6. 濡れるほう
九月十六日は、朝から灰色の雨に包まれていた。
昇降口の傘立ては、晴れの日とは別の楽器になる。ビニール同士がこすれる音、傘の先が濡れた床を叩く音、水を払うために振られる傘の音。そのぜんぶの底へ、人の息が重たく沈んでいる。
雨の日は、外の音がひと皮ぶん薄くなる。車も、グラウンドも、遠くの部活の声も、屋根と傘布の向こうへ引っこんでしまう。世界が狭くなったぶん、すぐ近くの音だけが、妙なくらい輪郭を持つ。
聞こえるのは、息だけだ。誰が雨を嫌がっているのかまでは分からない。
先週の金曜のあと、土曜と日曜と敬老の日が続いた。二人とも学校に居ない日は、一行目の対象にならない。そう決めておかないと、休みまで数えたくなる。休みを三つ挟んだので、一行目の続きは今日からになる。
傘立てに挿した僕の傘は、去年から使っている黒い一本である。柄の内側は塗装が剥げていて、握るたび、指の腹にざらつく木の地が触れる。
その傘は一本しかない。折り畳みのほうは去年の秋に壊れたきり、机の引き出しの奥で眠っている。
◇
昼、購買の列で、すぐ前に並んでいる誰かが言った。
「最後の一個もらい!」
見れば同じパンは、棚の奥にまだ三つ残っている。その人の息が、言葉からわずかに遅れて、そこで乱れる。
どうでもいい嘘ほど、よく鳴る。誰も損をしない嘘だから、僕は黙ったまま並んでいる。
湿った制服と、揚げ物の油と、甘いパンの匂いが、列の上でぬるく混ざり合う。雨の日の購買は人が多い。そのぶん、拾えるのはすぐ前の息だけである。
人の肩の隙間から、伊吹こだまが録音機をずいと突き出してきた。
「今の、録れてる?」
「録るな」
「録るな、だって。センパイ、今の人の話つまんなかったっしょ」
「面白くはありません」
こだまはにやつきながら録音機を引き、今度は僕の口元へ寄せてくる。マイクの頭についた風防が、雨を含んだ前髪の先へ触れそうだ。
「即答じゃん。ねえ、なんで最後の一個って言ったんだと思う?」
「言いたかったからでは」
「うわー、答えになってなーい。べーっだ」
最後の一個だと言えば、ただのパンも少しだけおいしくなる。たぶん、それだけの話である。
嘘の中身が分からなくても、誰も困らない嘘はある。僕の耳が一日に拾うものは、ほとんどがこの種類だ。
◇
「はい、今日の相談です! ――相合傘が恥ずかしくて、どうしても無理です。傘はこっちが持っているのに、入って、と言えません」
放課後の放送で、凛はその相談を、いつもの明るさで読み上げる。雨の音まで拾わないよう、窓はきっちり閉めてある。
閉め切った放送室は、廊下より二度ぶん暖かい。機械の熱に、湿った上履きの匂い。ガラスの内側には、薄い曇りが浮いている。窓の向こうでは雨脚だけが動き続け、音はここまで届かない。
凛の声は今日も澄んでいる。明るく弾む調子も、卓の針の上では迷いのない一本の線になる。答えを書いた紙は、いつもどおり卓の端に伏せてある。
「うーん、これはね。くっつかなくていい。濡れるほうに立てばいい。……はい、こんな感じでどうかな!」
卓の赤いランプは点いたままである。僕は自分のマイクを倒す。この一言だけを校内へ流し、言い終えてすぐ、指でフェーダーを落とす。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「……今日?」
「今日じゃないと、雨が終わります」
「終わってほしいけどね、雨」
「終わると、六番目が来年になります」
彼女は原稿の角をきっちりそろえる。すぐには顔を上げず、それから小さく息を吸う。
「……傘、持ってる?」
「一本です」
「わたしも一本」
「二本あると、六番になりません」
窓の外で、雨脚が一段だけ強くなる。ガラスに当たる粒の間隔が詰まり、灰色の膜が一枚ぶん厚くなったように見える。
「置いてけってこと?」
「置いていくと濡れます。持って、差さないでください」
「それ、いちばん馬鹿みたいじゃない?」
馬鹿みたいではある。それでも、六番目にはそう書いてある。彼女は卓の紙を裏返さないまま、鞄の持ち手をきゅっと握り直す。ためらいまで一緒につかんでいるように見える。
◇
十七時の校門は、降り続く雨を吸い、いつもより色を濃くしている。
濡れたアスファルトの匂いが立ちのぼる。夏じゅう焼かれ続けた道が、水をかけられ、ようやく溜めていた息を吐いているような匂いだ。
