7. 手だけ
朝、相談箱の底に、相談とは呼びにくい紙が一枚、取り残されたように入っていた。
放送部やめれば、とだけ書いてある。紙にはいちど丸めた跡があり、書いた人は捨てようとして、やめたらしい。
角はやわらかく潰れ、広げようとすると紙がわずかに戻りたがる。書いて、丸めて、それから伸ばして入れた形である。捨てそこねた手の迷いだけが、細かな繊維の皺にしがみついている。
箱を空にするのは毎朝の僕の役目だ。だから、誰がいつ入れたのかは分からないままになる。分からないまま受け取るのが、この箱の作法である。
僕はその紙の皺をつぶさないように畳み、ポケットへ入れる。今日の一通は別に選び、凛の机の真ん中へ置いた。
紙は軽い。それなのに、歩くたび腿へ触れ、ここにいるとしつこく主張してくる。
昼休みの教室では、蜷川累が椅子を後ろ向きにし、背もたれを抱えるように座っている。
「でもさ、証拠ないじゃん」
彼は、誰に言うでもなく言葉を放る。相手を選ばないふりをして、聞いている者にはきちんと拾わせる。その言い方が、彼の使い慣れた武器である。
「毎日帰ってるって言われてもさ、見た奴が言ってるだけだろ。証拠がないなら嘘と同じだろ?」
「半分は正しいです」
「半分かよ」
僕は、鞄のなかで折れないようにしまった、昨日の放送の記録を思い出す。
「放送に出したものには日付が残ります。帰り道には何も残りません」
「じゃあ残せよ。写真でも撮ってさ」
「検討します」
「検討すんなよ、そこは即答しろよ」
残るのは、僕の袖に刻まれた皺と、彼女のボールペンの音くらいである。皺は指で押し戻せばほどけ、音は鳴ったそばから消えて、証拠になってはくれない。
聞こえるのは、息だけだ。ただし、この教室では何も聞こえない。声が壁で何度も跳ね返って、誰の息も原形をとどめない。
僕に分かるのは、彼が同じことを二度、誰にも向けずに言ったことと、そのあいだ椅子の背を指で叩きつづけていたことくらいである。何が心に引っかかっているのかまでは、まだ分からない。
◇
「はい、今日の相談! ――写真に写るのが苦手です。撮ろうと言われるたびに逃げてしまいます」
放課後の放送で、凛はその相談を読み上げる。声はいつもどおり明るく、きれいに平らだ。けれど、その向こうにある雨あがりの窓の光は、まだ細く揺れている。
雨は昼のうちに上がり、ガラスには水滴が通った細い道だけが残っている。差しこむ光は、その道を通るたび、頼りなく歪んで見える。
「じゃあね、顔を写さなくていい。手だけ写せばいい。それならいけると思う!」
凛が読み終えるのを待ち、僕はマイクをゆっくり倒す。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「……今日も今日なんだ」
「今日です」
卓の上で、彼女の指が原稿の角を二度そろえ直す。もう十分そろっているのに、指先だけがそこから離れたがらない。
「せめて明日にしない? 今日、前髪が変なの」
「顔は写りません」
「あ、そっか」
スマホを机の縁に立てかけ、画面をこちらへ向ける。時間を測る設定にして、ずれないよう角度を整えた。
「手だけ、ですね」
「うん。……並べるだけだよ」
「並べ方の指定はありますか?」
「ないよ。あるわけないでしょ、そんなの」
彼女の右手が、様子をうかがうように卓の上へ置かれる。僕は左手を、その横へそっと置いた。指一本ぶんの隙間が空いている。近いはずなのに、そこだけが妙に遠い。
卓の板は、下の機械の熱を抱いてぬるい。その上に載せた手は板より冷たい。けれど、隣の手を意識した途端、僕の手のひらだけが落ち着かないほど熱く思える。
「近すぎない?」
「離れると、二人に見えません」
「……理屈がいちいち通るのが腹立つ」
シャッターが鳴る直前、彼女の息がひとつぶんだけ乱れた。
