8. 紙に残った答え
朝の箱には四通あった。どれも同じ白い紙なのに、指先は少し迷う。その中から一通を選んで、凛の机へ置く。机の縁ときちんと平行になるよう、そっと角を直した。
喉の奥が朝から熱を持っている。唾を飲むたび、薄い紙でこすられるように痛む。声を低いところで出せば、掠れは目立たない。少なくとも、そういうことにしておける。
六日前の雨で濡れたのは僕の右半分で、熱が出たのは今朝である。順番からいって、たぶんこれは払いのうちに入る。そう決めておけば、胸の奥の落ち着かなさにも名前がつく。
「センパイ、顔赤くない?」
「暖房です」
「暖房、だって。九月じゃん」
「では、日光です」
「窓、北向きだけど」
こだまは録音機の頭を僕の額へ近づける。ふざけているような手つきなのに、覗き込む目だけは妙に真剣だ。それから僕の返事を信じるのを諦めたように、録音機を引っこめる。
「熱、あるっしょ」
「ありません」
「ふうん。じゃあ、こだま、今日ずっとセンパイの近くにいるね」
「なぜですか?」
「なぜって、倒れる音、録りたいから。くふふふ」
熱があると、音の聞こえ方まで変わるらしい。輪郭がふやけて、遠い音と近い音が同じ厚みで耳へ入ってくるせいで、誰かの声に焦点を合わせるだけでも疲れる。今日は、離れたところの息までは拾えそうにない。
二限の途中で、視界の端にいた凛が席を立った。立ったというより、机に体を預けながら、どうにか膝を伸ばしたように見える。
机の角に手をついて、教科書を置いたまま、教室の後ろの扉から出ていく。呼び止めたいのに、喉の熱が蓋になって、僕の口は開かない。担任が廊下まで付き添い、戻ってくると、黒板の端に「早退」と書く。
白墨の粉が、書いた字の下へ薄く落ちる。教室の視線は、その二文字と空いた席のあいだを一度だけ往復し、すぐ教科書へ逃げた。僕だけが、空席から目を外せない。
六日前の雨で濡らしたのは、彼女の左の肩だけである。たったそれだけだと、自分に言い聞かせていた。けれど空いた席を前にすると、「だけ」という言葉がひどく薄情に見える。
考えるより先に、僕は自分の鞄を持って立ち上がる。背中に名前を呼ばれたが、返事の代わりに扉を閉めた。
授業中の廊下は静かで、上履きの音が両側の壁から返ってくる。窓から差す白い光の中を、僕の足音だけがまっすぐ進んだ。この校舎でこんなに堂々と音を立てて歩いたのは、たぶん初めてである。
昇降口で追いつくと、彼女は上履きのまま外を見ている。靴へ履き替える力まで、いったん置き忘れたような横顔だ。外の明るさがガラス越しに差しても、その顔から熱の色は消えていない。
「……なんで来たの?」
「一緒に帰ります」
「授業」
「二限です」
「そういう意味じゃない」
僕は校門を出て、駅までの十二分を彼女の速さで歩く。今日の彼女は遅い。合わせるほうは、速いより遅いほうが難しい。急かさないように気をつけるほど、自分が彼女ばかり見ていることに気づく。
半歩ぶん前へ出そうになるたび、靴の裏で速さを削る。熱のせいで足の裏の感覚が遠く、削りすぎては戻すのを繰り返している。それでも、隣を空けるよりはましだ。
「三雲くん、戻るんでしょ?」
「戻ります」
「じゃあ、これ、帰ったことになる?」
「なります」
改札で別れてから、彼女の背中が人の流れに隠れるまで見送った。来た道を一人で戻る。戻りは八分で済んでいる。走ったからである。
走ると、熱は喉から耳の裏へ移る。校門をくぐるころには、自分の心臓の音が世界でいちばん大きい音になっている。それが熱のせいだけではないことを、考えないようにした。
◇
昼の放送室の机に、紙が一枚残っている。誰もいない部屋で、その白さだけがやけに目へつく。
