第19話:過労死寸前の副団長を救え! 特製消化薬と夢の研究室
夕闇が急速に濃さを増す中、私たちは城へと続く石畳の上り坂を、狂ったように疾走していた。
先頭を走る第一部隊長バルツの背中からは、先ほどまでの陽気な気配が完全に消え失せ、焦燥と怒気を含んだ濃密な汗が湯気となって立ち上っている。
「カイエンの野郎……! 薬局の認可書だの仕入れの手配だの、いつ寝てやってるのかと思やあ、案の定ぶっ倒れやがったか! あのクソ真面目眼鏡が、倒れるまでペンを握り続けてんじゃねえよッ!」
「バルツ、怒鳴る暇があるなら足を速めなさい! 吐血の報せからすでに十分が経過しているのよ! 食道静脈瘤の破裂や消化管穿孔なら、分単位で出血性ショックに陥るわ!」
「ハ、ハヒィ……ッ! エレナ師匠、儂のこの老体では……足が、足が千切れそうでございます……!」
トランクを必死に抱えて走る老侍医オットーの悲鳴を背中で受け流し、私は往診鞄のバンドを肩に食い込ませながら、城の正門を潜り抜けた。
目指すは、城の二階・東翼に位置する「騎士団総括事務執務室」。
城内へ駆け込むと、廊下にはすでに異様な緊迫感が漂っていた。
当直の騎士たちが青ざめた顔で行き交い、事務官の文官たちが部屋の前でおろおろと右往左往している。
「どきなさいッ! 調合師エレナです!」
私の鋭い一喝に、人だかりが弾かれたように左右に割れた。
勢いよく押し開けた執務室の中――そこに広がっていたのは、まさに「限界労働者の成れの果て」というべき凄惨な光景だった。
壁一面に積み上げられた領地経営の帳簿、軍備の出納記録、王都への報告書。
その書類の山に囲まれた巨大なマホガニーの執務机の前に、銀髪の美青年――カイエン・アルヴァ副団長が、机に上半身を突っ伏すようにして倒れ込んでいた。
床には、彼の手から滑り落ちたのであろう羽ペンが転がり、インクと混ざり合うようにして、暗赤色の鮮血が絨毯へと染みを作っている。
「……う、ぐ……っ、は……っ」
カイエンの喉から漏れるのは、人間が耐えうる限界をとうに超えた、掠れた激痛の喘ぎ。
仕立てのいい紺青の軍服の胸元は掻きむしるように乱れ、青白い指先は、まるで自らの内臓を抉り出そうとするかのように、みぞおち(心窩部)を骨がきしむほどの力で圧迫していた。
銀縁の眼鏡は床に落ちて割れ、露わになった切れ長の瞳は焦点が定まらず、額からは滝のような脂汗が流れ落ちている。
「カイエン副団長!」
私が駆け寄って床に膝をつくと、カイエンは虚ろな目をわずかに動かし、血に濡れた唇を微かに震わせた。
「……エ……レナ、殿……。すま、ない……見苦しいところを……。薬局の、追加資材の……決裁が、まだ……終わって、おら……」
「喋らないでッ!!」
私は彼の右手を力づくで引き剥がし、即座にバイタルサインの測定に入った。
右手の人差し指と中指を、彼の橈骨動脈へ沈める。
ト・ト・ト・ト・ト……!
一分間に百二十回を超える頻脈。脈波は弱く、緊張が極度に高い。
続いて、左手で彼の額と首筋に触れる。皮膚は冷たく湿潤、末梢の毛細血管再充満時間は二・五秒。ショックの初期段階(代償性ショック)だ。
「オットー先生、ガーゼと吸引用の清潔な布を! バルツ、カイエンのネクタイと軍服のボタンを全部外しなさい! 気道を確保して、足を三十センチ高くするのよ!」
「お、おうっ!」
「ハッ、直ちに!」
二人が手際よくカイエンの衣服を緩め、下肢を書類箱の上に乗せて挙上する。脳への血流を優先的に確保するショック体位だ。
私はカイエンの腹部へと両手を当てた。
深部触診。
みぞおちから左季肋部にかけて、指先をゆっくりと沈め込む。
「っ……があぁぁぁぁっっっ……!!」
触れた瞬間、カイエンの身体が弓なりに跳ね上がった。
全身の筋線維が硬直するほどの激痛。
だが――私は冷静にその抵抗を指先のセンサーで読み取った。
(腹壁全体が鉄板のようになる『板状硬』はない……! つまり、胃壁が完全に突き破れる『穿孔』には至っていないわね。腹膜炎の兆候はなし。けれど、みぞおちに限局した強烈な筋性防御と圧痛……!)
