第18話:城下に広がる奇跡の噂。「エレナ薬局」の出張所、爆誕!
カン、カン、カン、カンッ!
城門の警鐘が、冷え切った朝の空気を激しく震わせていた。
自室の窓から身を乗り出した私は、眼下に広がる異様な光景に目を疑った。
跳ね橋の向こう、雪を押し固めた街道の上に、見渡す限りの人だかりができている。
厚手の毛布にくるまった子どもを抱く母親たち、杖をついた老人、青白い顔の男たち――その数、ゆうに百人を超えていた。
『昨日の、蜜柑のお薬をくれた薬師様はいらっしゃいませんか!』
『うちの子も、もう四日も熱と咳が止まらないんです!』
『王都のポーションは苦すぎて全部吐いちまう! どうか、あのお薬を!』
『エレナ様! 聖女エレナ様、お助けください!!』
口々に叫び、城門に向かって両手を伸ばす民衆の姿は、まるで奇跡の再臨を乞い願う巡礼者の群れのようだった。門番の重装歩兵たちが槍の柄を横にして必死に押し留めているが、我が子の命がかかった親たちの必死の形相に、じりじりと圧されかけている。
「……嘘でしょう……。パン屋のトビー君のお母さんにしか、お薬は渡していないのに……」
私が呆然と呟くと、後ろで調剤トランクを抱えていた老侍医オットーが、鼻息も荒く胸を張った。
「何を仰いますか師匠! 我が子の命を救われた母親の口コミほど、この世で伝播の速い情報網はございませぬぞ! 昨晩のうちに城下の隅々まで『城に本物の聖女様がおいでになられた』『甘くて美味しくて、一瞬で咳が止まる奇跡の蜜柑水を飲ませてくださる』と噂が駆け巡ったのです! 民草にとって、苦痛のない医療など神話の奇跡に等しいのでございますから!」
「奇跡じゃないわ、ただの生薬シロップとスポイト投薬法よ……!」
頭を抱える私。
だが、このまま城門の前に群衆を放置しておくわけにはいかない。極寒の北方だ。氷点下の風に吹き晒されて何時間も待たされれば、子どもたちの気管支炎は悪化し、肺炎を併発して命に関わる。
「着替えて門前へ行きます! トリアージと問診を――」
私が白衣に腕を通そうとした、その時だった。
「――待て、エレナ」
重厚な扉が音もなく押し開かれ、一人の男が部屋へと入ってきた。
漆黒の毛皮外套を羽織り、乱れのない黒髪の下から鋭い紫の双眸を覗かせた偉丈夫――この城の主、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯だった。
その後ろには、すでに執務用の書類束を手にした副団長カイエンが控えている。
「ジルヴェスタ様! 門前の騒ぎをご存知ですか? 早く何とかしないと、待っている子どもたちが凍傷と低体温症を起こしてしまいます!」
「ああ、承知している」
ジルヴェスタは窓辺へ歩み寄り、冷徹な視線で城門の外の群衆を一瞥した。
その顔つきは、かつて魔獣の群れを前にした時のように厳しく引き締まっていた。
貴族の城門前に平民が大挙して押し寄せるなど、通常の領主であれば「不敬」「暴動の兆し」とみなし、即座に騎兵を出動させて武力で蹴散らすのがこの世界の常識だ。
「閣下」
カイエンが眼鏡の位置を正し、低い声で進言する。
「衛兵隊を増員し、城下へ解散命令を出しますか? このままでは城の出入りに支障をきたします。領主の威厳を示すためにも、一度強硬策を――」
「莫迦を言え」
ジルヴェスタの冷たい一喝が、カイエンの言葉を遮った。
辺境伯は外套を翻し、私の方へと振り返る。その紫の瞳には、一切の迷いも躊躇も存在しなかった。
「彼らは反乱を起こしに来たのではない。ただ、我が子の命を救うため、救いを求めて集まった我が領民たちだ。武力で追い払うなど論外だ。……それに」
ジルヴェスタの視線が、私の白衣の裾へと注がれる。
その声音が、わずかに柔らかく、だが鉄のように強固な響きを帯びた。
「エレナを寒空の下に立たせて、雪の中で泥まみれの問診をさせる気など毛頭ない。……カイエン」
「はっ」
「城下のメインストリート、噴水広場に面した旧税関の石造り店舗を覚えているな。先月、商人が王都へ夜逃げして差し押さえた、あの三階建ての物件だ」