嫌なのだろう、と僕は思う。顔を写さないと決めたのに、手だけでも嫌なのだ。そう考えておけば、それ以外の理由を探さずにすむ。
だから僕は、彼女ではなく、シャッターの音のほうへ耳を寄せる。聞いても中身の分からないものを抱えたまま歩くことには、もうずいぶん慣れている。
撮れた一枚には、卓の木目と、原稿の角と、手が二つだけ写っている。その細い隙間までくっきり残っているのに、それが誰の手かは分からない。
「……これ、わたしの手、大きくない?」
「近くにあるからです」
「そういう理屈はいらない」
「送ります。鳴海さんにだけ」
「……うん」
凛はペンの尻を二回鳴らし、七本目の線を引く。けれど、引いた途端、その行を手のひらで隠してしまう。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
隠したところだけ、紙は手のひらの熱を吸い、かすかに波打っている。
◇
放送室の外の廊下では、蜷川が紙の写しを広げ、窓から差す雨あがりの薄い光を背にして待っている。
「見せてみろよ、その写真」
「見せません」
「はあ? 撮ったんだろ。写真は証拠じゃん」
「証拠がないなら嘘と同じだと言ったのは蜷川です。では、僕の手も証拠になりません」
「なんだそれ」
彼の指が、写しの上でいったん止まる。紙を押さえる指先だけが、次の言葉を決めかねているように見えた。
「顔の写っていない手は、誰の手でもありません。蜷川の手かもしれない」
「俺の手はもっと綺麗だわ」
「では、写真は要りませんね」
蜷川は写しを目の高さまで上げ、七番の行を指の腹でゆっくりなぞる。窓の光に紙が透け、裏の行の字まで淡く浮かぶ。
「……手だけって書いてねえよ、俺」
「顔を写せとも書いていません」
「そういうとこだよ、お前の嫌なところ」
彼は笑い、その笑いを顔に貼りつけたまま、廊下の先へ歩いていく。夕方の光を横切る背中はやけに速い。その速さだけで、今夜どんな話が回るかはだいたい分かる。
写真を出せば、噂は半分になる。出さないぶんは僕が持つ。彼女の手元まで届かずに済むなら、それだけの引き受け方は、まだ安いほうだ。
歩き出すと、ポケットの紙が腿に触れ、一度だけ音を立てた。今朝から入れたままの、相談ではないほうの紙である。
◇
帰り道、信号の赤に足を止めると、彼女が鞄からスマホを取り出した。
画面の淡い光が、横顔の下半分だけを照らしている。指が二回すばやく動き、その光は何事もなかったように消える。
送った一枚を、彼女は自分のスマホへ保存したらしい。嫌だったはずの写真が、僕の知らない場所で、彼女だけのものになる。
「……何?」
「何も」
「今、見てたでしょ?」
信号はまだ変わらない。向かいの店の看板に灯が入り、その色が濡れた路面の上へ長く伸びている。
「信号を見ていました」
「赤だけど」
「はい」
「嘘つき」
嫌がっていた人が、同じ一枚を手元へ置いている。その小さな矛盾にどんな気持ちが挟まっているのか、僕の耳はそこまでは教えてくれない。
十七時四十分、駅の改札。歩く速さは今日もそろっていた。
◇
その夜、校内の話は逆へ戻りはじめる。
顔が写ってないなら誰でもいい、らしい。手なんか誰の手だか分からない、らしい。やっぱり全部つくりものだったんじゃないか――そう言い直す声のほうが、今日は数を増やしている。
増えた話のどれにも、持ち主の名前は付いていない。名前が付いていないから、言い直しても誰も間違いを引き受けず、恥もかかない。
同じ夜、写真が苦手だと箱へ書いた一年生が、部誌の集合写真の隅に手だけ写ることを承知した。その小さな返事を知っているのは、放送室の中の人間だけである。
あと七十二日。教室はまだ、これを言い直せる遊びとして数えている。




