。

かつて死の淵で氷のように冷え切っていたその手首は、今や力強い生命の熱を帯びていた。


「失礼します。触診に入りますね」


私は人差し指、中指、薬指の三本の腹を、彼の橈骨動脈へと優しく沈めた。

目を閉じ、呼吸を整え、指先の触覚に全神経を集中させる。


ト・ト・ト・ト……。


規則正しい、力強い拍動。

指先を跳ね返す脈波は豊かで、血管壁の弾力性も極めて良好。

かつて彼を苛んでいた、あの不整脈や結滞、糸のように細かった危険な頻脈の痕跡など、どこを探しても見当たらない。


「……うん。素晴らしい脈です」


私は目を開き、微笑みながら顔を上げた。


「心拍数は毎分六十四拍。リズムは完全に整(レギュラー)です。血管の緊張も抜けていますし、肝臓と腎臓の解毒機能も完全に正常値で推移していますね。体内の魔力残渣も、先日の戦闘で綺麗に循環・消費されたようで、濁りは一切ありません。すっかり毒も抜けましたね、ジルヴェスタ様」


私が太鼓判を押すと、ジルヴェスタ様は深く息を吐き、紫の瞳を静かに私へと向けた。

その瞳の奥には、安堵の色とともに――何かを確かめるような、熱く湿った光が宿っていた。


「……そうか」


「ええ、至極健康です。これなら、もう無理な絶食やお粥生活を続ける必要もありません。消化の良い肉や魚も、少しずつ召し上がっていただいて構いませんよ」


「……だが」


ジルヴェスタ様の低い声が、静かな室内に落ちた。

男の視線は、彼の手首に添えられたままの、私の指先へと注がれていた。

そして――。


「……お前が触れていると、少し速くなる気がする」


「……え?」


至近距離で囁かれた言葉に、私の思考が一瞬停止した。


ジルヴェスタ様は、手首を引こうとはしなかった。

むしろ、私の指先を自らの皮膚へと押し付けるように、わずかに腕の位置をずらす。

トクン、トクン、トクン……。

確かに、先ほどまで規則正しく六十四拍を刻んでいたはずの脈動が――私の指先の下で、わずかに速度を上げ始めていた。

七十、七十六、八十二……。

ジルヴェスタ様の切れ長の目元が、熱っぽく細められる。

その双眸に宿る光は、獲物を前にした獣のそれであり、同時に、最愛の女性に触れられた男の、どうしようもない情熱の露呈だった。


「お前の手が、私の肌に触れるたび……胸の奥が騒がしくなる。心臓が跳ね上がり、息が浅くなるのだ。……これも、病気配分か? エレナ」


甘く、深く、耳朶を蕩かすようなスパダリの囁き。

天下の美男子が、耳の先端を微かに赤らめながら、至近距離から真っ直ぐに愛を乞うような眼差しで見つめてきているのだ。

並の貴族令嬢であれば、その色気に当てられ、顔を真っ赤にして卒倒するか、その逞しい胸元へと身を投げて歓喜の涙を流しているところだろう。


――しかし。

相手が悪すぎた。

目の前にいるのは、前世で三十代半ばまで総合病院の救急病棟と門前薬局で働き詰め、色恋沙汰などという不確定要素を「生体バイタルを狂わせるノイズ」としてしか認識してこなかった、筋金入りの臨床薬剤師・エレナ・ノールである。


「…………っ!?」


私の表情が、一瞬にして凍りついた。

ただし、それは恋のときめきによるものでは断じてない。

医療従事者としての、最大級の「警戒警報(レッドアラート)」だった。


「えっ……!? 心拍数増加……!? 八十を超えて、今、八十八拍……!?」


私はジルヴェスタ様の手首を掴んだまま、勢いよく身を乗り出した。

翡翠の瞳を血走らせ、彼の顔色、瞳孔、頸静脈の拍動を、猛烈なスピードで視診し始める。


「ちょ、ちょっと待ってください! 安静時心拍数が、会話をしているだけの短時間で二十拍以上跳ね上がるなんて、明らかに異常です! 自覚症状としての動悸と呼吸促迫……! まさか、ポーション中毒の後遺症による『洞不全症候群』の残存!? それとも、急激な魔力循環の回復に伴う『発作性上室性頻拍』の兆候ですか!?」


