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第17話:お薬は戦いじゃないのよ。オレンジ風味の魔法シロップ

「どけどけぇぇぇいッ! エレナ様がお通りだッ!!」


城下町のぬかるんだ雪道を、第一部隊長バルツの轟音のような怒号が切り裂いた。

道行く商人や職人たちが悲鳴を上げて左右に飛び退く中、私はバルツの太い腕を引っ張りながら、市場の中央通りを猛ダッシュしていた。

風を切り裂いて走る私の頭の中は、今まさに呼吸困難で苦しんでいる四歳のトビーの気道内圧と、血中酸素飽和度の推移の計算で埋め尽くされていた。


「バルツ、威嚇しない! 客を蹴散らしたら果物が買えないでしょうが!」


「へ、へいっ! すんません! だが一刻を争うんでしょう!?」


「その通りよ! だから余計な声を出さずに足を動かしなさい!」


目指す先は、市場の一角にある大型の青果店だった。

北方の極寒の地において、南方の温暖な気候で育つ柑橘類は、貴族の食卓に並ぶような贅沢品だ。だが、この町一番の品揃えを誇るその店先には、木箱に藁を敷き詰めて大切に保管された、黄金色に輝く果実が並んでいた。


「いらっしゃ……ひぃっ!? ば、バルツ隊長!?」


店番をしていた小太りの店主が、大剣を背負った筋骨隆々の巨漢を見て腰を抜かしかけた。

私は店主の前に滑り込み、エプロンのポケットから銀貨を掴み出してカウンターへ叩きつけた。


「店主さん! この箱の中で一番皮が薄くて、果汁が多くて、酸味と香りの強い蜜柑――それから、そっちの肉厚なオレンジ類似の果実をあるだけ全部! それと、加熱殺菌されていない、純度の高い百花蜜の壺を一樽! 大至急頂戴!」


「えっ、えっ!? お、お嬢ちゃん、いきなりそんな……」


「四の五の言わずに袋に詰めろオラァッ! 子どもの命がかかってんだよッ!!」


バルツがカウンターをバンと叩いてドスを利かせると、店主は「ヒィッ、喜んでぇぇ!」と悲鳴を上げ、神速の手つきで大粒の果実を麻袋に詰め込んだ。

私は銀貨を押し付け、ずっしりと重い蜂蜜樽と果実の袋を抱え直す。


「よし、材料確保! バルツ、近くの騎士団宿舎の厨房へ走るわよ!」


「へいっ、荷物は俺が持ちやす! 案内しますぜ!」


◇


市場からほど近い、北方守護騎士団の街頭詰所。

その一角にある簡易厨房へ雪崩れ込んだ私は、外套を脱ぎ捨てるなり、袖をまくり上げて手洗いを開始した。

冷たい井戸水で指先から前腕までしっかりと擦り洗いし、清潔なリネン布で水分を拭い取る。

かまどにはすでに薪がくべられ、パチパチと心地よい火が熾っていた。


「オットー先生、いらっしゃいますか!?」


「は、はいっ! ここに控えておりますぞ、師匠!」


息を切らして後から駆け込んできた老侍医オットーが、私の調剤トランクを抱えて飛び込んできた。

私はトランクを台の上に広げ、中から目的の生薬を取り出す。


「オットー先生、湯を沸かしなさい! ただしグラグラと煮立たせてはいけません。八十度から八十五度、底から小さな泡が立ち上る程度の弱火をキープすること!」


「ハッ! 弱火の湯煎抽出ですな!」


私が選んだのは、二種類の生薬だった。

一つは、乾燥させた細い緑の茎――麻黄(マオウ)類似の寒冷地ハーブ。

主成分はエフェドリンアルカロイド。交感神経のβ2受容体を刺激し、痙攣して狭窄した気管支平滑筋を強力に拡張させ、空気の通り道を一気に押し広げる特効成分だ。

もう一つは、白く太い根を乾燥させた――桔梗(キキョウ)根類似のエキス。

主成分であるプラティコジン(サポニン配糖体)が、気道粘膜の分泌を促して痰をサラサラに溶かし、繊毛運動を活性化させて異物を体外へと排泄させる、小児の去痰薬の王道。


「ここが最大のポイントです。強火で煮出せば、揮発性の有効成分が失われ、余計なタンニンや灰分が溶け出して強烈な渋みとえぐみが出てしまう。だからこそ、弱火で短時間、有効成分だけを狙い撃ちにして抽出するのです」


