第13話:衰弱した聖獣の仔と、魔法の服薬ゼリー
療養室の扉を蝶番ごと粉砕せんばかりの勢いで蹴破り、絶対零度の殺気を撒き散らしていたジルヴェスタ様であったが――。
その結末は、実に呆気ないものだった。
「ジルヴェスタ様ッ!! 病み上がりの重篤患者が、何をやっているのですか! ベッドから抜け出した挙句、安静が必要なロディン様を威圧するなど言語道断! 今すぐ部屋に戻って横になりなさい! さもないと、今夜のお粥は抜きにして、苦いだけの生薬白湯を三杯飲ませますよッ!」
私の容赦のない雷撃のような説教を食らった帝国最強の猛将は、ぐうの音も出ないといった様子で肩を落とし、すごすごと自室へ強制送還されたのである。
ついでに、私の手を握って陶酔していたロディン様にも「血管が安定するまで絶対安静です!」と厳命を下し、ようやく城内の混乱はひとまずの落ち着きを見せたのだった。
だが、安堵の息を吐いたのも束の間。
私には、早急に対処しなければならない重大な問題が立ちふさがっていた。
「……師匠。先ほど調剤室の棚を確認してまいりましたが……底をついております。湿布用のハッカ油類似エキスも、バーム用の精製蜜蝋も、先ほどの騒動で第一部隊の野郎どもと閣下に配りきってしまい、すっからかんでございます!」
白髪を振り乱した老侍医オットーが、両手に空っぽのガラス瓶を抱えて悲鳴を上げた。
無理もない。城中の騎士たちが我先にと湿布を貼り、ハンドクリームを塗りたくったのだ。王都から持参した私の私物など、焼け石に水であった。
「城内の兵たちのケアを継続するにも、ジルヴェスタ様の胃粘膜を完全に再生させるためにも、生薬の補充が急務ね。……オットー先生、城の裏山の植生はどうなっていますか?」
「ハーディン城の背後に広がる霊峰の裾野……『氷霧の森』ですな。あそこは極寒の気候ゆえ、王都では見られぬ珍しい寒冷地ハーブが群生しております。ただし、凶暴な低級魔獣が徘徊する危険地帯でもありますが……」
「よし、採取に行きましょう。現場の薬剤師は、薬がなければ野山を駆けて掘り起こすのが基本ですから」
「は、はいぃぃっ!? 男爵令嬢自ら山狩りですとおおおっ!?」
目を丸くして卒倒しかけるオットーをよそに、私は防寒具を着込み、調剤トランクから採取用の薬草鎌と麻袋を取り出した。
もちろん、一人で行く気はない。
ジルヴェスタ様は「私も行く」と頑なに主張して聞かなかったが、「病み上がりに雪山登山をさせる医師がどこにいますか! お留守番です!」と執務室に押し込め、代わりに護衛として名乗りを上げた第一部隊長バルツと、事務方兼監視役としてカイエン副団長が同行することになった。
◇
城の勝手口から裏山へと足を踏み入れると、そこは音のない銀世界だった。
樹齢数百年はあろうかという巨大な針葉樹が立ち並び、枝には分厚い雪が積もっている。キリリと澄み切った冷気が肌を刺すが、首元に巻いた羊毛マフラーと、懐に忍ばせたショウガ粉末のおかげで体温は保たれていた。
「へへっ、エレナ様! 重い荷物なら何でも俺に任せてくだせえ! 背中に貼ってもらったあの神の布のおかげで、腰の痛みが嘘みてえに消えて、大剣が羽のように軽いですぜ!」
先頭を歩くバルツは、雪かき用のスコップと巨大な背負い籠を軽々と担ぎ、上機嫌で尻尾を振る大型犬のように足音高く雪を踏みしめている。
その後ろを歩くカイエンは、銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、周囲の茂みに鋭い視線を走らせていた。