「……は?」


ジルヴェスタ様の甘やかな表情が、ピシリと固まった。


「大変です、心電図……くっ、この世界には心電図モニターがない! オットー先生を呼んで聴診器……いえ、金属の聴診筒を! 脈拍欠損の有無を調べるために、橈骨動脈と心尖部拍動を同時にカウントしなければ! ジルヴェスタ様、胸元のボタンを外してください、直接心音を聴きます!」


私は長椅子から飛び起きるなり、作業台へダッシュして特製カルテをひったくり、羽ペンを握りしめた。


「主訴:安静時の一過性頻脈、動悸感、呼吸促迫! 鑑別診断:甲状腺機能亢進症、褐色細胞腫によるカテコラミン過剰分泌、電解質異常による期外収縮頻発……! ジルヴェスタ様、深呼吸をしてください! 息を吸って、止めて、お腹に力を入れる『バルサルバ手技』を行います! 迷走神経を刺激して心拍数を強制的に落としますから!」


「…………」


カルテに猛烈な勢いでカタカナと医学記号を書きなぐり、血相を変えて聴診筒を構え直す私。

その必死な姿を、長椅子に座ったまま見つめていたジルヴェスタ様は――。


深く、深ーく、天を仰いだ。

そして、片手で自らの顔半分を覆い、喉の奥から絞り出すような、途方もなく重いため息を漏らしたのだ。


「……はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


「ジルヴェスタ様!? ため息をついては駄目です、換気量が落ちます! 横になって、足を高くしてください!」


「……違う」


ジルヴェスタ様は顔を覆った指の隙間から、紫の瞳を微かに覗かせた。

その瞳に浮かんでいたのは、殺気でも威厳でもなく――己の選んだ最愛の女性の、あまりにも突き抜けた鈍感さに対する、底知れない徒労感と、それ以上の深い諦念だった。


「そうではない、エレナ……。病気ではないのだ……」


「病気じゃないわけがないでしょう! 生理学的に考えて、何の原因もなく洞結節からの刺激伝導系が急激に頻回発火するはずがありません! 交感神経終末からノルアドレナリンが過剰放出され、心筋のβ1受容体が刺激されているのですよ! 放っておけば心筋酸素消費量が増大して、心不全のリスクが跳ね上がります!」


「だから……! その、アドレナリンとやらを放出させている原因が、お前だと言っているのだ……!」


ジルヴェスタ様が、苦々しく吐き捨てるように言った。

見れば、彼の耳元だけでなく、引き締まった頬から首筋にかけて、隠しようもない紅潮が広がっていた。

あの不敗の猛将が、恥じらいに耐えかねて奥歯を噛み締めている。


「……お前が、無防備に私の肌に触れるからだ。至近距離から、その澄んだ目で私だけを見つめてくるからだ。……私が一人の男として、愛しい女に触れられて胸を高鳴らせているのだと……なぜ、お前は露ほども気付かないのだ」


「……え?」


私の手が、ピタリと止まった。

聴診筒を構えたまま、ぽかんと口を開ける。


一人の、男として。

愛しい女に、触れられて。

胸を、高鳴らせている……?