陶器の小鍋の中で、刻んだ生薬が静かに踊る。

ほんのりと立ち上る、どこか爽快で、それでいてわずかにスパイシーな薬草の香り。

十分の抽出を終えたところで、私は精密メッシュの濾過布で薬液を漉し取った。

抽出されたのは、淡い琥珀色の澄んだ液体――わずか三十ミリリットルほどの高濃度生薬浸出液だ。


だが、このままでは、まだ幼いトビーにとっては苦くて飲めない。

ここからが、現代製剤学における「魔術」の出番だった。


「バルツ、蜜柑の皮を剥いて、果汁を力任せに絞りなさい! 種と薄皮は絶対に混ぜないこと!」


「おうよ! 握力なら任せとけ!」


バルツの分厚い掌が果実を包み込むと、まるで蛇口をひねったかのように、鮮やかな黄金色の果汁がボウルへと迸った。

部屋中に満ちる、甘酸っぱくフレッシュな柑橘のアロマ。

果汁に含まれるクエン酸の爽快な酸味と、果皮から微量に移行した精油成分リモネンが、鼻腔から中枢神経を刺激し、それだけで呼吸筋の緊張をふわりと和らげるアロマセラピー効果をもたらす。


「そして……仕上げよ」


私は銅鍋に生薬浸出液と搾りたての蜜柑果汁を合わせ、そこへ――仕入れたばかりの純粋蜂蜜を、ドボドボと惜しげもなく注ぎ込んだ。

比率は、液体の全重量に対して蜂蜜が六割以上。

前世の日本薬局方にも収載されている、製剤の基本――「単シロップ(Simple Syrup)」の黄金比率だ。


「し、師匠……! こんなにも大量の甘味を入れてしまって、薬の効果が薄まったりはせぬのですか!?」


オットーが目を丸くして尋ねてくる。

私は弱火で木ベラをリズミカルに動かし、蜂蜜を均一に溶かし込みながら首を振った。


「薄まるどころか、これが最高の『ドラッグ・デリバリー』を可能にするのです、オットー先生」


私の解説に、オットーが耳をそばだてる。


「糖分濃度が六十パーセントを超えたシロップは、極めて高い粘性――とろみを帯びます。このとろみこそが、生薬の微小な苦味分子を包み込み、舌の味蕾に直接触れさせない物理的バリアとなるのです。さらに、高濃度の糖分は喉の奥の炎症を起こした粘膜にピタリと張り付き、乾燥や冷気という物理刺激から喉を保護する『天然の湿布』の役割を果たします」


