第14話:完全復活の氷血公爵、戦場を制する「健康の力」
ウゥゥゥゥ――ッ、ウゥゥゥゥ――ッ!
凍てつく北風を切り裂き、ハーディン城の防空尖塔から、低く重苦しい警鐘が響き渡った。
城の石壁を震わせるその音は、領地全土に非常事態を告げる「第一種魔獣襲撃警報」。
「北の第一防壁に魔獣の群れを確認! 個体数およそ三十! 北方霊峰の主、凶暴な大型魔獣『ギガントベア』の群れです!」
「先頭の変異個体は体長五メートルを超過! 防壁の外殻に取り付き、破壊行動を開始しました!」
伝令兵の切迫した叫び声が、城内の中庭や回廊を駆け巡る。
普段のハーディン辺境伯領であれば、この警報が鳴り響いた瞬間、現場は一種の悲壮感と狂気じみた緊迫感に支配されていたはずだった。
従来の彼らの出撃準備とは、まさに「死兵の儀式」そのものだったからだ。
重い金属甲冑に身体を押し込み、痛む腰や肩の激痛を歯を食いしばって耐え、そして出陣直前、腰から引き抜いた青白く光る「高濃度ポーション」を一気に喉へ煽り込む。
胃が焼け爛れるような激痛に耐え、血の混じった唾液を雪の上に吐き捨てながら、過剰な魔力による強制興奮で神経を麻痺させ、死に物狂いで突撃する――それが、彼らにとっての「戦い」の常識だった。
だが。
今日、第一防壁の出撃待機所を満たしていたのは、かつてない異様な光景だった。
「おい、新兵! 首元のバームはしっかり塗り込んだか!? 襟ぐりが擦れてからじゃ遅えぞ!」
「へい、隊長! 蜜蝋バームのおかげで、鎧の重みがまるで気になりません! 手首のあかぎれも完全に塞がってます!」
「背中の湿布はズレてねえな!? よし、俺の腰にももう一枚ペタリと頼む!」
「了解です! うおお、このハッカの匂いを嗅ぐと、頭の芯までシャキッと引き締まりますぜ!」
待機所に立ち込めていたのは、焦げ付いた魔力臭や血の臭いではなく――清冽な薄荷の香りと、甘やかなカモミールバームのアロマだった。
騎士たちは誰一人として青白い顔で胃を押さえてなどいなかった。
各自の関節や腱には、エレナが指導した可動域をサポートするリネン布のテーピングが巻かれ、首元や手首の皮膚はしっとりとした油分で完璧に保護されている。
そして何より、彼らが腰の革ホルダーに差していたのは、劇薬ポーションのガラス瓶ではなく――真鍮製の水筒だった。
「全員、出撃前の『黄金水』の補給を忘れるなよ!」
第一部隊長バルツが、豪快に笑いながら自らの水筒を掲げた。
中に入っているのは、エレナが城の厨房と調剤室をフル稼働させて調合した、特製の「電解質・クエン酸・アミノ酸補水液」だ。
野生の柑橘類から抽出した純度の高いクエン酸に、適度な塩分とブドウ糖、そして滋養強壮生薬の微細エキスを配合した、黄金色に透き通るスポーツドリンク。
「ゴクッ、ゴクッ……ぷはぁっ! うめえ! 酸っぱさが五臓六腑に染み渡りやがる!」
「胃が全くもたれない……! それどころか、手足の先までカッと温かい血が巡ってくるぞ!」
男たちが歓声を上げ、意気揚々と屈伸や素振りを繰り返す。
そこには、死線に赴く者の悲愴感など微塵もなかった。万全のコンディションで獲物を狩りに行こうとする、研ぎ澄まされたアスリート軍団の熱気だけが渦巻いていた。
◇
「失礼します、バイタルチェックに入ります!」
待機所の天幕を勢いよく跳ね上げて飛び込んできたのは、白い防護長着(白衣)の袖をまくり、肩に救急ポーチを提げたエレナだった。
その足元には、銀色に輝く毛並みを持つ聖獣の仔テオが、まるで忠実な小型護衛のように「わふっ」と軽快に跳ねながら寄り添っている。
「エレナ様!」
「お師匠様、お待ちしておりましたぞ!」
天幕の奥で、出撃前の点呼を取っていた副団長カイエンと、救急箱を抱えた老侍医オットーが振り返る。
そして――天幕の中央、漆黒の重装甲冑を身に纏い、静かに長剣の手入れをしていた偉丈夫が、ゆっくりと顔を上げた。
北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。
その姿を目にした瞬間、エレナは思わず息を呑んだ。
わずか数日前、吐血し、黄疸で濁った瞳で死の淵を彷徨っていた男とは、到底信じられないほどの神々しさがそこにあった。
乱れのない漆黒の髪。引き締まった精悍な顎。
そして何より、深く澄み渡った紫の双眸には、凍てつく冬の夜空のように研ぎ澄まされた光が満ち満ちていた。