私は床に吐き出された血液の性状を、固有スキル「成分鑑定」で瞬時にスキャンした。
鮮血ではない。胃酸によって酸化され、わずかに黒みを帯びたコーヒー残渣様の褐色血。
出血量は推定で百五十から二百ミリリットル前後。大動脈の破綻による大出血ではないが、広範囲の粘膜びらんと潰瘍底からの持続的な毛細血管出血だ。
「診断を下します。……急性ストレス性胃潰瘍、多発性胃びらん、および逆流性食道炎の劇症化に伴う出血性胃炎です!」
「げ、胃潰瘍……!?」
バルツが息を呑む。
「オットー先生、よく聞きなさい。胃潰瘍の病態生理の基本は、日本の薬理学者・柴田氏が提唱した『天秤の理論(Shayの攻撃・防御因子バランス説)』です!」
「て、天秤……!?」
「ええ! 人間の胃の中では、常に二つの力が拮抗しています。一つは、食べたものを溶かすための強酸――塩酸とペプシンという『攻撃因子』。もう一つは、胃そのものが溶かされないように胃壁を覆う粘液、粘膜血流、プロスタグランジンという『防御因子』です! 健康な身体であれば、この天秤は釣り合っている。しかし……!」
私は倒れ伏すカイエンの、目の下の痛々しい隈を指差した。
「この人は、極度のプレッシャーと過労、不眠不休の書類仕事によって、交感神経が異常興奮し続けていた! その結果、胃粘膜の毛細血管が極度に収縮して血流が途絶え、防御因子である粘液のバリアが完全に消滅したのです! そこへ、眠気を覚ますための濃い茶や覚醒薬による過剰な胃酸――すなわち暴走した攻撃因子が降り注ぎ、自らの胃酸で自分の胃袋を溶かしてしまったのよ!!」
生化学的な病態の全貌。
カイエンがどれほどの激痛を抱えながら、涼しい顔をして薬局の認可書を書き上げていたか。
その壮絶な自己犠牲の真実を突きつけられ、バルツは悔しそうに拳を握りしめ、オットーは言葉を失って震えた。
「う……あ……私は……まだ、やらねば……」
血を吐きながら、なおも机の上の書類へと手を伸ばそうとするカイエン。
その青白い手を、私はパシィン! と鋭い音を立てて叩いた。
「っ……エレナ、殿……?」
呆然とするカイエンを見下ろし、私は仁王立ちになって、執務室の天井を突き抜けんばかりの雷鳴を落とした。
「有能な人間ほど、自分の身体を雑に扱うんじゃないわよッッッ!!!!」
ピシャリ、と鞭を打つような怒声。
カイエンの切れ長の目が、驚愕に見開かれた。
「何を勘違いしているのですか!? あなたが倒れたら、滞った書類は誰が処理するのですか!? あなたが死んだら、薬局の認可はどうなるのですか!? あなたが命を削って差し出した仕事など、私は爪の先ほども嬉しくありません! 医療従事者として、患者の不摂生と命の冒涜を断じて許しません!」
エレナは胸元から特製カルテをバサリと広げ、羽ペンを猛烈な速度で走らせた。
「処方箋を出します! 主訴:出血性胃潰瘍! 治療方針:即座にペンを捨て、書類を燃やし、ベッドへ直行して眠ること!! 異論は一切認めません!!」
「しょ、書類を燃やすのは勘弁してくれ……」
カイエンが力なく呟いたが、その瞳からは先ほどまでの張り詰めた狂気が消え失せ、不意を突かれたような、どこか救われたような光が滲み出ていた。
誰にも弱音を吐けず、完璧な副団長として走り続けてきた男の硬直した心が、エレナの理不尽なまでの怒声によって、粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
「オットー先生、トランクを開けなさい! 即座に調合に入ります!」
「ハッ! 仰せのままに!」
私は往診鞄から、二つの遮光薬瓶と、乳鉢を取り出した。
今必要なのは、破壊された天秤を力ずくで平衡に戻す「二方面同時作戦」だ。
すなわち――攻撃因子の完全制圧と、防御因子の急速再建!