鍋の中の液体が、熱によって艶やかなとろみを帯びていく。

透明感のある鮮やかなオレンジ色。

立ち上る湯気は、まるで最高級の洋菓子店で焼き上げられたオレンジタルトのフィリングのように、甘く、爽やかで、思わず喉を鳴らしてしまうほどに芳醇だった。


「……できたわ!」


完成したのは、生薬特有の苦味を完全に消失させ、果実のビタミンと滋養を凝縮した、特製「小児用オレンジ去痰シロップ」。

光など放たない。魔力の火花など散っていない。

だが、ここには小児科学と薬理学の結晶が、完璧な調和を保って息づいていた。


しかし、私の仕事はこれだけでは終わらなかった。

どれほど美味しいシロップであっても、先ほど激しい服薬トラウマを植え付けられたばかりの四歳児が、すんなりとスプーンを受け入れるはずがないのだ。


「もう一つの武器を作ります」


私はトランクの底から、細いガラス管と、天然ゴムの樹液を精製して作った小さな球体を取り出した。

ガラス管の先端をランプの炎で炙り、柔らかくなったところをピンセットで引き伸ばして、先端がわずかに細く丸まったノズル状へと加工する。

管の側面には、調剤用ナイフの刃先で、正確に一ミリリットル、二ミリリットルを示す目盛りを刻み込んだ。

後ろにゴム球を取り付け、指先でペコペコと押してみる。


「……よし、吸入力、密閉性、ともに良好」


「師匠、それは一体何でございますか……? 細長いガラスの筒のようですが……」


「『計量スポイト』よ。小児投薬における、最強の相棒」


スプーンで飲ませようとすれば、子どもは顔を背け、手で払い除け、半分以上が零れ落ちる。

だが、このスポイトがあれば――子どもの警戒心を解きながら、一滴の無駄もなく、安全確実に薬を体内に送り届けることができるのだ。


「バルツ、オットー先生、戻るわよ! トビー君が待っているわ!」


「「応ッ!!」」


清潔な小瓶に詰めた温かいオレンジシロップと、自作のスポイトを往診鞄に収め、私たちは再び雪の路地へと飛び出した。


◇


パン屋の土間へ戻ると、部屋の中は先ほどよりも痛々しい静けさに包まれていた。

暖炉の火のそば、古びた毛布にくるまれたトビーは、母親ハンナの腕の中で、小さく震えていた。

呼吸をするたびに、喉の奥からヒュー、ヒューという苦しげな音が漏れている。

熱のせいで頬は赤く染まり、目は虚ろに天井を見つめ、時折、胸をかきむしるようにして激しく咳き込んでは、痛みに顔を歪めていた。


「トビー……ごめんね、ごめんね……」


ハンナは我が子を抱きしめ、ただ涙を流すことしかできずにいた。

そこへ、私が息を切らして踏み込んだ。


「ハンナさん、お待たせしました!」


「エレナ様……! あ、あのお薬は……?」


私が往診鞄から取り出した小瓶を見た瞬間、母親の腕の中にいたトビーが、ビクンと過剰なまでに身体を跳ね上げた。


「――いやぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」


トビーは火がついたように泣き叫び、母親の胸元へと顔を埋めて激しく暴れ始めた。

手足をバタつかせ、全身を硬直させて拒絶する。

小さな瞳には、恐怖とパニックの涙が溢れていた。

無理もない。ほんの半時間前、あの黒く濁った毒ポーションを無理やり喉に流し込まれ、窒息死しかけたのだ。瓶を見るだけで、その脳裏には「殺される」という恐怖がフラッシュバックしているのだ。


