5. 一つだけ増やす
九月十一日。朝の教室は、始業の鐘を待てずにざわめいている。
鳴海凛の机のまわりには人の輪ができ、入れ替わるたび、おめでとうの声が重なっていく。
「凛、今年は何がほしい?」
「なんにも。ほんとに、なんにも」
「毎年それじゃん」
「毎年ほしくないから、毎年それなの」
汐見ゆきは笑いながら、机の角を指先でこすり続けている。弾む声とは裏腹に、その指だけが細かな往復をやめない。
この人だかりの中では、僕の耳など何の役にも立たない。誰の息も、椅子の脚が床を引っかく音と、上履きの擦れる音と、笑い声に押し潰され、ここまで届かない。
分かるのは、彼女が一人ずつに、まるで順番を決めていたような角度で笑い返していること。それから、膝の上の包みを、朝からずっと開けていないことだけである。
◇
朝八時前の放送室は、夜の冷たさを机に残している。箱を空にし、今日の一通を選ぶ。五番と噛み合うのは、祝われたくない人の話だ。
それから、棚の下に押し込まれた古い記録の束を、両手で引き上げる。
紙の背は日に灼け、指でつまむたび、乾いた埃が粉のようにこぼれる。二晩ぶんの寝不足で、蛍光灯の白い光が目の奥に刺さる。
「センパイ、目が死んでる」
「二晩かかりました」
「二晩かかりました、だって。何やってたの?」
「一年の春の放送を、全部聞き返してました」
伊吹こだまが、束の背に並ぶ日付を、指の腹でゆっくりなぞる。
「これ、こだまの棚だよ。勝手に漁った?」
「勝手に漁りました。すみません」
「……素直に言われると怒れないじゃん」
「怒っていいですよ」
「怒っていいですよ、だって! ずるい言い方!」
こだまは束の一本を抜き取り、背の日付を僕の目の前へ差し出す。
「去年の四月じゃん。……あ、わかった。センパイ、この日じゃなきゃだめなんでしょ?」
「日付は関係ありません」
「うそだ。顔に出てる」
「出ません」
彼女は口を尖らせたまま、それでも棚の残りを抱えて引っぱり出してくれる。白い埃が、制服の袖に薄く残る。借りが一つ増える。
目当ての一本は、四月の帰りの放送に紛れていた。曲名も、選んだ人の名も、記録の隅で鉛筆の細い字になっている。
鉛筆の字は、紙の色に溶けそうなほど薄い。それでも消えてはいない。人が消さずに置いたものは、誰にも見えない場所で、こうして残る。
◇
「――祝われたくない人を、どう祝えばいいですか?」
放課後の放送で、凛はその相談を読み上げる。窓のない放送室には、機械の低い熱と、卓ひとつぶんの距離しかない。ここなら、彼女の息は、声になる前の揺れまでこちらへ届く。
今日も澄んでいる。いつもの跳ねだけが半分に落ちていて、朝から何十回もおめでとうを言われた人の声には、どこにも凹凸がない。聞こえるのは、息だけだ。
「祝わなくていい。いつもどおりにして、一つだけ増やせばいい」
答えを書いた紙は、いつもどおり卓の端に伏せてある。端が空調の風にかすかに震えている。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「今日のは、わたしがやる側じゃないと思うけど」
「はい。今日は僕がやります」
彼女の目が、光を絞るようにほんの少しだけ細くなる。
「……何を増やすの?」
「一つです」
「答えになってないわよ」
「答えは鳴海さんが放送で言いました。僕は増やすだけです」
放送の終わりには、いつも同じ順番がある。今日の予定を読み、明日の予定を読む。それから曲を一本かければ、校舎の午後は終わる。
僕はその終わりの後ろへ、もう一本だけ、音を足す。
スピーカーからこぼれたのは、去年の春からしばらく、毎日この校舎を満たしていた帰りの曲だ。
イントロは、少し音の割れたピアノで始まる。古い音源のかすかなノイズまで、当時のまま、廊下や階段へ染み出していく。