「ええ、一等地ですが、現在は空き店舗となっておりますが……それが何か?」
ジルヴェスタは懐から、金糸で刺繍された重々しい領主の印章を取り出し、カイエンの持つ書類の束へと叩きつけるように押し当てた。
「あの建物を、即座に改装しろ。暖炉を整備し、カウンターを設け、調剤室と待合室を整えよ。……エレナのための、城外診療所兼薬局を開設する」
「なっ……!?」
カイエンが目を見張り、私もまた驚きのあまり口をあんぐりと開けた。
「じ、ジルヴェスタ様!? 診療所を作るですって!? そんな、いきなり――」
「いきなりではない。いずれ必要になると思っていた」
ジルヴェスタは私の前に大股で歩み寄ると、手袋を外した素手で、私の頬の横の髪をすっと耳にかけてくれた。
指先が触れた瞬間、肌がカッと熱を帯びる。男の瞳は、至近距離から熱烈な光を放っていた。
「お前は城内の騎士たちを救った。だが、お前という人間は、目の前で苦しんでいる民がいれば、城を飛び出してでも救おうとするだろう? ならば、お前が最も安全に、最も快適に力を振るえる城を、城下に作ればいいだけの話だ」
「し、しかし予算や資材の手配が……!」
「私の私財を使え。王都からの補助金など一銅貨たりとも要らん。我が領の宝であるお前の城だ、惜しむ金など爪の先ほどもない」
事も無げに言ってのけるスパダリ公爵。
カイエンは一瞬だけ天を仰ぎ、胃のあたりを押さえる仕草をしたが、すぐに諦めたように深いため息をついて手帳を開いた。
「……承知いたしました。第一部隊の筋肉ども……コホン、非番の騎士たちを総動員して、突貫工事に当たらせます」
「バルツに指揮を執らせろ。あいつなら喜んで壁をぶち抜いて棚を作るだろう」
「ハッ、直ちに!」
こうして――常識では考えられない速度の「国家プロジェクト」が、領主の鶴の一声によって動き出したのだった。
◇
それからの二日間は、まさに嵐のような騒動だった。
「オラァッ! エレナ様のための薬棚だぞ! ヤスリがけに妥協するな! 木棘一本でも残ってエレナ様の指先に刺さったら、テメエら全員雪山十往復だからなッ!!」
バルツの怒号が城下に響き渡り、上半身裸になった屈強な騎士たちが、丸太を担ぎ、大工仕事に汗を流した。湿布で腰痛を克服した男たちの馬力は凄まじく、通常なら一ヶ月かかる石造り店舗の全面改装が、わずか四十八時間で完了してしまったのだ。
内装には、オットーの指導のもとで清潔な漆喰が塗り直され、待合室には寒冷地特有の大型薪ストーブが二基設置された。
カウンターには清潔なガラスケースが並び、調剤スペースには、城から運び込まれた最新の蒸留器と精密天秤、そして何百種類もの生薬を分類できる引き出し棚が壁一面に造り付けられた。
そして――三日目の朝。
雪解けの陽光が降り注ぐ中、建物の正面に、金文字で彫り込まれた立派な木製看板が掲げられた。
『ハーディン辺境伯領 公認・エレナ薬局』
「……できたわ。本当にできちゃった……」
白衣をパリッと着こなした私は、往診鞄を抱えて店の前に立ち尽くしていた。
前世の門前薬局を思わせる、機能的で、温かみのある佇まい。
店の周囲には、開店の噂を聞きつけた領民たちが、整然と――だが熱気を孕んだ長蛇の列を作っていた。
その列の整理をしているのは、ピカピカに磨き上げられた鎧を着たバルツたち第一部隊の面々だ。
「よし、野郎ども! 順番を守れよ! 重症の子どもと年寄りが最優先だ! エレナ様を困らせるような真似をしたら、俺の大剣が火を吹くからなッ!」
「バルツ、脅さないの!」
私がカウンターの奥から顔を出して一喝すると、バルツは「へ、へいっ!」と愛嬌たっぷりに縮こまり、並んでいた領民たちからドッと笑いが起きた。
恐怖の象徴だった領主の騎士団が、一人の少女の言葉一つで笑顔で民を誘導している。それだけで、町の人々の表情から強張りが消えていくのが分かった。
「お待たせいたしました! ハーディン公認・エレナ薬局、ただいまより開局いたします!」
