第15話:王都には絶対に返さない! 辺境伯領の「エレナ囲い込み包囲網」
大型魔獣ギガントベアの群れを電光石火の勢いで殲滅した、あの大防衛戦の翌朝。
普段であれば、戦いの後のハーディン城は、重傷者の苦悶の呻き声と、内臓を痛めた騎士たちの吐瀉物、そして立ち込める血生臭いオゾン臭によって、野戦病院さながらの重苦しい空気に包まれていたはずだった。
だが――今朝の城内を支配していたのは、信じられないほど爽やかで、活力に満ち溢れた空気だった。
「おい、新兵! 昨日の迎撃戦で肩を強打したって言ってたな。患部を見せろ!」
「へい、バルツ隊長! それがですね……エレナ様に処方された冷感湿布を貼って一晩寝たら、腫れが綺麗さっぱり引いちまいまして! ほら、腕をぐるぐる回してもビクともしません!」
「ハハッ、上出来だ! だが油断するなよ、エレナ様特製のカモミールバームを関節に塗り込んでから朝の鍛錬に入れ! 皮膚のバリアが壊れたら、またエレナ様に『自己管理がなってない』って怒られるからな!」
「了解でありますッ!!」
中庭の鍛錬場からは、朝露を吹き飛ばすような威勢のいい掛け声が響いていた。
擦り傷や打撲を負った者は多数いたものの、エレナの迅速な初期トリアージと、DDS(局所標的化ドラッグデリバリーシステム)に基づく湿布と軟膏の処置により、重篤な化膿や筋膜炎を起こした者は文字通りのゼロ。
さらに、出撃前後に摂取させた電解質・クエン酸補水液のおかげで、筋肉細胞内の乳酸は速やかに代謝され、あれほど激しい死闘を繰り広げたというのに、翌日の筋肉痛や全身倦怠感を訴える兵は一人もいなかった。
人体の生化学的メカニズムに逆らわず、必要な栄養と休息を与え、局所の炎症だけをピンポイントで抑え込む。
たったそれだけの、前世の近代医学では当たり前だった「生活改善とセルフケア」の積み重ねが、この極寒の要塞を、世界で最も強靭で健康な軍団へと生まれ変わらせていた。
そんな奇跡の日常が動き出す中――城の最上階にある、重厚な執務室の空気だけは、打って変わって氷点下の緊張感に包まれていた。
◇
執務室の大きな窓から差し込む朝の光。
暖炉には赤々と薪が燃え盛っているというのに、室内の温度は目に見えて低かった。
部屋の中央、黒檀の巨大な執務机に鎮座しているのは、北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。
その両脇には、副団長カイエン、第一部隊長バルツ、治癒魔術師ロディン、そして老侍医オットーの四名が、彫像のように硬い表情で居並んでいた。
机の上にぽつんと置かれていたのは、一通の豪奢な書簡だった。
純白の上等な羊皮紙に、金糸の飾り紐。そして、中央に押された見覚えのある封蝋――王立薬草院の紋章と、筆頭錬金術師ブラント家の家紋。
「……王都からの定期連絡便に紛れ込んでいたものです」
沈黙を破ったのは、副団長カイエンだった。
銀縁眼鏡の位置を指先で微かに押し上げると、そのレンズの奥の切れ長の瞳が、冷え切った光を放った。
カイエンは机の上の書簡を指先で摘み上げ、事務的な、だが底知れぬ侮蔑を込めた声で読み上げ始めた。
「差出人は、王立薬草院筆頭錬金術師――ユルゲン・フォン・ブラント。『男爵令嬢エレナの近況報告および帰還命令の予備打診について』」
「……読め」
ジルヴェスタの低く、地を這うような命令。
カイエンは小さく頷き、封蝋の割れた羊皮紙を広げた。