「バルツ、浮かれるな。魔獣の気配は薄いが、雪の下にクレバスが隠れているかもしれん。エレナ様の足元を最優先で確保しろ」
「へいへい、副団長殿はお堅いねえ。……っと、エレナ様、あんな崖っぷちに生えてる草を採るんですかい?」
「ええ、あれよ! バルツ、ちょっとあそこの岩肌を掘り起こして!」
私の固有スキル「成分鑑定」が、雪に覆われた山肌のあちこちでピコピコと反応を示していた。
岩肌の隙間にへばりつくように生えている、厚みのある銀色の多肉植物。
――ユキノシタ類似の消炎生薬。
さらに、日当たりの良い斜面に群生していたのは、赤黒い実を鈴なりにつけた低木だった。
「これは……クランベリーやコケモモに似た、寒冷地特有の野生果実ね。果皮に豊富なペクチン(植物性多糖類)と有機酸、ビタミンCを含んでいるわ。水溶性食物繊維が豊富で、熱を加えると強くとろみがつく……よし、これも大量に採取しましょう!」
私は手際よく薬草鎌を振るい、根を傷つけないように生薬を掘り起こしていく。
オットーが「な、なんと見事な手捌き……! 土の落とし方ひとつ取っても無駄がない!」と感涙に咽び、バルツが怪力で雪を跳ね除け、籠はあっという間に新鮮な薬草と赤い果実で満杯になっていった。
「ふう、大収穫ね。これだけあれば、新しい軟膏も湿布も作れる――」
私が息を整え、額の汗を拭った、その時だった。
「――グルル……ッ」
凍てついた森の奥から、低く、掠れた唸り声が微かに風に乗って届いた。
「敵かっ!?」
バルツが一瞬で野生の戦士の貌へと戻り、背負っていた大剣の柄に手をかける。カイエンも即座にサーベルを抜き放ち、私を背中に庇うようにして素早く陣形を組んだ。
張り詰める空気。
しかし――その気配は、獲物を狙う獰猛な捕食者のものではなかった。
途切れ途切れの、今にも消え入りそうな、弱々しい息遣い。
ヒュー、ヒューと喉を鳴らす、苦痛に満ちた喘鳴。
「……待って。魔獣の襲撃じゃないわ」
「エレナ様、危険です!」
制止するカイエンの腕をすり抜け、私は音のした茂みへと駆け寄った。
雪をかぶり、枯れ枝が折り重なった窪地。
その冷たい雪の底に――小さな、銀色に光る毛玉のような生き物が、丸くなって倒れていた。
「……っ! これは……」
息を呑んだ。
大きさは、生まれたばかりの子犬ほど。
だが、その毛並みは純白の雪よりも白く、月光を反射するように青銀色の神秘的な燐光をかすかに放っていた。頭部には小さな二本の角のような突起があり、ふさふさとした尾が力なく雪の上に投げ出されている。
追いついてきたオットーが、その姿を一目見るなり、腰を抜かして雪の上に尻餅をついた。
「ひ、ヒィィィッ……!? ば、馬鹿な……! こ、これは……北方霊峰の頂に棲まうと伝えられる、伝説の幻獣……『ルナフェンリル』の幼体ではありませぬかッ!?」
「ルナフェンリル……? あの、神話に出てくる氷の聖獣か!?」
バルツが目を剥く。
聖獣ルナフェンリル。成体となれば山一つを氷漬けにするほどの絶大な魔力を誇り、古代より北方の守り神として崇められてきた伝説の存在。
その聖獣の赤ん坊が、なぜこんな人里近い裏山で行き倒れているのか。親とはぐれたのか、あるいは群れから落ちこぼれてしまったのか。
だが、今の私にとって、それが神話の聖獣だろうがただの野良犬だろうが関係なかった。
目の前で、小さな命の灯火が、まさに吹き消されようとしている。その事実だけがすべてだった。
「触診します!」
私は膝を雪に沈め、震える銀毛の身体に素手を滑り込ませた。
――熱い!