私の宣言とともに、ガラス戸が開け放たれた。
暖炉の温もりが満ちる店内へ、最初の一歩が踏み込まれる。
ここからが、私の孤独な――いいえ、仲間たちと共に挑む「新時代の地域医療」の幕開けだった。
◇
「次の方、どうぞ!」
カウンターに腰掛けた私の前に、おずおずと進み出てきたのは、背中の曲がった白髪の老人だった。
着古した外套の胸元を右手で強く押さえ、時折苦しげに顔を歪めている。
「あ、あの……薬師様……儂のような年寄りが、こんな立派な場所に来てしまって申し訳ねえんだが……」
「そんなこと仰らないでください。主訴をお伺いしますね。お腹が痛みますか?」
「へ、へえ……。もう何年も、飯を食うたびにみぞおちが重苦しくて、胸焼けがして……。たまに王都の行商人から『万能胃消しポーション』を買って飲むんじゃが、飲むたびに胃に激痛が走って、かえって吐いてしまうんじゃ。もう胃袋が腐り落ちて、死ぬのを待つだけかと……」
老人の浅黒い顔色、乾いた皮膚、そして何より舌の表面を診察する。
舌苔は薄く白濁し、胃の蠕動音は極めて微弱。
「これは胃が腐っているのではなく、加齢と度重なる劇薬ポーションの刺激によって、胃粘膜の分泌能が落ちているのです。典型的な『慢性萎縮性胃炎』ですね」
「い、いしゅく……?」
「ええ。胃酸や消化酵素を出す力が弱まっているのに、そこへ無理やり強いポーションを流し込んだら、弱った粘膜が悲鳴を上げるのは当然です。老人には老人の、身体に優しいアプローチが必要なんですよ」
私は調剤棚から、乾燥させた二つの生薬を秤に乗せた。
一つは、強烈な苦味を持つゲンチアナ類似の生薬――センブリやオウレンに酷似した苦味配糖体。
もう一つは、健胃作用と芳香を持つ柑橘の果皮(陳皮)。
「いいですか、おじいさん。強い薬で胃を叩き起こしてはいけません。この苦いお茶を、毎食の十五分前、白湯にティースプーン半分だけ溶かして、ゆっくりと口に含んでください」
「苦い茶を……食前に?」
「はい。口の中で苦味をしっかり味わうことで、舌の神経を通じて脳に『これから食事が入ってくるぞ』というシグナルが送られます。すると、自律神経が刺激され、眠っていた胃から自然な胃液と消化酵素がじわりと分泌され始めるのです。これを薬学では『苦味健胃薬』と呼びます。身体が本来持っている消化の力を、優しく呼び起こしてあげるのです」
さらに私は、白紙に素早いスケッチを描き添えた。
「それから、冷たい水は絶対に禁止。食事は一度にたくさん食べず、一日四回から五回に分けて、柔らかいお粥を中心にしてください。食後はすぐ横にならず、背中にクッションを当てて三十分ほど座った姿勢を保つこと。これだけで、胸焼けは劇的に改善しますよ」
「……ほ、本当かい……? そんな、生活の工夫だけで……」
「生活の工夫こそが、最高の医学ですよ。はい、一週間分のお薬です。また来週、お腹の調子を教えてくださいね」
紙包みを受け取った老人は、震える手でそれを胸に抱きしめ、何度も何度もカウンターに額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「ありがとうごぜえます……! 王都の薬売りには『年寄りの不摂生だ、高いポーションを飲まなきゃ死ぬぞ』と脅されるばかりで……こんなに親身に、話を聞いてくださったお方は初めてじゃ……!」
「お大事になさってくださいね」
老人が涙を拭いながら出て行くと、入れ替わりに、困り果てた表情の母親と、下を向いて俯く七歳くらいの男の子が入ってきた。
「エレナ様……! うちの息子のことで、ご相談がありまして……」
母親が声を潜め、恥ずかしそうに切り出す。
「この子、もう七歳になるのに……毎晩のようにおねしょ(夜尿症)をしてしまうんです。近所の人には『親の躾が悪い』とか『怠け者の呪いだ』って言われて……。王都の強い覚醒ポーションを夜に飲ませろって言われたんですけど、怖くて……」
母親の隣で、男の子は惨めそうに唇を噛み締め、涙をポロポロとこぼしていた。