「『拝啓、ハーディン辺境伯閣下。極寒の地において武功に励まれる閣下に、王都の栄えある光をお届けする。さて、先般我が薬草院より配属いたしました男爵令嬢エレナ・ノールであるが、元より魔力光の一つも灯せぬ無能な女ゆえ、すでに閣下の逆鱗に触れ、処刑されたか、あるいは寒冷の魔境に音を上げて泣きついている頃と拝察申し上げる』」
ピキリ、と。
執務机の分厚い天板に、微かな亀裂が走った。
ジルヴェスタの拳が、音もなく握り締められている。だが、カイエンは表情を変えずに朗読を続けた。
「『――しかしながら、我がブラント家の慈悲と寛大さをもって、愚昧なる元婚約者にいま一度の情けをかけてやることとした。現在、我がハイ・エーテルポーションの研究は王都中で絶大な称賛を浴びており、調合室の規模拡大に伴い、下級の薬草洗浄や乾燥炉の灰かきといった雑用をこなす手駒が不足している。エレナが己の無力と不敬を悔い改め、平伏して許しを乞うのであれば、我が研究室の末席に雑用係として呼び戻してやってもよい。閣下におかれても、使えぬ無能な小娘を飼い殺すよりは、王都へ叩き返した方が領の経費削減にもなろう。速やかに身柄を引き渡す準備を進められたし。草々』」
「…………」
朗読が終わった瞬間、執務室内の大気が完全に凍結した。
あまりの傲慢さ。
自分たちが「光らない無能」と罵って極寒の地に放逐しておきながら、手元が忙しくなれば「慈悲」と称して再び無給の雑用係としてこき使おうという、恥知らず極まりない身勝手な論理。
エレナがどれほどの医学的知性を持ち、どれほどの覚悟と献身でこの城の人間を救ったのか、何一つ知ろうともしない愚者の妄言。
「……ぶち殺すぞ、あのクソ野郎がぁッ!!!!」
静寂を爆破するように吠えたのは、第一部隊長バルツだった。
分厚い胸板を波打たせ、腰の大剣の柄を握りしめた拳には太い青筋が浮き上がっている。熊のような巨躯から、獰猛な殺気が噴き出した。
「誰が雑用係だコラァッ! エレナ様がどれだけすげえお方か分かってねえのかあの節穴どもは! 俺の背中を治し、閣下の命を救い、兵たちの身体をピッカピカに磨き上げてくれた最高の聖女様だぞ! 呼び戻すだぁ!? 一歩でもこの城に近づいてみろ、王都の使いだろうが何だろうが、その首根っこごと両断して雪山に放り投げてやるッ!」
「おやおや、野蛮ですねバルツ隊長。剣で斬るなど、かえって血で雪を汚すだけでしょう」
フッと涼やかな、だが底知れぬ暗黒の笑みを浮かべたのは、治癒魔術師ロディンだった。
エレナのカフェイン・生薬ドロップによって長年の偏頭痛から解放され、今や彼女を「我が女神」と崇める美青年は、自らの白く繊細な指先をもてあそびながら、妖艶に目を細めた。
「王都からの使者が来たら、私にお任せください。大脳皮質を直接刺激する強力な幻惑魔法をかけて差し上げますよ。自分が永遠に極寒の吹雪の中を彷徨い、手足が凍傷で腐り落ちていく幻覚を見せながら、王都へ裸足で走って逃げ帰らせてあげましょう。……私の頭の霧を払ってくださったエレナ様を奪おうだなんて、万死に値しますからね」
「二人とも、少し落ち着きなさい」
騒ぎ立てる二人を制したのは、老侍医オットーだった。
しかし、その老人の顔もまた、静かな怒りで朱に染まっていた。白髪を逆立て、手にしたカルテを胸に抱きしめながら、ギリギリと奥歯を噛み鳴らしている。
「あのユルゲンとかいう青二才め……! ポーションの魔力濃度ばかりを自慢し、生体のバイタルも薬物動態も知らぬヤブ医者風情が、我が師・エレナ様を愚弄するとは片腹痛いわ! もし王都から査問官が来ようものなら、この儂が過去三十年分の医学論文と、師匠から授かった最新の解剖生理学・薬理学の全理論をもって、公開討論の場で赤子の手をひねるように論破し、二度と医学界に顔を出せぬよう学会から永久追放してくれますぞ!」