全身から立ち上る魔力のオーラは、以前のような暴走した毒々しいものではなく、静かに、だが底知れない質量を伴って大気を震わせている。
「……エレナ。前線は危険だと言ったはずだが」
ジルヴェスタが立ち上がり、長剣を鞘へと納めた。
低く、深く響く美声。その声音には、配下の騎士たちを震え上がらせる冷徹さはなく、ただ目の前の小柄な女性を気遣う、隠しようもない甘やかな温もりが滲み出ていた。
「出陣前の最終問診を怠る医療従事者がどこにいますか! 手首を出してください!」
エレナはずかずかと大股で歩み寄り、ジルヴェスタの手袋の隙間から、太い手首を素早く指先で捉えた。
橈骨動脈に触れる。
ト・ト・ト・ト……。
毎分六十八拍。力強く、規則正しく、一切の不整脈も結滞もない、完全無欠の拍動。
「……よし。脈拍正常、血圧推定値も極めて安定。眼瞼結膜の血色良好、黄疸の完全消失。呼吸音清明……内臓の代謝機能は、完全に平常値へと回復しています」
エレナは小さく息を吐き、真剣な眼差しでジルヴェスタを見上げた。
「ジルヴェスタ様。もう胃の奥が焼けるような痛みや、吐き気はありませんね?」
「ああ。何一つない」
ジルヴェスタは自らの胸元に手を当て、どこか噛み締めるように目を細めた。
「腹の奥に居座っていたあの泥のような熱も、頭を締め付けていた耳鳴りも、完全に消え去った。……今、私の体内を巡る血は、雪解け水のように澄み渡っている。すべて、お前がくれた滋養とお粥、そしてあの苦い生薬のおかげだ」
「よろしい。ですが、絶対に油断は禁物です! 約束してください、どんなに敵が強大であろうと、あの高濃度ポーションの煽り飲みは絶対に禁止です! 喉が渇いたら、私が持たせたクエン酸水をこまめに一口ずつ含むこと! もし言いつけを破って劇薬に手を出したら……凱旋した後に、特大の浣腸と苦いセンナ茶の刑が待っていますからね!」
至近距離でぷりぷりと指を振るエレナ。
周囲の騎士たちなら顔面蒼白で失禁しそうな脅し文句だったが、ジルヴェスタは怒るどころか、その切れ長の目元をふっと緩め、心底愛おしそうに口元を綻ばせた。
「……ああ、肝に銘じよう。お前の処方箋に逆らうほど、私は愚かではない」
ジルヴェスタは無造作に大きな右手を伸ばすと、エレナの頭の上にポンと乗せ、その柔らかな髪を優しく撫でた。
あまりにも自然で、それでいて周囲の男たちに対する「この女は私のものだ」という明確な牽制を込めた仕草。
エレナが「ひゃっ……!? な、撫でないでください、子供扱いしないで!」と顔を真っ赤にして身をよじるのを、ジルヴェスタは満足げに見つめ、それから天幕の出口へと向き直った。
その瞬間、彼の纏う空気が一変した。
甘やかな空気は瞬時に霧散し、帝国最強の「氷血の辺境伯」としての、絶対零度の覇気が解き放たれる。
「行くぞ。我が領の大地を荒らす獣どもに――真の万全たるハーディンの武威を教えてやる」
「「「オオオオオオオオッッッ!!!!」」」
地鳴りのような雄叫びが待機所を揺るがし、北方の鉄騎兵たちが、銀世界の戦場へと雪崩れ込んでいった。
◇
防壁の外郭は、まさに地獄の様相を呈していた。
降りしきる吹雪の中、城壁を揺るがしていたのは、巨大な毛皮の塊――ギガントベアの群れだった。
通常の熊の三倍以上、立ち上がれば城壁の銃眼に爪が届くほどの巨躯。その毛皮は氷と泥が何層にも固まって岩石のような硬度を誇り、振り下ろされる丸太のような腕の一撃は、鋼の盾すら容易く叩き折る。
「グオオオオオオオオオッッッ!!」
先頭の巨獣が咆哮を上げ、巨大な前足を振り下ろした。
直撃すれば人間など挽き肉と化す必殺の一撃。
だが――。
「フンッ!!」
その一撃を正面から受け止めたのは、大剣を構えた第一部隊長バルツだった。
ズドォォォォンッ! と凄まじい衝撃波が雪を吹き飛ばす。
以前のバルツであれば、腰の激痛に顔を歪め、衝撃に耐えかねて膝をつき、慌ててポーションを煽って内臓を痛めつけていたところだ。
しかし――今日のバルツの足腰は、まるで大樹のように大地に根を張っていた。
「へっ……! 重くもなんともねえぜッ!!」
背中に貼られた冷感消炎湿布が、激しい衝撃による筋膜の炎症を即座にブロックしている。
さらに、関節にすり込まれたバームが金属鎧の摩擦熱を完全に逃がし、皮膚へのダメージはゼロ。
バルツはニヤリと凶悪な笑みを浮かべると、大剣の刃を滑らせて巨獣の爪を受け流し、そのまま電光石火の勢いで腹部へと蹴りを叩き込んだ。
ドガァッ!