自尊心がズタズタに傷ついている。前世でも、夜尿症に悩む親子は本当に多かった。
私はカウンターを出て、男の子の目の前にしゃがみ込んだ。
そして、冷たくなっていた彼の小さな手を、両手で優しく包み込む。
「ボク、お名前は?」
「……レオ……」
「レオ君。まずね、これだけは絶対に覚えておいて。夜におしっこが出ちゃうのはね、レオ君が怠けているからでも、悪い子だからでも絶対にないのよ」
レオがハッと顔を上げた。
母親も驚いたように目を見張る。
「お母さん、よく聞いてください。夜尿症の九割以上は、病気でも心の弱さでもありません。『成長のスピード』の問題です。人間は寝ている間、脳下垂体から『抗利尿ホルモン』という物質を出して、尿の量をギュッと濃縮して減らす仕組みを持っています。レオ君の身体は、まだそのホルモンの分泌リズムが育っている途中なだけなのです。膀胱の容量と、ホルモンのバランスが追いついていないだけ。決して怒ってはいけません」
「怒っちゃ……駄目なんですか……?」
「絶対に駄目です。怒られればプレッシャーで自律神経が乱れ、かえって睡眠が浅くなって夜尿が悪化します。『焦らない、怒らない、比べない』――これが夜尿症ケアの鉄則です」
私はレオの頭を優しく撫でながら、生活指導の処方箋を手渡した。
「今日から始めるお約束は三つ。一つ目、夕食の後は、水やお茶をガブガブ飲まないこと。喉が渇いたら、一口だけ口を湿らす程度にしましょう。二つ目、寝る前に必ずトイレに行くこと。そして三つ目――下腹部と足首を絶対に冷やさないこと。冷えると膀胱がキュッと縮んでしまいますからね」
さらに私は、トランクから乾燥させた温補ハーブ――シナモン(桂枝)と芍薬、甘草をブレンドした甘い香りのティーバッグを取り出した。
「夕方にこのハーブティーを一杯だけ飲んでください。身体の芯を温め、膀胱の緊張を和らげてくれます。……レオ君、大丈夫よ。身体が少し大きくなれば、必ず自然に止まるからね。自分を責めちゃ駄目よ」
「う……うわあぁぁんっ!」
レオは堪えきれなくなったように母親の腰にしがみつき、声を上げて泣き出した。
母親もまた、我が子の肩を抱きしめ、涙を流しながら私に深く頭を下げた。
「エレナ様……! 救われました……! 私、この子を責めてばかりで……本当に、ありがとうございました……!」
親子が笑顔を取り戻して去っていく。
その後も、患者の列は途切れることがなかった。
重い木材を運んで膝に水が溜まった木こりには、冷感消炎湿布と、関節を固定して負担を分散させるキネシオロジーテーピングの巻き方を指導。
乾燥で手足がひび割れて血を流していた洗濯女たちには、先日の蜜蝋とカモミールバームを小分けにして処方し、正しいスキンケアのハンドプレスを伝授。
長旅の冷えで膀胱炎を起こしかけていた行商人には、利尿作用と抗菌作用を持つハーブ(ウワウルシ類似生薬)の浸出液を処方し、徹底的な水分補給を指示。
大掛かりな魔術も、高価な劇薬ポーションも、ここには何一つない。
日常の軽微な不調(Minor Ailments)を、患者自身の生活改善と、副作用のないマイルドな生薬によって初期段階で摘み取る。
現代医学の根幹を成す「プライマリ・ケア(初期微小医療)」と「セルフメディケーション」。
エレナの施すその合理的で温かな医療は、激痛と恐怖に慣らされていた領民たちの価値観を、根底から塗り替えつつあった。
「劇薬を飲まなくても、痛みが消えるなんて……」
「こんなに丁寧に話を聞いて、身体の仕組みを教えてくれた薬師様は初めてだ!」
「エレナ様は……本物の女神様だ!」
「ハーディン領の聖女様万歳!!」
いつしか、薬局の周囲には領民たちの感動と熱狂の歓声が満ち満ちていた。
持参した薬の対価として、領民たちは銅貨だけでなく、採れたての卵や、手作りの焼き立てパン、手編みの毛糸の手袋などを、感謝の言葉とともにカウンターへと積み上げていく。
「ふふ、みんなありがとう。でも、卵はそんなに食べきれないわよ!」
汗を拭いながら、笑顔で次の患者を呼び込む私。