大型犬の忠剣、病んだ美青年の黒魔術、そして最高齢の筆頭弟子の学会圧力。
エレナを奪おうとする王都に対し、騎士団幹部たちの殺気と敵意は、すでに沸点を超えて暴走していた。
そんな中。
手紙を読み終えたカイエンは、冷ややかな手つきで羊皮紙を小さく折り畳んだ。
そして――何食わぬ顔で歩み寄ると、燃え盛る暖炉の炎の中へと、その手紙を躊躇なく放り込んだのだ。
パチッ、と音を立てて羊皮紙が灰へと変わっていく。
カイエンは眼鏡をクイと押し上げ、完璧な事務屋の冷笑を浮かべた。
「……ふむ。不思議なこともあるものですね。王都からの郵便物など、我が城には一通たりとも届いておりません」
「「「……ッ!」」」
「郵便事故でしょう。北方の厳しい吹雪のせいで、鳥が遭難したか、馬車が雪崩に巻き込まれたに違いありません。記録にも残しませんし、王都への返信も不要です。……我々が受け取ったのは、ただの暖炉の焚き付け用の紙屑だけでした」
完全なる証拠隠滅と、対外的な黙殺。
知性派副団長による最もスマートで冷酷な「門前払い」の処置に、バルツが「ヒューッ、相変わらず手が早えな副団長!」とニヤリと笑った。
そして――。
手紙が完全に灰燼と化したのを見届けた後、部屋の主が、ゆっくりと口を開いた。
「……カイエン」
「はっ、閣下」
ジルヴェスタは、机の上に広げられていた一枚の大きな羊皮紙を引き寄せた。
それは王都からの手紙などではない。
ハーディン城の最上階、日当たりが最も良く、風通しの清らかな東翼のフロアを丸ごと改修するための――『特注調剤・研究室』の設計図だった。
最新鋭のガラス製蒸留器の配置、寒冷地生薬を栽培するための魔力式温室、調剤事故を防ぐための機能的な動線設計、そしてエレナが作業の合間にいつでも横になって仮眠が取れるよう配慮された、最高級の羽毛ベッドを備えた私室。
エレナがこの城で、誰にも邪魔されず、世界で一番安全に、快適に研究を続けられるようにと、ジルヴェスタが自ら夜を徹して監修した特注の空間だった。
ジルヴェスタは羽根ペンを手に取り、その設計図の承認欄へ、力強い筆致で署名を走らせた。
サラサラとインクが紙を滑る乾いた音。
ペンを置いたジルヴェスタは、窓の外――遥か南方の、腐敗した王都の空を見据え、絶対零度の声音で宣告した。
「エレナを、王都には二度と帰さん」
その紫の双眸に宿っていたのは、国を揺るがす覇気。
そして、己の命の恩人であり、胸に抱きとめた最愛の少女に対する、底知れない執着と独占欲だった。
「あの愚者どもが捨て去った至宝の価値を、いまさら思い知ったところで手遅れだ。エレナの知識も、あの慈愛に満ちた笑顔も、私の不摂生を叱り飛ばす愛らしい声も……そのすべては、このハーディン辺境伯領が、そして――この私が、一生をかけて囲い込む」
ゴクリ、と部屋にいた男たちが息を呑む。
氷の公爵の瞳には、一切の迷いも妥協も存在しなかった。
もし王都が力ずくで彼女を奪いに来ようものなら、帝国全軍を敵に回してでも、この北方の鉄騎兵すべてを率いて王都を焦土に変える――それほどの狂気じみた覚悟が、その眼差しには宿っていた。
「カイエン、研究室の改修を最優先で進めさせろ。予算の上限は設けん。王都のいかなる研究機関よりも豪奢で、完璧な設備を揃えろ」
「御意に。すでに資材の手配は完了しております」
「バルツ、ロディン。エレナの身辺警護を一段階引き上げろ。城下へ出る際は必ずお前たちのいずれかが影のように張り付け。……ただし」