毛皮越しに伝わってきたのは、目玉が焼き切れそうなほどの強烈な高熱だった。
胸郭は激しく上下し、小さな喉からはヒューヒューという喘鳴と、ゼエゼエという湿性のラ音(水泡音)が絶え間なく漏れ出している。
鼻先はカラカラに乾き、目頭には黄色い目脂がこびりつき、肉球は脱水によってカサカサに硬直していた。
「……体温は四十度を超えているわ。呼吸促迫、努力性呼吸。重度の気管支炎、あるいは急性肺炎……! 極寒の吹雪の中で体力を奪われ、風邪をこじらせて衰弱死する寸前よ!」
「な、何ということだ……! 聖獣の仔が死に瀕しておる……!」
オットーがパニックに陥りながら、腰のポーチから慌てて一本の小瓶を引き抜いた。
青白い光を放つ、王都製の「解熱修復ポーション」だ。
「ええい、神罰が下る前に息を吹き返させねば! これをお飲みなされ、聖獣様……!」
オットーはルナフェンリルの仔の口を無理やりこじ開け、その喉奥へと薬液を注ぎ込もうとした。
「あっ、オットー先生、やめ――!」
私の静止は間に合わなかった。
ポーションが舌に触れた、まさにその瞬間。
「――キャうんッッッ!!!!」
衰弱していたはずの聖獣の仔が、火のついたような悲鳴を上げて暴れ狂った。
手足を激しくバタつかせ、頭を激しく振って薬液を撒き散らす。
そして――ゴボッ、ゲホッ! と激しい嘔吐反射を起こし、胃液と混ざり合った白い泡を口から大量に吹き出して、雪の上に突っ伏してしまったのだ。
「ヒィッ!? 泡を……泡を吹いてしまわれたぁぁっ!?」
オットーが絶叫する。
仔獣は激しい呼吸困難を起こし、全身を痙攣させながら、恐怖に血走った金色の瞳でオットーを――そして人間たち全員を、激しく威嚇するように睨みつけた。
グルルル……と喉を鳴らすが、その声は掠れ、もはや自力で上体を起こす力すら残っていない。
「このままでは体力が持たんぞ……! 薬を飲まさねば死んでしまうのに、拒絶されてはどうにもならぬ……!」
「当たり前ですッ!!」
私の怒声が、静まり返った雪山に響き渡った。
私はオットーの手からポーション瓶を奪い取り、雪の上に叩きつけるように置いた。
「匂いを嗅いでみなさい! 強烈な魔力臭と、舌が痺れるほどの苦味! 動物の味覚と嗅覚は、人間の何十倍も敏感なのですよ! 自然界において『強烈な苦味』とは、すなわち『毒物』のシグナルです! 高熱で弱り切っている子どもに、そんな毒の塊のような味を無理やり喉に流し込んだら、本能的な防衛反射で吐き出すに決まっているでしょうが!」
「し、しかし、良薬口に苦しと申しますし……!」
「それは大人の勝手な言い訳です! 苦い薬を力ずくで流し込んで吐かせたら、薬効が得られないばかりか、激しい服薬トラウマを植え付け、二度と口を開かなくなります! 最悪の場合、吐瀉物が気管に入って窒息死するのよ!」
オットーが息を呑んで口を噤む。
前世の小児病棟でも、全く同じ光景を散々見てきた。
親が「飲まなきゃ治らないのよ!」と泣き叫ぶ子どもを押さえつけ、苦い抗生剤を無理やり流し込み、子どもが吐き戻して親子で絶望する――あの地獄絵図。
医療における最重要課題の一つ――「服薬アドヒアランス(コンプライアンス)の維持」。
どれほど優れた成分であっても、患者が安全に、拒絶感なく体内に取り込めなければ、それはただの無意味なゴミに過ぎないのだ。
「……バルツ! カイエン副団長!」
「お、おうっ! 何すりゃいい!?」
「指示を!」
「風下の岩陰に、即座に風よけのシートを張ってください! それから、携帯用の火打石と小型の銅鍋! 今すぐ湯を沸かします!」
「「了解ッ!!」」
二人の騎士が電光石火の連携で動き出した。
大剣で邪魔な枯れ枝を払い、防風マントを木々の間に結びつけて簡易の風よけシェルターを設営する。カイエンが火打石を手際よく打ち鳴らし、枯れ葉から火を起こして、雪を放り込んだ銅鍋を火にかけた。
その間に、私は調剤トランクから道具を展開した。
すり鉢、乳棒、精密メッシュの濾過布、そして先ほど採取したばかりの、新鮮な薬草と赤い果実。
(熱を下げ、気管支の炎症を鎮め、細菌の増殖を抑える……。キキョウ根類似の去痰ハーブと、オウゴン類似の解熱・抗炎症生薬、そして喉の痙攣を止めるカンゾウ……!)