「トビー、いい子だから……! お願い、お薬を飲んで……!」


「いやだぁぁっ! のまない! いたいのいやだぁぁっ! あっちいけぇぇっ!」


半狂乱で暴れるトビー。

ハンナが再び力づくで押さえつけようとした、その手を――私は優しく制止した。


「お母さん、駄目です。押さえつけてはいけません」


「で、でも……!」


「大丈夫。私に任せてください」


私は静かにトビーの前にしゃがみ込んだ。

視線の高さを、トビーの瞳と同じ位置まで下げる。

そして、小瓶を後ろに隠し、両手を広げて見せた。


「トビー君」


私の声は、先ほどの怒声とは別人のように、どこまでも穏やかで、温かい春の陽だまりのような響きを帯びていた。


「怖かったね。痛かったね。……もう、あんな黒くて苦いお水は、絶対に飲まなくていいのよ」


トビーの泣き声が、わずかにトーンを落とした。

涙で濡れた睫毛の隙間から、恐る恐る、私を見つめてくる。


「……うそつき……。また……にがいの……のませるんでしょ……?」


「嘘じゃないわ。神様に誓ってもいい。……ねえ、トビー君。蜜柑って知ってる?」


「……みかん……?」


「そう。お日様の光をいっぱい浴びて育った、甘くて、とってもいい匂いのする、オレンジ色の木の実」


私は背中から、小瓶と、自作の計量スポイトをゆっくりと取り出した。

ゴム球をキュッと押し、スポイトの中に、鮮やかなオレンジ色のシロップを一ミリリットルだけ吸い上げる。

とろりとした琥珀の雫が、ガラス管の先端でフルフルと揺れた。

その瞬間、ふわりと、甘酸っぱい蜜柑と蜂蜜の香りが、トビーの鼻先をかすめた。


ピクリ、とトビーの鼻が動いた。

泣き腫らした瞳が、吸い寄せられるようにスポイトの先へと向けられる。


「……これ、お薬じゃないの?」


「ううん、お薬よ。でもね、これは『咳の虫さんを眠らせる、蜜柑の魔法のおやつ』なの」


私は微笑みながら、トビーの小さな手を取った。

そして、スポイトの先端から、ほんの一滴だけ――トビーの手の甲の上に、オレンジ色のシロップをポタリと落とした。


「ほら、舐めてごらん? 毒じゃないわ。甘くて美味しい蜜柑のおやつよ」


トビーは疑わしそうに私を見上げ、それから恐る恐る、自分の手の甲に落とされたオレンジ色の雫を見つめた。

舌先を伸ばし、ちろりと舐める。


――ペロリ。


その瞬間。

トビーの表情が、劇的に固まった。

涙で濡れていた金茶色の瞳が、信じられないものを見たかのように、カッと大きく見開かれた。


「…………っ!?」


「どう? 苦いかしら?」


「……あ……あまい……!」


トビーの口から、小さな、掠れた声が零れ落ちた。

口いっぱいに広がる、濃厚な蜂蜜の優しい甘み。

そして、鼻腔を突き抜ける、みずみずしい蜜柑の爽やかな果汁の味。

苦味など微塵もない。痛烈な刺激臭もない。

ただひたすらに、甘くて、美味しくて、口の中が幸せでいっぱいになる味。


「……あまいよ、おかあちゃん! これ、すごくあまい!」


「トビー……!」


ハンナが目を見張り、口元を押さえた。

私は優しくトビーの頭を撫でながら、スポイトをそっと構え直した。

ここからが、臨床薬剤師としての真骨頂――「小児スポイト投薬法」の実践だ。


「トビー君、上手に舐められたわね。すごく偉い! ……じゃあね、今度はこの魔法のガラスのストローから、ちゅーって飲んでみようか」


「ちゅーって……?」


「そう。大きなお口を開ける必要はないのよ。お口を閉じたまま、端っこだけ、イーッてしてみて?」


「いーっ?」


トビーが唇の端を小さく引いた。

その瞬間を、私は逃さなかった。

スポイトの先端を、トビーの歯列の外側――唇の端(口角)から、頬の内側(頬粘膜)の隙間へと、滑り込ませるようにそっと差し入れた。


ここが、決定的な医学的ポイントだった。

人間の舌の表面、特に中央の奥部(有郭乳頭や葉状乳頭)には、苦味を強烈に感知する味蕾が密集している。さらに、舌の奥を刺激すれば、誰であっても激しい嘔吐反射(咽頭反射)が誘発される。

だからこそ――舌の中央には決して薬を触れさせない。

味覚センサーの薄い「頬の内側の粘膜」に沿わせて、数滴ずつ、重力に従って喉の奥へと滑り落としていく。


「はい、ちゅーって吸ってみてね……そう、上手、上手よ……」


ピュッ、ピュッと、ゴム球を優しく押す。

とろみのあるオレンジシロップが、トビーの頬の内側を伝って、喉へと滑らかに流れ込んでいく。


ゴクリ。

ゴクリ。


トビーは嫌がるどころか、自らスポイトの先端を唇で咥え込み、夢中になってシロップを吸い始めた。

ちゅるるっ、ちゅるんっ!