僕が傘を開くと、こだまは録音機を頭の上に高く構え、弾む足取りで追いかけてくる。
「雨の音、いる?」
「要りません」
「要りません、だって。じゃあ勝手に録る」
「勝手に録らないでください」
「やぁだ! 勝手に録りまーす」
彼女は横断歩道の手前でぴたりと足を止め、雨に負けまいとするように、遠くから声を張った。
「濡れネズミセンパイ!」
「……まだ濡れていません」
「これから濡れるっしょ。きゃははは」
その予言は当たっている。傘は一本。開いた幅は、一人ぶんと少ししかない。
僕は右の肩を傘の外へ出して歩く。濡れるほうに立てと答えたのは鳴海さんだ。なら、傘を持っている僕が雨の側へ出るのが順番だろう。
布を通らない雨が、右の肩から袖へ、冷たさを渡すように降りてくる。冷たいのは最初の三歩だけだ。そのあとは制服が体温を吸い、ぬるくなった水が肘のところへ溜まっていく。
傘の下では、雨そのものが屋根になり、外の音を全部弾いてしまう。この狭い内側にいるあいだ、僕へ届くのは彼女の息だけになる。
二メートルどころではない。三十センチだ。こんなに近くで誰かの息を聞いた覚えは、たぶん一度も無い。近いと意識しただけで、傘の柄を握る指が妙に固くなる。
「歩きにくくない?」
「歩きにくいです」
「……正直だね」
「正直でないと、傘が当たります」
三分ほど、二人とも黙って歩く。傘布を叩く雨が、二人ぶんの足音へ重なっている。沈黙を埋めてくれるはずなのに、隣の近さばかりが、かえって意識に残る。
信号のところで、彼女の指が柄の下のほうへそっと伸びてくる。僕の手より一つぶん下を握り、そのまま静かに力を掛ける。触れていないはずの指先まで、柄越しに意識してしまう。
傘布が僕の側へ傾き、その端からこぼれた雨の線が、彼女の左の肩へ落ちはじめる。
「鳴海さん。傾いてます」
「傾けてるの」
「濡れます」
「だって、そっちがもう濡れてるから」
その声のうしろで、息がひとつぶん乱れる。原稿には無い音だ。たったそれだけで、傘の内側がさっきより狭くなった気がする。
「答えたのは鳴海さんです」
「……そうだけど。あの答えを書いたのはわたしで、六番目を書いたのは蜷川くんで、濡れてるのは三雲くんだよ」
「三人とも、自分のせいで損しています」
「うまいこと言わないで」
傘の柄は、そのあとも僕の側へ傾いたままだ。右肩の布が重くなる速さで、傾きの角度がだいたい分かる。
この人は、放送で言った一行のぶんを、自分の肩で払おうとする。寝ないで卵焼きを焼いた朝も、たぶん同じことをしていた。誰かを濡らしたまま、自分だけ乾いてはいられない人なのだ。
駅の屋根の下で傘を畳む。右の袖から水が落ち、コンクリートに黒い点が三つ、少しずつ間を置いて増えていく。
凛は鞄からあの紙を取り出す。ボールペンの尻を二回鳴らしてから、『相合傘で帰る』の文字へ静かにペン先を下ろす。湿った紙にインクがにじみ、線の端だけが、迷ったように太くふくらむ。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
左の肩だけを濡らした人が、濡れていないほうの手で、その線をゆっくり引いている。僕には、それがただの終わりの印には見えない。
「……今日の、けっこう恥ずかしかった」
「相談の人も、そう書いていました」
「そうじゃなくて」
「では、なんですか?」
彼女は何かを言い直そうと唇を開き、けれど、やめる。
「……明日、晴れるといいね」
改札の音が二人ぶん続けて鳴り、僕たちは上りと下りへ分かれた。
濡れた袖は、電車の中でゆっくり冷えていく。冷えるにつれて、さっきまで彼女と分け合っていた雨の重さだけが、右肩の上へはっきり浮かび上がる。
一行目は今日も、雨のぶんだけ重たく果たされている。線を引かれたはずなのに、その一行だけが肩から離れない。
◇
その夜、校内では、やっぱり雨の話が広がっている。
片方だけびしょ濡れで歩いてた、らしい。傘は一本だったらしい。入れてもらっていたほうは、肩さえ濡らしていなかったらしい。
かわいそうだと言う側の声が、今日はほんの少しだけ多い。同情する人の顔は、笑っている人の顔よりやさしく見える。それでも、どちらも名前を出さない。名前の付いていない同情は、誰の家の玄関にも届かない。
あと七十四日。傘の下で濡れていたほうの肩の話をする人は、まだ一人もいない。