乳鉢の中に、乾燥生薬の粉末を正確に計量して投入する。
ガリガリ、ガリガリとリズミカルに乳棒を回し、微細な粉末へと粉砕していく。
だが――このまま水に溶かせば、強烈なえぐみと苦味が残る。
そこで登場するのが、今しがた摘み取ったばかりの「赤い果実」だった。
「オットー先生、果実を潰して果汁を絞りなさい! 種は取り除くこと!」
「ハ、ハッ! 果汁絞りはお任せを!」
老侍医が必死の形相で果実を木ベラで擂り潰し、鮮やかな紅色の果汁を濾し取っていく。
私は沸騰した銅鍋の湯を少量、別の金属カップへと注ぎ、そこに果汁と、トランクに常備していた純度の高い天然蜂蜜をたっぷりと投入した。
「果実を加熱することで、細胞壁に含まれる高分子ペクチンが溶出します。そこに蜂蜜の糖分と、果実の有機酸が加わることで……水素結合による網目構造が形成される」
カップの中で、サラサラだった紅色の果汁が、スプーンの動きに合わせてトロリとした粘性を帯び始めた。
甘酸っぱい、ベリーの芳醇でみずみずしい香りが湯気とともに立ち上る。
「そして……ここへ、微細化した生薬粉末を投入します!」
私は生薬の粉を、とろみのついたベリー液の中へ一気に投入し、素早く攪拌した。
ここが、製剤学における最大の肝――「物理的マスキング(包接)技術」だ。
「ペクチンと糖類が形成する高粘度のゲルマトリックスが、生薬の苦味分子を物理的に包み込み、微小なカプセルのように閉じ込めます。これにより、舌の表面にある味蕾(苦味受容体)に薬の成分が直接接触するのを完全にブロックするのです! 口の中に入った瞬間に感じるのは、甘酸っぱい果実の味だけ! 喉を通った後、胃の中で初めてゲルが分解され、薬効成分が放出される……!」
さらに私は、雪山という環境を最大限に利用した。
金属カップを、周囲の清らかな新雪の中へとズボリと突き刺す。
ジュウウゥ……ッ!
急激な冷却。
ペクチンのゲル化が一気に進み、常温の液体から、ぷるぷるとした弾力を持つ半固形物――美しいルビー色の「特製・服薬補助ゼリー」が完成した。
「……できたわ!」
スプーンですくい上げると、ゼリーは落ちることなく、フルフルと艶やかに震えた。
喉に張り付かず、誤嚥のリスクを極限まで減らし、水なしでつるりと飲み込める理想的な剤形。
私はゼリーを乗せた銀のスプーンを手に取り、風よけのシートの下で、荒い息を吐いて蹲る聖獣の仔の前へと膝をついた。
「グルルル……ッ!」
近づく私に対し、仔獣は耳を伏せ、牙を剥いて威嚇の声を上げた。
全身の銀毛を逆立て、瞳には「またあの苦い毒を飲ませる気か」という怯えと敵意が剥き出しになっている。
「怖がらなくていいのよ……」
私はスプーンを無理やり口元へ突っ込むことはしなかった。
数歩手前でしゃがみ込み、スプーンを自分の口元に運んで、わざと美味しそうにフワリと香りを漂わせる。
そして、仔獣の鼻先から十センチほどの距離で、スプーンをそっと差し出した。
「ほら、見てごらんなさい。痛いことも、苦いこともしないわ。……甘くて、とっても美味しい木の実のおやつよ」
風に乗って、甘酸っぱいベリーの芳香と、蜂蜜の濃厚な香りが、仔獣の乾いた鼻腔をくすぐった。
ピクリ、と小さな二本の角が動く。
威嚇の唸り声が止まった。
仔獣は警戒を解かないまま、恐る恐る、ヒクヒクと黒い小さな鼻を動かした。
(毒の匂いが……しない……?)
先ほどの、吐き気を催すようなオゾンの悪臭も、舌を刺すような苦味の気配もない。
あるのは、森で一番甘く熟した果実の、抗いがたい魅力的な匂いだけ。
高熱と脱水で喉がカラカラに渇き、空腹で胃が縮み上がっていた赤ん坊にとって、それはあまりにも魅惑的な誘惑だった。
仔獣は前足をそろりと一歩前に出した。
そして、おっかなびっくり、銀のスプーンの上の赤いゼリーへと、ピンク色の小さな舌を伸ばした。
ペロリ。
ゼリーの先端を、ほんの一舐め。
その瞬間――。
仔獣の金色の瞳が、ボウル玉のようにまん丸に見開かれた。
「……ッ!?」
口いっぱいに広がる、冷たくてみずみずしい果実の甘み。
トロリとした滑らかな食感が、火事のように熱を持っていた口内を優しく冷やしていく。
美味しい。
苦くない。痛くない。飛び上がるほどに甘くて、爽やかで、美味しい――!