「まずは攻撃因子の遮断です!」
私が秤に乗せたのは、ナス科の自生植物――ベラドンナ類似のハーブから抽出した微細アルカロイド粉末(アトロピン・スコポラミン様成分)と、強い苦味を持つ黄連の粉末。
「副交感神経末端のアセチルコリン受容体(M1・M3受容体)を一時的にブロックし、胃壁細胞からの胃酸分泌の蛇口を物理的に締め上げます! さらに、胃の出口(幽門部)の激しい痙攣性収縮を解きほぐし、胃の内圧を一気に下げる!」
ガリガリと乳棒で微細化し、続いて第二の層となる生薬を取り出す。
「そして……防御因子の再構築! 現代薬学における粘膜保護剤――スクラルファート(アルサファール)の概念を、天然生薬で再現します!」
私が取り出したのは、先日の山狩りで採取した海藻類似の粘液質植物から抽出した高純度アルギン酸ナトリウム様エキス、そして甘草から抽出した高濃度グリチルリチン酸。
これらを適量の温水に溶かし込むと、みるみるうちに高粘度の透明なゲル状液体へと変化していった。
「アルギン酸と粘液配糖体は、強酸性の環境――すなわち胃酸と接触した瞬間、瞬時に不溶性のゲルへと相転移を起こします。そして、潰瘍によってタンパク質が露出した患部へと、磁石のように吸い寄せられて結合するのです! 胃全体に広がるのではなく、血が滲んでいる潰瘍の傷口だけにピタリと張り付き、人工の分厚い『かさぶた(保護被膜)』を形成する! ペプシンや胃酸の攻撃を完全に遮断し、局所の血流を再開させるのです!」
酸を止める粉末薬と、傷口を直接塞ぐ粘液シロップ。
二つの薬効が時間差で発現する、エレナ特製の「二層性消化器修復薬」。
「カイエン副団長、口を開けなさい!」
私はスプーンではなく、シリンジ(小型の吸入器)に薬液を充填し、カイエンの唇の端へと押し当てた。
カイエンはもう抵抗しなかった。
赤子のように素直に口を開き、エレナの手から差し出された薬液を受け入れる。
トスン、と。
とろみのある冷涼な液体が、焼け爛れた食道を通過し、荒れ果てた胃袋の中へと滑り落ちていった。
「…………っ」
薬液が胃に到達した、その刹那。
カイエンの身体が、ビクリと震えた。
目を見開く青年。
彼の胃の中で、信じられない生化学反応が起きていた。
分泌を続けていた強酸の波が、アルカロイドの作用によってピタリと止まる。
そして、先ほどまで火炎放射器で焼かれているかのようだったみぞおちの奥底で――ドロリとした粘液エキスが、出血していた潰瘍の窪みへと滑り込み、ピタリと密着したのだ。
まるで、燃え盛る傷口の上に、極上の冷たいシルクの布を優しく被せられたかのような感覚。
「……あ……」
カイエンのみぞおちを押さえていた指先から、スッと力が抜けた。
万力で締め上げられ、刃物で抉られていたあの凄惨な激痛が――嘘のように、急速に潮が引くように消え去っていく。
「……痛みが……止まった……? 胃が……冷えて、穏やかになっていく……?」
「止まったのではありません、保護膜で覆っただけです。まだ胃壁の血管は傷ついていますから、一滴の出血も許されませんよ」
私は素早くカイエンの脈拍を取り直した。
毎分九十二拍。
先ほどの危険な頻脈が、目に見えて落ち着きを取り戻している。顔の土気色も引き、正常な皮膚温が戻りつつあった。
「バルツ、カイエンを寝室へ運びなさい! 書類は全部没収です! 向こう三日間は重湯と消化薬以外の固形物は一切禁止! ペンを持とうとしたら、腕を縛り上げなさい!」
「へいっ! 任せてくだせえエレナ様! おい眼鏡、大人しく運ばれろ!」
バルツがカイエンを軽々と米俵のように肩に担ぎ上げた。