ジルヴェスタの視線が、スッと二人の男たちを射抜いた。
凍りつくような牽制の光。
「護衛にかこつけて、エレナの手に気安く触れようとしたり、下心を見せた場合は――敵兵よりも先に、貴様らの首を刎ねる」
「ヒッ……! わ、分かってますよ閣下!」
「おやおや、恐ろしいですね。肝に銘じておきましょう」
バルツが縮こまり、ロディンが苦笑混じりに一礼する。
こうして、主と騎士団幹部たちの利害が完全に一致し、世界で最も過保護で、狂暴で、鉄壁すぎる「エレナ様囲い込み包囲網」が、彼女の知らぬ間に正式結成されたのだった。
◇
――一方その頃。
男たちが命がけの包囲網を築き上げているとは夢にも思っていない、当のエレナはといえば。
「テオ、火加減はそのままキープよ! 絶対に六十度を超えさせないでね!」
「わふっ!」
城の裏手にある臨時調剤室の作業台で、エレナは白衣の腕をまくり上げ、目をキラキラと輝かせていた。
足元では、ルナフェンリルの仔テオが、フサフサの尻尾をパタパタと振りながら、微弱な冷気魔法を吐き出して湯煎鍋の温度を絶妙にコントロールしている。
作業台の上には、昨日テオが森の奥から咥えて持ってきた、あの青白く発光する幻の国宝生薬――「月光花」の花弁が、ガラスの抽出器の中でゆらゆらと揺れていた。
「素晴らしいわ……! この月光花に含まれる有効配糖体は、七十度以上の熱を加えると熱変性を起こして活性が半減してしまうけれど、六十度の低温減圧下で、純度の高い植物油を用いて抽出すれば……細胞膜の透過性を阻害することなく、薬効成分を完璧に閉じ込めることができる!」
エレナは手元の比重計と、自らの固有スキル「成分鑑定」をフル稼働させ、刻一刻と変化する薬液の分子構造をスキャンしていた。
「魔力濃度の高さに頼る必要なんて全くない。物質本来の薬理活性を壊さずに引き出し、生体の受容体に優しくフィットさせる……。これなら、どんな重篤な内臓疾患にも、皮膚の壊死にも、副作用ゼロで劇的な治癒をもたらすことができるわ!」
エレナは額の汗を手の甲で拭い、心底からの歓喜の笑みをこぼした。
前世の総合病院時代は、朝から晩まで処方箋の山に追われ、医師の機嫌を伺い、夜勤明けのボロボロの身体で書類仕事に忙殺されていた。
今世の王立薬草院でも、元婚約者ユルゲンの尻拭いばかりをさせられ、自分の調合研究など一度たりとも許されなかった。
だが、今はどうだろう。
うるさい上司もいなければ、理不尽な貴族のクレームもない。
広大で手付かずの大自然から希少な薬草を採り放題で、最新の器具を自由に使い、誰にも邪魔されずに心ゆくまで薬理学の探求に没頭できる。
おまけに、患者たち(騎士たちや領民)は用法用量を守って感謝の涙を流してくれ、食事も美味しく、可愛いモフモフの相棒までできたのだ。
「ああ……本当に、追放されて大正解だったわ!」
エレナは大きく伸びをして、澄み渡る北方の空を見上げた。
「ユルゲン様には心から感謝しなくちゃね。あんなブラック職場から追い出してくれたおかげで、こんなに素晴らしい長期有給休暇を満喫できているんだもの! 王都になんて、金輪際戻りたくないわ!」
エレナは満足げに頷き、再びガラス棒を手に取って調剤へと戻った。
自分が「休暇中の一時的な滞在者」のつもりでいること。
そして、城の主である冷徹公爵をはじめとする屈強な男たちが、彼女を一生涯この地に縛り付け、全力で囲い込むための外堀を、すでに蟻の這い出る隙もないほど完璧に埋め尽くしていること――。
その重すぎる愛の包囲網の存在に、鈍感すぎる元臨床薬剤師が気付く日は、まだまだ当分先のことになりそうだった。