「きゅ……きゅぅぅんっ!」
仔獣の喉から、先ほどの威嚇が嘘のような、甘えた鳴き声が漏れ出た。
次の瞬間、仔獣は我慢しきれないといった様子でスプーンに突進すると――。
ちゅるるっ! ちゅるんっ!
小気味のいい音を立てて、スプーンいっぱいの服薬ゼリーを、一瞬にして貪るように吸い尽くしてしまったのだ。
「おおおおっ!? 食った! 全部吸い込みやがったぞ!!」
「信じられん……あんなに泡を吹いて拒絶していた薬を、自ら進んで……!」
バルツとオットーが抱き合って歓声を上げる。
仔獣は空になったスプーンを名残惜しそうに何度もペロペロと舐め回し、それから上目遣いで、私の手元にある金属カップを「もっとちょうだい」とばかりに見つめてきた。
「ふふ、よく噛まなくてもつるんと入るから楽だったでしょう? はい、もう一口だけどうぞ」
追加のスプーン一杯を差し出すと、仔獣は「ちゅるっ!」と音を立てて再び完食した。
合計二口。
小児・動物用の用量規定に照らし合わせても、完璧な有効投与量が、一滴の吐瀉もなく体内に収まった瞬間だった。
「よしよし……偉いわね。これで大丈夫よ」
私はそっと手を伸ばし、仔獣の耳の付け根を優しく撫でてやった。
今度は、威嚇されることはなかった。
仔獣は私の手のひらの温もりに目を細め、「くぅ……ん……」と喉の奥を小さく鳴らした。
薬効が現れるのは、驚くほど早かった。
胃の中でペクチンの網目構造が解かれ、急速に吸収された解熱・去痰生薬が、血液に乗って全身へと巡る。
張り詰めていた気管支の平滑筋がふわりと弛緩し、喉に詰まっていた粘液がサラサラと流れ落ちていく。
ゼリーに含まれていた水分とブドウ糖が、脱水で干からびかけていた細胞を潤し、熱暴走を起こしていた魔力回路を穏やかに鎮静化させていく。
数分もしないうちに、あの苦しげだった肩呼吸が、静かで規則的な寝息へと変わった。
乾ききっていた鼻先がしっとりと湿り気を帯び、赤黒く充血していた目元が穏やかに落ち着く。
仔獣は私の白衣の裾の上に丸まり、安心しきったように深い眠りへと落ちていった。
「……ふぅ。急性期は完全に脱したわね。あとは温かい場所で安静にしていれば、数時間で全快するはずよ」
私が息を吐くと、背後で見守っていたカイエンが、感嘆の息を漏らしながら歩み寄ってきた。
「……素晴らしい手腕だ、エレナ様。力ずくで押さえつけるのではなく、相手の性質を理解し、無理なく受け入れさせる……。これこそが、あなたの提唱する『医療の本質』なのだな」
「ええ。薬は戦いではありませんから。患者を苦しめる医療なんて、本末転倒です」
私たちは仔獣を毛布で丁寧にくるみ、バルツの背負い籠の中へと大切に寝かせた。
薬草の収穫も目標量を遥かに超え、私たちは大満足の足取りで、夕暮れの迫るハーディン城へと帰還したのだった。
◇
そして――城に戻ってから、わずか三時間が経過した頃。
新設された私の調剤室の床で、奇跡の瞬間が訪れた。
「きゅるるるっ!」
毛布の中から、銀色の閃光が飛び出した。
高熱などどこへやら、ピンと立った二本の小さな角、つぶらな金色の瞳、そして雪のようにふさふさとした見事な毛並み。
完全回復を遂げたルナフェンリルの仔が、部屋の中をピョンピョンと軽やかに飛び跳ねていたのだ。
「おおっ! 目を覚まされたか、聖獣様!」
部屋の隅で薬草の選別をしていたオットーが、手元のハーブを放り出して両手を広げた。
バルツも「よーしよし、美味い干し肉をやろうなー!」と相好を崩してしゃがみ込む。
だが――。
タタタッ! と床を蹴った銀色の毛玉は、大男たちの差し出した手を完全に無視して駆け抜けた。