いつもなら「無礼だ、降ろせ」と怒鳴り散らすはずの副団長は、痛みから解放された安堵のあまり、すでにバルツの背中でスヤスヤと意識を手放し、深い眠りへと落ちていた。
「ふぅ……。間一髪だったわね」
血に汚れた床を見つめ、私は深く息を吐いた。
命に別状はない。適切な休養と内服を続ければ、一週間で潰瘍底には白い肉芽が盛り上がり、完全寛解へと向かうはずだ。
こうして、過労死寸前だった知性派副団長の救命劇は、無事に幕を閉じたのだった。
◇
――そして、五日後。
「エレナ様。少々、お時間をいただけますでしょうか」
朝の回診を終えた私の前に現れたのは、見違えるような姿となったカイエン副団長だった。
目の下の赤黒い隈は完全に消失し、陶器のように滑らかな白皙の肌には健康的な血色が差している。銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳は、かつての神経質な光ではなく、澄み切った知性と――そして、底知れない熱情を湛えていた。
仕立て直された紺青の軍服の着こなしも完璧で、まさに帝国貴族の鑑といった優美な佇まい。
「カイエン副団長! もう起き上がって大丈夫なのですか? 胃の調子は――」
「ええ、エレナ様の処方してくださったお粥と消化薬のおかげで、もはや胃酸の逆流も、あの胸を焼くような不快感も完全に消失いたしました。生まれて初めて、朝の目覚めを心地よいと感じております」
カイエンは胸元に手を当て、優雅に、だが深々と頭を下げた。
その所作には、一国の王に対するものと同等の、至高の敬意が込められていた。
「私の命を繋ぎ止め、愚かな不摂生を叱責してくださったこと……何と感謝を申し上げればよいか。言葉もございません」
「いえ、元気になられたなら薬剤師冥利に尽きます。でも、二度とあんな無茶な残業はなさらないでくださいね」
「肝に銘じております。……さて、エレナ様」
カイエンはすっと顔を上げると、懐から一枚の豪奢な銀の鍵と、美しく製図された見取り図を取り出し、私の手元へと恭しく差し出した。
「お礼と言っては何ですが……いえ、我が領の、そして私個人の至高の責務として。あなたに相応しい『環境』を整えさせていただきました」
「環境……ですか?」
「はい。案内いたします。こちらへ」
カイエンに導かれ、私は城の中央大階段を上っていった。
二階、三階を通り過ぎ、普段は立ち入りが制限されている最上階――四階の東翼フロアへ。
そこは、城の中で最も標高が高く、南と東に巨大なアーチ状の窓が連なる、日当たりと見晴らしが最高の特等席だった。
カイエンが銀の鍵を差し込み、重厚な白樺の扉を押し開けた瞬間――。
「……っ!?」
私の息が、完全に止まった。
「な……な、何ですか……ここは……!?」
目の前に広がっていたのは、王都の王立薬草院の第一調合室すら足元にも及ばない――まさに、薬学研究者にとっての「天国」そのものだった。
天井の高い広大なフロアには、最高級の白大理石で作られた実験台が何列も並び、壁面には温度と湿度を一定に保つための特殊な換気ダクトが張り巡らされている。
窓際には、特注の透明度の高い水晶硝子で作られた、何十台もの最新鋭蒸留器、分液漏斗、減圧抽出装置、そして精密天秤。
壁一面を埋め尽くす棚には、何千種類もの生薬を分類保管できるよう、防虫・防湿の桐材で作られた引き出しが整然と並んでいる。
「……これ、だけではありませんよ」
カイエンが満足げに眼鏡のブリッジを押し上げ、奥のガラス扉を指し示した。
扉の向こうに広がっていたのは――城の屋上テラスを丸ごと温室へと改修した、巨大なガラス張りの植物園だった。