「グギャッ!?」
「オラァッ、首を洗って出直してきやがれッ!」
横合いから閃光のように飛び込んだのは、副団長カイエンの細剣だった。
チアノーゼと胃痛から解放され、完璧な脳血流を取り戻した彼の思考速度は、かつての倍以上に研ぎ澄まされていた。
巨獣の関節の隙間、毛皮の薄い急所だけを寸分の狂いもなく刺突する。
「ロディン、支援を!」
「了解です! ああ、視界がクリアだ……頭痛の霧が一切ない!」
後方の高台から、治癒魔術師ロディンが光の障壁を展開する。
エレナのカフェイン・生薬ドロップによって脳血管の痙攣を鎮められた彼の魔力回路は、完全な安定状態を維持していた。術式展開のタイムラグはゼロ。魔獣の爪が届く寸前で、完璧な防護結界が騎士たちを包み込む。
そして――何より驚異的だったのは、戦闘が十分、二十分と経過した後のことだった。
(……信じられん。息が上がらない……!)
剣を振るい続けるカイエンが、自らの身体の軽さに戦慄していた。
以前の戦いであれば、十分も激しく動き回れば筋肉に乳酸が溜まり、手足が鉛のように重くなって、息も絶え絶えになっていた。
だが、今は違う。
出撃前に摂取した「クエン酸補水液」が、体内で驚くべき生化学の奇跡を起こしていたのだ。
筋肉の運動によって生じた乳酸は、クエン酸回路(TCA回路)の劇的な活性化によって、瞬時にエネルギーへと再変換される。
グリコーゲンの枯渇が防がれ、細胞内のATP(アデノシン三リン酸)産生が途切れることなく持続する。
さらに、脱水が完全に予防されているため、血液の粘度が上がらず、酸素が筋肉の末端までスムーズに供給され続けていた。
ドーピングによる一時的な中枢神経の麻痺ではない。
人体の持つ代謝システムを、生化学的に極限まで最適化した結果もたらされた――持続可能で、底なしの「真のスタミナ」。
「ハハッ! どうなってやがる、何本剣を振っても筋肉がバテねえぞ!」
「胃の不快感がない! 吐き気もしない! 戦うのがこんなに楽しいとはな!」
騎士たちが笑いながら魔獣を圧倒していく。
三十頭いたはずの凶暴なギガントベアの群れが、見る間に討伐され、雪原を黒い巨体が埋め尽くしていく。
――だが、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴッ……!
