9. 一本手前
昼休みの教室で、汐見ゆきが凛の机の横に立っている。行き交う生徒のあいだで、その姿だけが取り残されたように見えた。
口を開きかけては、閉じる。もう一度、何かを言おうとして、鞄から出しかけた何かをまた奥へ押し戻す。迷いまでしまい込むような手つきのまま、彼女は廊下へ出ていく。
教室はざわついている。この距離では、誰の息も届かない。分かるのは、彼女が凛の顔を一度も見なかったことと、何かを鞄へ戻した手の甲に爪の跡が残っていたことだけだ。
凛は気づいている。気づいたうえで、廊下のほうを見ないまま弁当の蓋を閉める。二人の席は、通路を挟んで隣どうしだ。見ないふりをするには、近すぎる。
蓋の閉まる音は、思ったより硬かった。その硬さが何を押し込めたのか、この教室で分かるのはそこまでだ。
放送室の棚の前では、こだまが腕を組んでいる。小柄な体で通せんぼをするように、僕と出口のあいだへきっちり収まっている。
「センパイ。今日、音源の整理、手伝うって言ったよね?」
「言いました」
「じゃあ、なんで鞄持ってんの?」
「今日は無理です。すみません」
彼女は棚の段を一つ、僕を責める代わりのように指先で弾いた。埃が細く舞い上がり、蛍光灯の白い光を横切るあいだだけ姿を見せる。
「『すみません』だって。借り、三つめだから」
「三つで足りますか?」
「足りないから数えてるんじゃん」
「増えたら言ってください」
「言っても減らないじゃん、センパイの借り」
こだまは録音機の電源を入れて、切る。灯った表示が消える。また入れて、切る。言い足りないものが、せわしない指先にだけ残っている。
「センパイ、今日そわそわしてる」
「していません」
「ふうん。じゃあ、そういうことにしといてあげる。べーっ! だ」
返す当てのない借りが、棚の高さぶんまで積み上がっている。それでも僕は、今日も鞄を持って出ていく。今日はいつもより、肩にかかる重さがはっきり分かる。
この後輩は、僕が何をしているのか聞かない。聞かないでいてくれる人にこそ、僕はいちばん多く借りを作っている。そのやさしさに甘えていると分かるから、振り返るのが少しだけ怖い。
◇
「はい、今日の相談です! ――まっすぐ帰らないと家で怒られます。でも、もう少しだけ一緒にいたいです」
放課後の放送で、凛はその相談を読み上げる。声は今日も澄んでいて、原稿の端ひとつ揺れない。けれど読み上げられた言葉は、まるで僕たちのあいだを覗いて書かれたように近かった。
「これはね、遠回りしなくていい。同じ道を、一本手前で曲がればいい。それだけ!」
僕はマイクを倒す。胸の内で先に決まっていた答えが、考えるより早く口元まで上がってくる。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「……わたし、この答え、けっこう気に入ってる」
「僕もです」
「めずらしいね、感想」
卓の端の紙は、今日も伏せたままだ。書いてから読む人の癖は、九月のあいだに一度も崩れていない。裏側に隠れた文字だけが、僕たちの残り時間を知っているように見える。
「今日のを入れて、あと二十二件です。いいものは早めに言っておきます」
「数えないで」
「数えないと終わりません」
「終わらせる話……今日はしないで?」
◇
十七時。傾いた日の光を横に受け、いつもの道を、駅の一本手前で曲がる。
曲がった先は、僕も知らない道だった。塀の低い家が続き、庭の緑や窓辺が、いつもの道より近く見える。犬の声が二軒ぶん重なり、途中から道幅は自転車一台ぶんしかなくなる。
「これ、駅に着く?」
「たぶん着きます」
「たぶんなんだ」
角の家の犬が、柵の隙間から鼻先だけを出している。こちらへ向いた丸い鼻が、妙に真面目そうに見える。
「着かなければ、戻ればいいので」
「戻ると遅くなるよ。怒られるのは相談の人だけど」
「では、着くほうに賭けます」
「賭けるんだ、そこ」
夕方の匂いが違う。同じ町なのに、一本ずれただけで音の量が半分になる。どこかの家で換気扇が回り、別の家で夕飯の油が跳ねている。見えない暮らしの気配が、細い道の両側からにじんでくる。
塀の上にだけ薄い日差しが残り、道の底から先に暗くなっていく。歩く僕たちの足元はもう夜の色に近く、僕たちの影だけがまだ夕方を引きずっていた。