凛の字だ。今朝渡した相談への答えを、早退の前に書いていったらしい。具合が悪いのに、と胸が痛み、そのすぐあとに、書いてくれたのだと少しだけ温かくなる。どちらを先に感じるべきか分からない。
角の丸い、几帳面な字である。書き終えてから位置を直した跡があり、紙は机の縁ときちんと平行に置かれている。朝、僕が彼女の机で直した角度とよく似ていて、指先がそこに残っているように思えた。
「――休んだ人に、何を届ければいいですか?」
十六時三十分。僕は初めて読み手の席に座り、それを読み上げる。凛のいない椅子は、座面の広さまで違う気がする。
この席から見る放送室は、卓の側から見るのと別の部屋のようだ。マイクの向こうに人がいない。いつも僕が座っている場所が、今日は空いたままになっている。机を挟むだけの距離なのに、そこがひどく遠い。
噂は名を名乗らない。放送は、名乗ってから話す。
「……放送部の、三雲です。今日は代わりに読みます」
スピーカーから返ってくる自分の名前は、思っていたより低い。掠れは、たぶん誰にも分からない。そう思い込んで、凛なら置くはずの間を探す。
紙の答えは、こう書いてある。丸い字を目で追ううち、凛の考えまで預かっている気がして、自然と背筋が伸びる。
「何も届けなくていい。今日の授業で笑ったところを、ノートの隅に書いて渡せばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
放送室には誰もいないので、返事は返ってこない。聞こえるのは、息だけだ。自分の息が、机の板に当たって戻ってくる。
この一言は、これまで必ず誰かへ向けて言ってきた。誰もいない部屋で言うと、約束ではなく、ただの決意みたいな形をしている。それでも、届けたい相手の顔を思い浮かべれば、決意は少しだけ約束に近づく。
◇
十八時。部の名簿にある住所の前まで来ると、後ろから足音がついてくる。熱で頭がぼんやりしていても、その遠慮のない歩き方を間違えるはずがない。
「こだま、ここで待ってるから」
「なぜ来たんですか?」
「玄関の音、録りたいから」
「録るな」
「録るな、だって。じゃあ角で待つ」
彼女は本当に角で待っている。ときどき顔だけ出して、僕と玄関を見比べ、目が合いそうになるとまた引っこめる。からかいに来た顔のくせに、眉だけは心配そうに下がっている。
九月の十八時は、もう半分ほど暗い。空には昼の青がわずかに残り、家々の窓には柔らかな明かりが浮かんでいる。どこかの家から出汁の匂いが流れてきて、遠くで自転車のブレーキが鳴る。熱のせいなのか、匂いだけがやけにはっきり届き、急に自分がよその家の前に立っていることを意識する。
呼び鈴を押すと、部屋着の凛が出てきた。髪はひとつに結んでいない。いつもなら隠れている首筋が見えて、目をそらす理由を探すほうが遅れる。
「……見ないで」
「見ていません」
「見てるじゃん」
僕は言い訳の代わりに、鞄からノートを取り出して差し出す。熱で指先は頼りないのに、彼女へ渡すところだけは曲げたくなかった。
隅に書いたのは二行だけである。四限の物理でチョークが三回折れたこと。三回目に先生が「これは私のせいではありません」と言ったこと。書いているあいだはくだらないと思ったのに、ここまで運んでくると、妙に大事なことのように見える。
「……何これ?」
「今日の授業で笑ったところです」
彼女はノートの隅を見て、口を押さえる。堪えようとするほど目元がほどけ、それから肩が二回動く。笑ってくれたことに安心したのに、なぜか胸の奥がきゅっと痛む。
「ちょっと待って。今、笑うとこじゃない」
「笑うところです」
「熱あるんでしょ? なんで来るの?」
「熱はありません」