小気味のいい音を立てて、一ミリリットルのシロップが、あっという間にトビーの小さな喉を通り抜けていく。


「ぷはぁっ! ……おいしい! もういっかい! もういっかいちゅーってする!」


トビーが満面の笑みを浮かべて、両手を差し出してきた。

あんなに泣き叫び、暴れ狂い、薬を拒絶していた子が――自ら進んで「おかわり」をねだってきたのだ。


「ふふ、もう一回だけね。これで咳の虫さんは退治できるからね」


私は追加の一ミリリットルをスポイトに吸い、同じように頬の内側へと優しく注ぎ込んだ。

トビーは美味しそうに目を細め、最後の一滴までチュウチュウと吸い尽くした。

全量、二ミリリットル。

小児の体格に合わせた完璧な適正用量が、一滴の吐瀉もなく、一滴の零れもなく、トビーの体内へと収まった。


「……信じられない……」


後ろで見守っていたバルツが、大剣を支えにしたまま、呆然と呟いた。

オットーもまた、震える手で眼鏡を押し上げ、奇跡を目の当たりにしたように息を呑んでいた。


そして――薬効の現れは、劇的だった。


胃に届いた高粘度のシロップから、マオウ様ハーブのエフェドリン類似成分が急速に吸収され、血液に乗って肺胞へと巡る。

痙攣し、狭窄していたトビーの気管支平滑筋が、ふわりと緊張を解いて広がっていった。

同時に、キキョウ根のサポニンが気道粘膜を潤し、張り付いていた痰をサラサラに溶かしていく。

蜂蜜の被膜が、炎症でただれていた喉の奥を優しく覆い、冷気の刺激を遮断する。


一分。

二分。


トビーの喉から鳴り響いていた、あのヒューヒューという苦しげな喘鳴が――潮が引くように、静まり返っていった。

発作のように続いていた激しい咳が、ピタリと止まる。


「……あ……あれ……?」


トビーが自らの胸に手を当て、不思議そうに瞬きをした。

苦しくない。

息を吸っても、喉が痛くない。

胸の奥がぽかぽかと温かく、手足の先まで心地よい脱力感が広がっていく。


「……ねむい……おかあちゃん……ぼく、ねむくなっちゃった……」


トビーの重そうな睫毛が、ゆっくりと伏せられていく。

連日の激しい咳と呼吸困難で、体力を極限まで削り取られていた幼子の身体が、ようやく訪れた「痛みのない安らぎ」に包まれ、本能的な休息を求めていた。

トビーは母親の温かい胸元にすっぽりと顔を埋めると、すぅ、すぅ、と――深くて、規則正しい、穏やかな寝息を立て始めたのだ。


「トビー……? トビー……!」


ハンナは我が子の寝顔を抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。

トビーの小さな背中は、苦しげに波打つこともなく、静かに、安らかに上下している。

三日三晩、親の心を狂わせるほどに苦しめ続けたあの激しい咳が、嘘のように消え去っていた。


「あ……ああ……神様……!」


ハンナは土間に膝をつき、私の白衣の裾を、泥に塗れた両手でぎゅっと握りしめた。

そして、顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、魂の底から絞り出すように叫んだ。


「エレナ様……! ありがとうございます……! ありがとうございます……!! この子は……この子は、私の命なんです……! 痛い思いもさせずに……あんなに美味しそうに笑って、眠ってくれた……! あなたが……あなた様が、この子の命を救ってくださいました……!!」


ボロボロと零れ落ちる母親の涙が、私の白衣の裾を濡らしていく。

私はそっと腰を落とし、震えるハンナの肩を優しく抱きしめた。


「お母さん、もう大丈夫ですよ。トビー君は強い子です。……お薬はね、本来こうあるべきなのです。誰かを苦しめるためのものではなく、家族が笑顔を取り戻すためのものなんですから」


「エレナ様ぁぁっ……!!」


ハンナは私の腕の中で、声を上げて泣き崩れた。

それは恐怖の涙ではなく、絶望の暗闇から引き上げられた人間の、心底からの救済の涙だった。


その光景を、背後で見つめていたバルツは――。

あの歴戦の猛将が、分厚い手の甲で乱暴に自らの目元を擦っていた。

赤く充血した瞳で、鼻をグズッと鳴らし、私の背中を見つめるその眼差しには――もはや単なる「恩人への好意」などという次元を遥かに超えた、神仏を仰ぎ見るかのような、絶対の崇拝の炎が燃え盛っていた。


(……すげえ……。これが、この人の医術なのかよ……)