温室の中には、床暖房のように張り巡らされた温水パイプが通り、厳寒の北方でありながら、春のような温暖な湿度が保たれている。土壌には腐葉土と火山灰が黄金比で配合され、すでに各地から集められた希少な薬草の苗が青々と葉を広げていた。
「寒冷地特有の薬草だけでなく、温暖な気候でしか育たぬ南方生薬も、この魔力式温水パイプを用いれば一年中栽培が可能です。……さらに、あちらを」
カイエンが調剤室の隣の小部屋の扉を開ける。
そこには、ふわふわの最高級羽毛布団が敷かれた天蓋付きベッドと、座り心地の良さそうな革張りの安楽椅子、そして温かいハーブティーをいつでも沸かせる専用の小暖炉が設えられた、完璧な「私室兼仮眠室」が存在していた。
「エレナ様が夜遅くまで研究に没頭された際、即座に質の高い睡眠が取れるよう設計いたしました。動線には一切の無駄を省き、調剤事故を防ぐための二重チェック台も完備しております。……すべて、私の職権と領地予算をフル稼働させ、特注で仕立て上げさせました」
「と、特注って……カイエン副団長、これ、一体どれだけの費用が……!?」
「金貨数百枚程度です。問題ありません、我が領の防衛予算の予備費と、私の今期の手当を全額投入いたしましたので」
事も無げに言ってのける知性派美青年。
その瞳には、かつての冷徹な官僚の姿は微塵もなかった。
あるのは――ジルヴェスタ閣下とはまた別のベクトルで、エレナをこの城に完璧に定住させ、二度と手放さないために外堀を完璧に埋め尽くした男の、狂信的なまでの達成感だった。
(この人は……ジルヴェスタ様が力技で囲い込もうとするなら、制度と設備で囲い込むタイプだわ……!)
私の背筋に、心地よい感動と同時に、微かな戦慄が走る。
だが――目の前に広がる夢のような研究環境を前にして、研究者としての血が騒がないはずがなかった。
「す……すごい……! この蒸留器、還流冷却器の傾斜角度が完璧だわ! 温室の土壌湿度計も設置されているし、これなら月光花の組織培養も夢じゃない……!」
私が目を輝かせ、子供のように実験台を撫で回していると、カイエンは心底嬉しそうに目を細めた。
「気に入っていただけて光栄です。ここはあなたの城です、エレナ様。誰にも邪魔されず、心ゆくまであなたの至高の医学を探求してください。……もちろん、事務手続きや資材の調達は、この私が一生涯をかけてサポートいたしますので」
完璧なスパダリ補佐官の笑み。
胃潰瘍を治してもらった恩義と崇拝が、彼を「エレナ至上主義」の最強の事務方へと進化させていた。
――だが。
その時だった。
「おーい! エレナ様ァッ! 俺の筋肉の調子を診てくだせえええっ!!」
「エレナ様、新しい治癒術式の構築で魔力脈が乱れました、触診をお願いできますか?」
新設されたばかりの研究室の扉の向こうから、騒がしい足音と、聞き覚えのある野太い声、そして艶やかな美声が同時に響き渡った。
ドタドタと廊下を走ってくる第一部隊長バルツと、治癒魔術師ロディン。
さらには、階段の奥から――冷え切った空気を纏い、抜き身の大剣のような殺気を放ちながら上がってくる、城の主の足音までもが重なり合っていた。
「……ちっ」
カイエンの舌打ちが、静かな研究室に小さく響いた。
副団長は眼鏡の奥の瞳をスッと細め、扉の方向を冷徹に見据えた。
「野蛮な筋肉ダルマに、頭痛持ちの魔導士……果ては閣下まで。まったく、ハエのように群がってきて目障りですね……。エレナ様、鍵をかけて追い払いましょうか?」
「えっ、あ、いや、それは……!」
完成したばかりの国宝級の夢の研究室。
しかしそこは――元薬剤師エレナを巡る、屈強な男たちの仁義なき「縄張り争い」の最前線となろうとしていた。