「ねえ、これ何の匂い?」
「金木犀では?」
「即答!」
「毎年、この時期にこの匂いがします」
彼女は塀のほうへ首を伸ばし、匂いの出どころを探している。少し背伸びまでして、葉の重なりを目でたどっている。
こういう顔を、放送室では見たことがない。台本のない道では、この人の動きは少しだけ大きくなる。僕の知らなかった彼女が、歩くたびに少しずつ見えてくる。
「ねえ。この道、明日も通る?」
「通ってもいいですが、九番はもう終わりました」
「……終わったら、通っちゃだめなの?」
「だめではありません」
この頃から、僕は彼女の答えを、相談の人の側からだけ聞いてはいない。言葉の裏に、彼女自身を探してしまう。一本手前で曲がったのも、たぶん半分は自分のためである。残りに名前をつけるのは、まだ少し早い。
塀の切れ目に差しかかったところで、彼女が足を止める。
点きはじめた街灯の下で、彼女は紙を広げる。淡い灯りの円に身を寄せ、ペンの尻を二回鳴らしてから、九番の行へ迷いなく線を引いた。引き終えると少し眺め、紙を裏返して灯りに透かす。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「裏から見ると、線だけ見えるね」
「そうですね」
透けているのは線だけで、項目の字は裏側まで届いていない。九本ぶんの短い棒が、淡い灯りの中に並ぶ。終わったものの印なのに、なぜかこれから続く道のようにも見える。
彼女は紙を持ったまま、僕のほうへ向く。街灯の明るさと暗がりの境目にいるせいで、その表情はいつもより読み取りにくい。
「三雲くんは、なんで受けたの?」
息が乱れた。台本のどこにも、この問いは書かれていない。用意していない言葉だけが、胸の内で行き場をなくす。
聞こえるのは、息だけだ。なぜ今日それを聞いたのかまでは分からない。
彼女はいま、台本にない場所に立っている。九十日のうちの二十五日目にして、あの日どうして受けたのかを、初めて自分から聞いてきた。
「……あの日、断ってよかったんだよ。誰も困らなかった」
「困る人が一人いました」
「誰?」
僕は答えない。答えないことにも息は要るので、たぶん向こうにも、隠しきれない迷いくらいは聞こえている。
「……そうやって、はぐらかすんだ」
「はい」
「ずるい」
「はい」
「そこで謝らないのも、ずるい」
道の先に、見覚えのある屋根がのぞく。着いた。一本手前でも、着くところは同じである。ほっとしたはずなのに、僕の歩幅はわずかに狭くなった。
同じ場所へ着くのに、来る道が違うだけで、こんなにも長くなる。長くなったぶんは、三十件のどこにも数えられない。
一番は今日も、遠回りではない道で果たされている。けれど僕の中には、まだ線を引けない何かが残っている。
◇
改札の手前では、蜷川が壁に背を預けて待っている。人の流れから少し外れた場所で、こちらを見つけるなり口元を上げた。
「なあ。月末の放送で言えよ」
「何をですか?」
「恋人ですって。みんなの前で。これ、書いたの俺だぜ」
「知っています」
彼は指を二本立て、それを僕の胸のあたりで得意げに振る。まるで、逃げ道を先に塞いだ印みたいだ。
「今度の火曜な。逃げんなよ」
「逃げません」
「即答すんなよ。ちょっとは嫌がるとかないの?」
「嫌がると、火曜が延びますか?」
「延びねえよ」
彼は日を指定し、指定できたことに満足して帰っていく。舞台を作っているのは、いつも彼のほうである。僕たちはその上へ押し出されるたび、降りる理由を少しずつ失っていく。
◇
その夜、校内ではもう賭けが始まっている。
駅と反対に歩いてた、らしい。道を間違えたんじゃないか。いや、わざとだろう。だったら、いつまで続くのか。来月まで、いや今月いっぱい。勝手な予想が人から人へ渡るうち、それはいつの間にか賭けへ姿を変えていた。
賭けている人たちは、どちらに賭けても損をしない。名前を書かずに賭けているからである。負けた側は、賭けたこと自体を忘れればいい。誰の気持ちにも触れず、結果だけを面白がれる場所にいる。
あと六十五日。教室はまだ、これを終わりのある遊びとして数えている。その数え方からこぼれていくものには、まだ誰も名前をつけないまま。