敵を力でねじ伏せるのが騎士の強さだと思っていた。

痛みに耐えて立ち上がるのが戦士の誇りだと思っていた。

だが、違った。

泣き叫ぶ子どもを笑顔にし、絶望していた母親の心を救い、戦うことなく病魔を消し去る――この小さな女性の手の中にこそ、世界で最も気高く、最強の「力」が宿っていたのだ。


「エレナ様……」


バルツは胸元で拳を握りしめ、誰にも聞こえない声で固く誓った。


(あんたは……本物の聖女様だ。俺の命も、この大剣も、全部あんたのために使ってやる……! 誰が何と言おうと、あんたを王都なんぞに返してたまるもんかよ……!!)


◇


トビーが全快するまでの分のシロップと、計量スポイトをハンナに託し、丁寧な服薬指導を終えた私たちが城へと帰還した頃には、すでに夕暮れの鐘が鳴り響いていた。


執務室で待っていたジルヴェスタ閣下に事の顛末を報告すると、閣下は執務机の前で腕を組み、深いため息をついた。

その紫の双眸には、いつもの冷徹さは欠片もなく、心底参ったと言わんばかりの、熱く蕩けるような光が宿っていた。


「……まったく、お前という女性は」


ジルヴェスタ閣下は立ち上がり、私の前に歩み寄ると、手袋を外した素手で、私の頬をそっと優しく撫でた。

触れられた皮膚が、カッと熱を帯びる。


「城内の騎士たちを骨抜きにしただけでは飽き足らず、城下の民の心まで、たった数時間で完全に掌握してくるとはな。……誇らしい反面、お前が誰かに奪われはしないかと、私の胃がまた痛みそうだ」


「へ、変なことを言わないでください! 私は薬剤師として当然の仕事をしただけです! あと、胃が痛むなら消化薬を処方しますから大人しく座っていてください!」


私が真っ赤になって抗議すると、ジルヴェスタ閣下は低く楽しげに喉を鳴らして笑い、私の頭を愛おしそうにポンポンと撫でてくれたのだった。


すべてが平和に、温かい幸福感に包まれて終わった一日。

……そう、思っていたのだ。

その夜、私が自室のベッドで泥のように心地よい眠りに落ちていた、その裏で。

パン屋の母親ハンナの涙の口コミが、夜の城下町を、野火のような凄まじいスピードで駆け巡っていたことを、私はまだ知る由もなかった。


そして――迎えた、翌朝。


カン、カン、カン、カンッ!!

城門の警鐘が、けたたましく乱打された。

昨日の魔獣警報とは違う、人を呼ぶための緊急招集の鐘。


「エレナ様! エレナ様ぁぁっ、大変でございますぞッ!!」


自室の扉を突き破らんばかりの勢いで飛び込んできたのは、老侍医オットーだった。

白髪を逆立て、目を血走らせて叫ぶ。


「オ、オットー先生!? 今度は何事ですか、また魔獣が――」


「魔獣ではありませぬ! 城門の外です! 城門の前に……城下町の母親たちが、病気や怪我を抱えた子どもたちを連れて、大挙して押し寄せてきているのでございます!!」


「……えっ?」


私がパジャマのまま窓に駆け寄り、城門の外を見下ろした、その瞬間――。

私の思考は、完全にフリーズした。


朝霧煙る城門の前。

そこには――数十人、いや、百人を超える町の人々が、雪の上に長蛇の列を作っていたのだ。

咳き込む子を抱いた母親、熱を出した赤ん坊をおぶった父親、包帯を巻いた子どもを連れた老人たち。

門番の騎士たちが槍を構えて必死に制止する中、民衆は門に向かって、すがるように両手を天へと突き上げていた。


『昨日の、魔法の薬師様を出してください!』

『うちの子の咳も止めてください!』

『エレナ様! 聖女エレナ様にお会いしとうございます!!』


地鳴りのような歓声と懇願の嵐。

元臨床薬剤師エレナ・ノール。

彼女の撒いた小さな「正しい医療」の種は、北方の辺境全土を揺るがす、巨大な大革命の嵐を巻き起こそうとしていた。

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