前世のあの孤独な当直室とは違う。
誰かの役に立ち、その笑顔を直接受け取ることができる――薬剤師として、これ以上の幸福がどこにあるだろうか。
――だが。
そんな熱気あふれる薬局の様子を、通りの向かい、黒塗りの馬車の陰から、静かに見つめている長身の影があった。
「…………」
漆黒の毛皮外套を纏ったジルヴェスタだった。
配下の護衛たちを遠ざけ、ただ一人、腕を組んで佇むその男の紫の双眸は――カウンターの中で生き生きと輝くエレナの姿を、瞬き一つせずに凝視していた。
「……良い顔配分だ」
ジルヴェスタの口元から、低く、微かな呟きが漏れた。
城の中に閉じ込めていた時よりも、遥かに美しく、誇らしく、生命の輝きに満ちている。
民の一人ひとりに寄り添い、慈愛に満ちた瞳で手を握り、笑顔を咲かせる彼女の姿は、まさにこの過酷な北方の地に降り立った本物の「奇跡」そのものだった。
「エレナ……」
ジルヴェスタの大きな掌が、無意識のうちに自らの胸元――力強く脈打つ心臓のあたりを、ギュッと強く掴んでいた。
トクン、トクンと、彼女を視界に収めているだけで、血流が熱く加速していく。
手放したくない。
誰にも触れさせたくない。
王都の腐りきった貴族どもなどに、この眩い光を一筋たりとも渡してなるものか。
(お前の居場所は、ここだ)
ジルヴェスタの瞳の奥に、絶対零度の決意と、底知れぬ独占欲の炎が静かに燃え上がった。
(この極寒の大地で、我が民を照らし、そして――私の隣で笑っていればいい。そのために必要なものなら、国であれ神であれ、すべてこの手で薙ぎ払ってやる)
冷徹公爵の重すぎる愛の誓いが、北風の中に溶けていく。
◇
そして――夕暮れ時。
初日の外来診療を無事に終え、すべての患者を送り出した「エレナ薬局」の店内。
「ふうぅぅぅ……! 終わったぁぁっ!」
私はカウンターに突っ伏し、心地よい疲労感に身を委ねていた。
隣では、オットーがカルテの山を満足そうに抱え込み、「師匠! 初日で百十二名の患者を捌き、医療事故ゼロ! 大成功でございますぞ!」と小躍りしている。
バルツも店の前で大剣を立て、「いやあ、町の連中がみんな泣いて喜んでたぜ! エレナ様、最高だ!」と白い歯を見せて笑っていた。
「みんな、本当にお疲れ様。……でも、これだけの薬草や資材を、たった二日で完璧に手配してくれた人がいなければ、この大成功はあり得なかったわね」
私が顔を上げ、カウンターの上に置かれた完璧な帳簿を見つめた。
生薬の仕入れ伝票、店舗の賃貸契約書、薬事認可の書類、果ては包装用の紙袋の手配に至るまで――そのすべてに、整った几帳面な文字で、完璧な決済印が押されていた。
「カイエン副団長、本当にすごいわ。一体いつ寝てこの書類を作ったのかしら……」
そう呟いた、まさにその瞬間だった。
バタタタタッ! と、激しい足音とともに、城の伝令騎士が血相を変えて薬局へと飛び込んできたのだ。
「ば、バルツ隊長! オットー侍医! エレナ様はいらっしゃいますか!?」
「あぁん? 何だ騒々しい、エレナ様はお疲れなんだぞ!」
バルツが眉をひそめたが、伝令の放った次の一言に、店内の空気が一瞬にして凍りついた。
「き、緊急事態です! 城の事務執務室で……副団長のカイエン様が、血を吐いて倒れられましたッ!!」
「「「な、何だってぇぇぇっ!?」」」
「胃を……胃を押さえて、激痛で呼吸困難に陥り、意識を失いかけていらっしゃいます! オットー先生、エレナ様、大至急城へお戻りください!!」
「カイエン副団長が……!?」
私の脳裏に、あの知性派美青年の、目の下の赤黒い隈と、無理に押し殺していた胸焼けの仕草がフラッシュバックした。
薬局の開設準備、領地の防衛事務、ジルヴェスタ閣下の過保護な命令の数々――そのすべての重圧を一身に背負い、不眠不休で駆けずり回っていた男。
有能な人間ほど、自分の限界を誤魔化し、突然プツンと糸が切れる。
「トランクを持って! 走るわよ!!」
私は白衣の裾を翻し、夕闇迫る城への道を、全速力で駆け出したのだった。