「あ……」


私の脳内コンピューターが、前世の医学知識ではなく、一般的な「人間関係」の領域で、ようやく演算を完了した。

交感神経の興奮。

アドレナリンのサージ。

心拍数の急激な増加、血圧上昇、末梢血管の拡張による顔面紅潮。

それは――病理学的な異常ではなく。

思春期の少年少女から大人に至るまで、古今東西あらゆる人間が経験する、極めて正常で、純粋な――「恋愛感情による生理的反応」。


「あ、あああ……っ!?」


理解した瞬間、私の顔面が、まるで熱湯をぶちまけられたかのように沸騰した。

カアァァァッ! と全身の血液が一気に頭頂部へと逆流していく。


「そ、それって……えっ、あの……不整脈じゃなくて……そ、そういう……!?」


「ようやく分かったか、この鈍感な主治医殿」


ジルヴェスタ様は長椅子から立ち上がった。

手袋をはめていない素手のまま、ゆっくりと、逃げ場を塞ぐように私との距離を詰めてくる。

一歩、また一歩。

男の纏う冷気は疾風のように消え去り、代わりに立ち込めるのは、理性を焼き尽くすほどの濃密な熱情。


「エレナ。お前が私の病を治し、痛みを消し去ってくれた。……だが、お前が私の心臓に灯したこの熱だけは、どんな名薬を用いても治りそうにない」


「ジ、ジルヴェスタ様……っ」


作業台に背中がトンと当たった。

逃げ場はない。

ジルヴェスタ様の逞しい両腕が、私の両脇の作業台に置かれ、完全に彼の胸の中に閉じ込められる形になる。

見上げる視線の先、至近距離にある紫の双眸は、蕩けるように甘く、それでいて狂気じみた独占欲を孕んでいた。


「私の命も、この領地も、すべてお前に捧げると言ったはずだ。……あいつらのような有象無象に、お前を渡す気など微塵もない。お前を誰にも奪わせないためなら、私はどんな手段でも使う」


男の太い指先が、ゆっくりと持ち上げられた。

私の熱く火照った頬へと、慈しむように、そっと触れようと伸びてくる。

触れられたら、今度こそ私の心拍数の方が危険水域を突破してしまいそうな、甘やかで息苦しい緊張感。

ジルヴェスタ様の顔が、ゆっくりと近づいてきて――。


まさに、その指先が私の頬に触れる、寸前だった。


バァァァァァァァァンッッッッ!!!!


主寝室の扉すら生ぬるい、凄まじい衝撃音が研究室に炸裂した。

白樺の扉が蝶番ごと吹き飛ぶかのような勢いで開け放たれる。


「ヒャアッ!?」


私とジルヴェスタ様が同時に弾かれたように飛び退く。

入り口に仁王立ちになっていたのは――。

白髪交じりの髪をきっちりとシニヨンにまとめ、黒いエプロンドレスを着こなした、威厳あふれる初老の女性だった。

辺境伯家の総家政婦長、マルグリット。五十二歳。

ジルヴェスタ様が幼少の頃からこの城を取り仕切り、あの冷酷公爵ですら頭の上がらない、城内の「真の支配者」にして母のような存在。


マルグリットは、執務机を挟んで至近距離で見つめ合っていた主と男爵令嬢の姿を一瞥した。

そして、眉毛をピクリとも動かさずに、手にした豪奢な銀のトレイを掲げ、凛とした通る声で告げたのだ。


「朝の執務時間中に、研究室で何をなさっているのですか、ジルヴェスタ坊ちゃま」


「坊ちゃま言うなマルグリット! 私は今、極めて重要な――」


「坊ちゃまの不器用な色事など後回しです」


天下の辺境伯の反論を一刀両断にしたマルグリットは、大股で部屋へと踏み込んできた。

そして、トレイの上に乗せられていた、強烈な香水の匂いを放つ豪奢な封筒の山を、私の目の前の作業台へとバサリと置いたのだ。


「エレナ様。急ぎ、ご確認いただきたい案件がございます」


「えっ……? マ、マルグリットさん、これは……?」


封筒には、どれも金箔押しされた豪奢な貴族の家紋と、色とりどりの華やかなリボンが結びつけられていた。

マルグリットは深く息を吐き、厳しい眼差しで私を見つめた。


「近隣の有力領主夫人、並びに伯爵・侯爵家の令嬢方からでございます。……エレナ様宛てに、社交界のお茶会への『緊急特別招待状』が、今朝だけで二十通以上届いております」


「お茶会の……招待状……?」


私が目を丸くすると、マルグリットは手紙の束を一瞥し、重々しく告げた。


「ええ。『王都で大流行している美容茶を飲んで肌がボロボロになった、どうか助けてほしい』――と。貴族女性たちの肌荒れクライシスが、今まさに臨界点に達しております」


甘いラブコメの空気を一瞬にして吹き飛ばす、新たな医療トラブルの幕開け。

元臨床薬剤師エレナの知識は、今度は貴族社会の社交界の闇へと、容赦なく切り込もうとしていた。

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