地鳴りとともに、防壁の向こうの森の木々が、ドミノ倒しのように薙ぎ倒された。
吹雪の奥から姿を現したのは、群れの頂点に君臨する「変異種ギガントベア」。
体長は優に七メートル。その頭部には巨大な角が生え、全身の毛皮は凍結した魔力によって青白い氷の鎧と化していた。
これまでの個体とは次元の違う、災害級の魔力波動。
「グオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!」
衝撃波を伴う咆哮。
新兵たちが耳を塞いで膝をつく中、その超巨大な氷の塊が、防壁の正門を粉砕せんと猛烈な突進を開始した。
その質量と速度は、城門を一撃で瓦解させるに十分な破壊力。
「まずい、正門を破られる――!」
カイエンが叫んだ、その刹那だった。
――ザッ。
ただ一歩。
雪を踏みしめる静かな足音とともに、漆黒の毛皮外套を翻した人影が、突進する巨獣の真正面へと音もなく滑り込んだ。
ジルヴェスタ。
男は抜剣すらしていなかった。
猛烈な突風と雪煙が彼の黒髪を激しく乱すが、その紫の双眸は、山のような怪物の突進を前にしても、水鏡のように静まり返っていた。
(……ああ、分かる)
ジルヴェスタは、自らの身体の内側に意識を向けた。
何年もの間、彼の体内は「激痛の戦場」だった。
傷口を塞ぐために注ぎ込まれた過剰なポーションの魔力は、体内の魔力回路をズタズタに引き裂き、濁った泥水のように血流を塞き止めていた。剣を振るうたびに内臓が軋み、魔力を練るたびに血管が破裂しそうな苦痛に苛まれていた。
あの痛みに耐え抜くことこそが、戦士の強さだと信じて疑わなかった。
だが、違ったのだ。
エレナの徹底した養生、投薬の遮断、そして正しい栄養。
内臓の炎症が鎮火し、肝臓と腎臓が本来の解毒機能を取り戻した今――。
(私の肉体には、淀みが何一つない……!)
心臓が力強く脈打つ。
肺が清らかな冷気を取り込み、全身の毛細血管へと酸素が行き渡る。
そして――体内の魔力循環経路が、遮るもののない広大な大河のように、爪の先から刃の切っ先まで、一切の抵抗なく滑らかに繋がり合っていた。
五メートル。
三メートル。
巨大な角を振りかざし、変異種の質量がジルヴェスタの頭上へと影を落とした。
カチャリ。
ジルヴェスタの右手が、腰の大剣の柄へと触れた。
次の瞬間――世界から、音が消えた。
――抜刀。
閃光などという生ぬるいものではなかった。
漆黒の刀身が抜かれた瞬間、大気そのものが凍結し、空間が上下に両断されたかのような錯覚。
以前のジルヴェスタの剣撃が「荒れ狂う嵐」であったとするならば、今の彼の剣は――「絶対零度の静寂」そのものだった。
無駄な魔力の飛散はゼロ。
内臓疾患を克服し、完璧に調律された肉体から放たれたその一撃は、以前の倍以上の鋭さと、山すら両断する圧倒的な重さを秘めていた。
スパンッ。
信じられないほど静かな切断音が、雪原に響いた。
ジルヴェスタはすでに、巨獣の背後へと通り抜けていた。
ザシュッ、と大剣を鞘へと滑り込ませる金属音。
その音が鳴り響いた瞬間――。
ズザザザザザッッッ!!!!
突進していた七メートルの変異種ギガントベアの巨体が、正門のわずか数メートル手前で、勢いよく前のめりに突っ伏した。
そして、その巨大な首が――氷の鎧ごと綺麗に切断され、ドス黒い鮮血を噴き上げながら、雪原をゴロゴロと転がっていったのだ。
「…………」
静まり返る戦場。
吹雪の音すら止まったかのような静寂の中、ジルヴェスタはゆっくりと自らの右の掌を見つめた。
息の乱れはない。
胸の痛みもない。
胃酸の逆流も、吐血の兆候も、筋肉の引き攣りすらも――何一つ起きていなかった。
一撃で災害級の魔獣を屠りながら、彼の肉体は、まるで朝の散歩を終えたかのように涼やかで、力に満ち溢れていた。
「……これが……」
ジルヴェスタの指先が、微かに震えた。
恐怖からではない。
底知れない歓喜と、戦慄。
「これが……万全の肉体というものか……」
痛みに耐えることが強さではなかった。
己の肉体を慈しみ、正しく休め、正しく整えた者だけが到達できる――至高の領域。
自分をここまで引き上げてくれたのは、王都の派手な魔術でも、莫大な金で買い集めた最高級ポーションでもない。
ただ一人、自分の身体を誰よりも案じ、怒り、叱り、そして温かいお粥と手当てを授けてくれた――あの、小さな薬剤師の少女だった。
「ジルヴェスタ閣下……万歳……」