そして、調剤机でカルテを整理していた私の足元へと一直線に飛び込んできたのだ。
「きゃっ!?」
飛びついてきた仔獣は、私の足首に前足を巻きつけ、すりすりと頬を擦り寄せてきた。
ゴロゴロゴロ……と、まるで猫が甘えるような重低音が、小さな身体から鳴り響く。
ペロペロと私の靴紐を舐め、それから私のエプロンの裾を口にくわえて、誇らしげに上目遣いで見つめてくる。
「きゅぅん! わふっ!」
「あ、あら……? すっかり元気になったのね」
私がしゃがみ込んで頭を撫でてやると、仔獣は目を細めて恍惚の表情を浮かべ、喉のゴロゴロ音をさらに爆音へと跳ね上げた。
完全に、刷り込み(インプリンティング)が完了していた。
命を救われ、甘くて美味しい魔法のゼリーをくれ、優しく頭を撫でてくれた私を、完全に自らの「最愛の親」――あるいは絶対の主として認識してしまったらしい。
「すげえ……あの気高い聖獣が、完全にエレナ様の足元に定住してやがる……」
「ぐぬぬ……儂の差し出した干し肉には見向きもせぬのに……師匠、流石でございます……!」
バルツとオットーが羨望の眼差しを向ける中、部屋の扉がノックされ、カイエンが顔を出した。
「エレナ様、閣下が執務室でお呼び――っと、これは……すでに全快したのか」
「ええ、見ての通りです。……ねえ、あなた、名前がないと不便ね。銀色の毛並みに、まん丸の瞳……『テオ』っていうのはどうかしら?」
「きゅるんっ! わふっ!」
テオと呼んだ瞬間、仔獣は嬉しそうにその場で一回転し、私の膝の上に飛び乗ってきた。気に入ってくれたようだ。
こうして、元臨床薬剤師エレナの足元に、帝国最強のモフモフ警護獣「テオ」が正式に仲間入りを果たしたのだった。
――だが。
この賢く愛らしい小さな相棒の恩返しは、単に甘えるだけでは終わらなかった。
「わふっ!」
突然、テオが私の膝から飛び降りた。
部屋の開け放たれていた窓枠へと軽やかに跳躍すると、私を振り返って「きゅぅん!」と一度鳴き、そのまま夜の闇へと飛び出して行ってしまったのだ。
「あっ、テオ!? どこへ行くの、まだ病み上がりなのに!」
私が慌てて窓へ駆け寄ったが、銀色の影は雪の庭を疾風のような速度で駆け抜け、城の裏山――先ほどの氷霧の森の奥深くへと消え去ってしまった。
「追うか、エレナ殿!?」
バルツが大剣を握り直す。
だが、待つことわずか十分後。
ザッ、と雪を踏む軽快な音が響き、窓枠の上に、銀色の小さな影が音もなく舞い戻ってきた。
テオだった。
誇らしげに胸を張り、ピンと尻尾を立てたその口元には――何かが大切そうに咥えられていた。
「テオ……? それ、何……?」
テオは私の膝の上へ飛び乗ると、咥えていたものを、ポトリと私の掌の上へと落とした。
その瞬間。
調剤室の薄暗いランプの光を吸い込んで、私の手の中で――青白く、息を呑むほどに美しく発光する「一輪の植物」が、静かに満月のような燐光を放ち始めたのだ。
「な……ッ!?」
私の固有スキル「成分鑑定」が、今までにないほどの激しい情報量の嵐を脳内に叩き込んできた。
不純物ゼロ。細胞賦活作用、極大。副作用、ゼロ。
王都の最高級ポーションがゴミ屑に見えるほどの、完璧な薬理活性。
「こ、これは……まさか……古文書にしか載っていなかった幻の国宝……!?」
オットーが絶句し、カイエンが眼鏡を取り落とした。
テオは自慢げに「わふん!」と鼻を鳴らし、私の指先に甘えるように頭を擦り寄せてくる。
王都の薬草院が血道を上げても決して手に入らなかった、世界を揺るがす「奇跡の薬草」が――小さな相棒の口から、私の手元へと届けられた瞬間だった。