凛の指から力が抜け、原稿が膝へ向かってゆっくり下りていく。
「……なんで、その曲」
息が、そこで小さくつまずいた。朝から平らだった声に落ちた、今日はじめての一点である。
「一年の春に、鳴海さんが選んだ曲だと記録にありました」
「……」
「一つだけ増やす、と答えたのは鳴海さんです」
彼女は何も言わない。曲の一番が終わるまで、卓の向こうで背筋をまっすぐにしたまま座っている。重ねた指先だけが、膝の上で原稿の端をそっと押さえていた。
照明の白を受け、目のふちに薄い水の膜が光る。まだ、頬へはこぼれない。泣く一歩手前の顔を崩さないまま、彼女は背もたれにも触れず、きちんと座っている。
僕は卓の針だけを見る。ここで顔を上げれば、この人は濡れた光をしまい、いつもの顔をきれいに作り直す。そんなことをさせるくらいなら、針の細かな震えを追っているほうがいい。
夏に放送の当番が替わる。曲はいつのまにか別のものになり、それきり誰も戻さなかった。
選んだ人だけが、たぶん、消えたあとの静けさをずっと聞いている。
曲が終わる。凛はマイクへ向き直り、原稿の端をそろえる。いつもどおりの声で、締めの一言を読み上げた。
◇
「いいねえ。今のは番組だったねえ」
都築先輩が扉のところで、わざと大きな音を立てて拍手している。三年で、うちの部長。放送の中身には口を出さない主義を、いつも楽しそうに掲げている人だ。
「口を出さない主義では」
「今のは口出しじゃなくて感想」
「同じでは」
「褒めるのは口出しじゃないよ。褒めるのは番組の一部でしょ」
「そうかも……しれませんね」
廊下の先で、こだまが「三十件です」と一人で繰り返している。僕の声を真似ているらしい。三度目からは妙な節までついて、白い壁に跳ね返ってきた。
凛は鞄からあの紙を取り出す。ボールペンの尻を二回、乾いた音で鳴らしてから、五本目の線を引く。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
五本目の線は、途中でいちど止まる。紙をこする音が途切れ、それから、端までまっすぐ引かれている。
「三雲くんは、どこまでやるの?」
「三十件です」
「……そうじゃなくて」
彼女はそこで言葉を切る。唇が開きかけ、音を持たないまま閉じる。鞄の持ち手を握り直した指の先が、革へ白く沈んでいる。
「なんで、そこまでするの?」
僕は歩幅を半歩ぶんだけ詰める。靴底の音が、彼女の足音に重なる。今日も同じ速さで帰るための、いつもの調整だ。
「言うほどのことじゃないので」
「またそれ」
街灯が一つ、僕たちのすぐ前で、かすかな音を立てて灯る。虫が二匹、白い光の下で、離れも近づきもせず同じ高さを回っている。
「言えば、鳴海さんが答えないといけなくなるので」
「……そういうの、卑怯だと思う」
「はい」
「認めるんだ」
「認めます。でも、やめません」
そのあと僕たちは、靴音をずらさないまま、同じ速さで駅まで歩く。一行目の約束は、折り目の奥で今日も消えずにいる。
十二分のあいだ、彼女は一度だけ小さく鼻をすすった。かすかな音は、並んだ靴音の隙間へすぐ消える。風邪ですか、と聞かないくらいの分別なら、さすがに僕にもある。
九月の夜気は、昼の熱をまだ半分しか手放していない。歩くたび、その残りが制服の肩にまとわりつき、僕たちのあいだでゆっくり揺れる。
◇
その夜、校内を巡る話は、いつもより少しだけ声をひそめている。
あの曲、去年の帰りの曲だったよな。夏までかかってたやつだ。誰が止めたんだっけ。誰が選んだんだっけ。
思い出そうとしても、名前までたどり着く人はいない。噂は、覚えていないことの前では、急に口をつぐむ。
笑い声は、今夜、どの窓からもこぼれない。
あと七十九日。教室はまだ数を数えている。ただし今夜は、誰も声を出さないまま、暗い窓の向こうで数えている。