玄関の灯りの下で、彼女は僕の顔をまっすぐ見る。逃げ道を塞ぐような強い目なのに、その奥には責めるより先に心配がある。見られているだけで、隠していた熱が本当のものになる気がする。
橙色の光が、彼女の頬と僕の靴の先を同じ色に染めている。玄関先だけが、家の中と外のあいだに浮かぶ別の部屋みたいだ。帰るにも上がるにも中途半端な場所で、僕らはどちらにも動けずにいる。
「声、掠れてる」
「暖房です」
「……消せないじゃん、これ」
笑ったまま、彼女は目のふちを指の背で拭う。息が乱れる。泣く一歩手前の顔で笑う人を、僕は初めて見る。笑わせたかったはずなのに、その目ににじむものまで自分が触れてしまった気がして、嬉しさと怖さの置き場がなくなる。
熱で鈍った耳にも、三十センチの息は届く。笑うための息と、そうでない息が、同じところから続けて出てくる。嬉しいだけでも、つらいだけでもない、その混ざり方に言葉より先に胸を掴まれる。放送では絶対に鳴らない音である。
紙は靴箱の上に広げられる。ペンの尻が二回鳴り、彼女は体を斜めにしたまま線を引く。そのせいで、八本目の行の終わりだけが下へ落ちる。いつもなら整っている字の列に、その小さな傾きだけが熱のように残る。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
引き終えた紙を、彼女は両手で持って一度だけ眺める。玄関の灯りの下だと、八本ぶんの線は思っていたより短い。短いのに、その先へ進むには、ずいぶん長い距離が残っているように見える。
◇
十九時の駅前に、蜷川が立っている。照明の白さに浮かぶ顔は不機嫌そうで、けれど僕を見つけた瞬間、わずかに肩の力が抜ける。
「毎日って書いたのに、今日は帰ってないよな」
「一緒に帰りました。二限に、駅まで」
「は?」
「校門を出て、改札まで送りました」
彼は口を開けたまま、二秒ぶんくらい黙る。そのあいだに、怒る顔と呆れる顔が順番を争い、最後にはどちらも半端に残る。
「お前は戻ってきてんだろ」
「僕が帰るとは書いてありません」
彼は自分の写しを出し、一番の行を指でなぞりながら三回読み返す。八字しかないので、三回読んでも十秒で終わる。それでも、見落とした文字が急に現れないかと疑っているような目だ。
「……毎日、一緒に帰る。……くそ、書いてねえ」
「書いてありません」
「書くわけねえだろ、そんな細かいこと」
紙の上の八字は、書いた人のほうを向いていない。いったん離れた言葉は、書いた人のつもりより、書かれた形に従う。その冷たさに救われることもあるし、傷つくこともある。
「細かくしたのは蜷川です。三十件も書いたので」
「お前、熱でもあるのか? 顔赤いぞ」
「暖房です」
駅前の照明の下で、彼はしばらく僕の顔を見ている。怒鳴るためではなく、何かを確かめるような目だ。それから何か言いかけて、やめて、写しを畳んでポケットへ入れた。
畳み方が雑なので、角が合っていない。この人は、自分の書いた紙をあまり大事にしない。そう思ったのに、捨てずにポケットへしまったことだけが、妙に目に残る。
◇
その夜、噂が校門の外へ出た。教室の中だけで膨らんでいたものが、境目を越え、知らない誰かの目に触れ始める。
夕方、あの家の前に誰かいたらしい。制服だったらしい。表札の写真を撮った人がいるとかいないとか、そこまで来ると誰も本気にしない。それでも、話が校門の外へ出たのはこれが初めてである。事実は少ないのに、空いたところへ勝手な想像だけが入り込んでいく。
外へ出た話は、教室の窓を閉めても止まらない。誰も名前を言わないので、止めに行く先がない。形のないものほど、追いかけようとすると遠ざかる。
あと六十八日。数えているのは、もう教室の中の人間だけではない。数字の向こうにいる顔は、まだ見えないまま――。