沈黙を破ったのは、バルツの震える声だった。
そして次の瞬間――。
「「「ジルヴェスタ閣下万歳ッッッ!!!!」」」
「「「北方守護騎士団、完全勝利ィィィッッッ!!!!」」」
防壁を揺るがすほどの、割れんばかりの歓声が爆発した。
敵は全滅。
そして何より――騎士団の負傷者は驚くほど軽微、死者は文字通りの「ゼロ」だった。
◇
雪が止み、雲間から清冽な青空が顔を覗かせた午後。
重厚な防壁の正門がギギギと開かれ、凱旋部隊が城へと帰還してきた。
中庭には、心配そうに出迎えに出ていた領民たちや城の従僕たちが集まり、無傷で帰ってきた騎士たちの姿を見て歓声を上げていた。
「テオ、お座り。危ないから前に出ちゃ駄目よ」
城門のすぐ脇で、エレナは白衣のポケットに両手を突っ込み、足元で落ち着きなく跳ね回る仔獣テオを制していた。
その表情には、隠しようもない緊張と疲労が浮かんでいた。
どれほど医学的にサポートしたとはいえ、相手は凶暴な魔獣の群れだ。もしジルヴェスタの傷口が再破綻していたら、もし誰かが重傷を負っていたら――そう思うと、待っている間の数時間は生きた心地がしなかったのだ。
馬を降り、甲冑の騎士たちを従えて歩み寄ってきたジルヴェスタの姿を見つけた瞬間、エレナは思わず駆け寄った。
「ジルヴェスタ様! ご無事ですか!? 怪我は……出血はしていませんか!? 脈を……すぐに脈を測らせて――」
エレナが心配そうに両手を伸ばし、彼の胸元へと飛び込もうとした、その時だった。
ガシッ。
「……え?」
エレナの細い腰に、太く逞しい腕が回された。
甲冑を外したばかりのジルヴェスタの長い腕が、逃げ場を塞ぐように、力強くエレナの身体を抱き寄せたのだ。
「ひゃっ……!? ジ、ジルヴェスタ様!?」
ドサリと、エレナの顔が彼の広い胸板へと埋まる。
ふわりと漂ってきたのは、冷たい冬の風と、微かな汗の匂い、そして――先ほどエレナが持たせた柑橘の香水筒の香り。
ジルヴェスタは、泥や返り血を払いもせず、城中の騎士や領民たち数百人が息を呑んで見つめる中――迷うことなく、エレナの身体を抱きしめた。
その抱擁は、骨がきしむほどに強く、狂おしいほどの熱情を帯びていた。
「お前のおかげだ、エレナ」
耳元で、低く掠れた声が囁かれた。
ジルヴェスタの唇が、エレナの耳朶に触れそうなほどの至近距離にある。
トクン、トクン、と。
胸板越しに伝わってくる彼の心音は、信じられないほど力強く、そして――熱狂的なスピードで跳ね上がっていた。
「私の剣も、兵たちの命も、この勝利のすべてが……お前の処方箋のおかげだ。お前がいなければ、私は今頃土の下で腐り果てていた」
「あ……あ、あの……ジルヴェスタ様、皆さん見てます……! 離してください、恥ずかしいです……!」
エレナが顔を沸騰させ、彼の胸をぽかぽかと叩いて暴れる。
だが、ジルヴェスタの腕はビクともしなかった。
それどころか、彼はエレナを抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げ――中庭を取り囲む全軍、そして領民たちを見渡した。
その紫の双眸に宿っていたのは、神をも畏れぬ圧倒的な覇気。
そして、己の胸の中に収まる唯一無二の宝に対する、底知れない、狂気じみた独占欲の炎だった。
ジルヴェスタは、城中に響き渡る朗々たる声で、高らかに宣言した。
「全軍に告ぐ! この勝利をもたらしたのは、我が領の専属調合師、エレナ・ノールだ! 彼女の医療こそが、我がハーディン領の盾であり、剣である!」
おおおおおっ、と騎士たちが歓声を上げる中、ジルヴェスタはエレナの顎をクイと持ち上げ、その翡翠の瞳を至近距離から射抜いた。
逃がさない。誰にも渡さない。
氷の公爵の瞳が、熱い情熱に蕩けるように細められる。
「エレナ。私の命も、この広大な領地の未来も――この胸の鼓動の一つに至るまで、すべてお前のものだ。……二度と、私の側から離れるな」
「…………っっっっ!?」
エレナの脳の思考回路が、完全に焼き切れた。
周囲からはバルツの「ヒューッ!」という下卑た口笛と、カイエンの「ふむ、既定路線ですね」という冷静な呟き、そしてテオの誇らしげな「わふん!」という遠吠えが巻き起こる。
冷酷無比と恐れられた氷血の辺境伯。
その男の凍てついた心を完全に溶かしきった元薬剤師の少女は――今や、領主自らによる「絶対の囲い込み」の網の中へと、完全に捕らえられていたのだった。




