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4. 袖

 昼休みの階段の踊り場は、上から足音、下から笑い声が流れ込み、白い壁のあいだでぶつかり合う場所だ。だから内緒話には向かない。


 蜷川累はそこで待っている。壁に背を預け、スマホを胸の高さに構えたまま、画面には目も落とさない。


「三雲。もう降りろよ」


「降りません」


「十分面白かっただろ。ここらで振らせて、めでたしでいいじゃん。俺だってさ、鳴海を吊るしたいわけじゃないんだよ」


「知ってます」


「じゃあ何が不満なんだよ?」


 僕は片手を上げ、順に指を折って数える。


「不満はありません。三十件のうち、まだ二十七件残っているだけです」


 彼の口元がゆるむ。笑いを貼りつけたまま、声だけがわずかに低くなる。


「なあ三雲。みんな演じてるだろ。お前のそれだって、いい人の演技じゃないのか?」


 その言い分には三割ぶんの正しさがある。教室に浮かぶ笑い声も、僕へプリントを渡すときだけ慎重になる指先も、たいていは何かを演じている。


 ただ、彼の息はそこで一度つまずいた。何につまずいたのかまでは分からない。聞こえるのは、息だけだ。


「演技でも、やった約束は残ります」


「……ほんと、可愛くねえな」


 彼はスマホをポケットへ滑り落とす。制服の布に硬い輪郭が浮き、それから思いついたように顔を上げる。


「なあ。お前さ、鳴海のこと好きなの?」


「三十件を果たすだけです」


「答えになってねえよ」


 階段の下で、女子が一人、手すり越しにこちらを見上げている。汐見ゆき。凛といつも一緒にいる子だ。


 目が合った途端、彼女は目を落とす。そのまま踊り場へは上がらず、来た廊下を引き返していく。


 遠ざかる足音は、こちらへ来たときより細かく、速い。息の乱れまでは、この距離だと届かない。


      ◇


 凛と一緒に中庭へ行くと、ベンチに先客がいる。


 蜷川といつも一緒にいる連中が四人、二人ぶんの幅しかないベンチへ、肩と膝を無理やり押し込んでいる。うちのクラスで、いつも後ろのほうに固まる面々だ。誰も僕を見ない。視線を外したまま、そこを空ける気がないことだけは、肩と膝の隙間のなさで伝えてくる。


「……いいよ、あっち行こ」


 凛が先に歩き出す。僕たちは渡り廊下の端に並んで立ち、柱のそばで昼を食べる。


 風が抜けるたび、パンの袋が手の中でかさかさと鳴りやまない。立ったまま飲みこむと、乾いたパンが喉を通る音まで骨を伝って自分の耳へ戻ってくる。


 五日前、この人はあのベンチに座る前、二歩手前で足を止めている。その二歩ぶんの余白が、今日から無い。


 約束にこだわったのは僕だ。これは僕が払ったぶんである。取り戻す理由はない。ただ、あの半拍の乱れをもう一度聞く機会が減ったぶん、口の中のパンが少し乾いている。


       ◇


「はい、今日の相談です! ――人混みではぐれるのが怖いのに、手をつなぐきっかけがありません」


 放課後の放送で、凛はその相談を読み上げる。スピーカーに乗る声は今日も平らで、紙の上を滑るように揺れない。


「これはね、つながなくていい。袖を持てばいい。うん、それでいこう!」


 僕はマイクを倒す。台座が机を擦り、乾いた音を立てる。


「じゃあ、それ、やりましょう」


「え、今日?」


「駅前が、いちばん混む時間なので」


「……なんで、そういうところだけ準備がいいの?」


「準備はしていません。混むのは毎日です」


 彼女は何か言いかけて唇を閉じる。代わりに原稿の角を指先でそろえ、紙の端で机を小さく鳴らす。


「……手をつなぐって書いたの、彼……だよね?」


「そうです」


「じゃあ、袖でいいのかな?」


「決めるのは、線を引く人です」


       ◇


 十七時の駅前は、人と自転車と傘立てが互いの進路を塞ぎ、まともに動けない。


 改札の白い照明。券売機の電子音。どこかの店から漏れる、焼けた砂糖の甘い匂い。人の多い場所は、いくつもの音を塗り重ねた壁のようなものだ。二メートルより先の声は、どうせ輪郭を失う。全部が混ざって意味をなくすので、こういう場所は僕にとって、むしろ静かな部類に入る。


 改札へ押し流される人波の中で、彼女の指が僕の左の袖をつまむ。人差し指と親指だけ。今にもほどけそうな、たよりない持ち方だ。


 背中を押されるたび、袖越しの指先に力がこもる。彼女は前を向いたまま、僕のほうを一度も見ない。


 やがて人の波が途切れ、肩のまわりに空気が戻る。通路が急に広くなる。


 それでも、指は離れない。


 三歩、四歩。袖を引く重みは、まだそこにある。五歩目で、彼女はようやく自分の指へ目を落とす。


「……あ」


 指が弾かれたように離れる。布が腕へ戻ったあと、息がひとつぶん、細く乱れる。


「もう、大丈夫だから」


「はい」


「もう混んでないから」


「はい」


「……はい、ばっかり」


 人混みを抜けてから改札までは、十歩ぶんもない。それでも僕たちは、その十歩を同じ速さで歩く。袖はもう引かれていないのに、靴音の間は広がらない。一行目は今日も果たされたことになる。


「……ねえ。今の、袖だったよね?」


「袖でした」


「手じゃないよね?」


「手ではないです」


 袖の布には、指の形をなぞる皺が残っている。指先で押し戻せば消える程度の、浅い皺だ。


 僕はその皺を伸ばさないまま、鞄を持ち替える。人の体温が布に残る時間は、思っていたより短い。皺を見つめているあいだに、ぬくもりはもう自分の腕の熱へ紛れ、どちらのものか分からなくなっていく。


 凛は鞄からあの紙を取り出す。ボールペンの尻を二回、こつ、こつと鳴らしてから、四行目へ線を引く。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 引き終えても、彼女は誰にも確かめない。紙の角と角をぴたりと重ねる指は、途中で止まらない。


 改札の音が、二人ぶん続けて鳴る。重なった余韻が消える前に、彼女は反対側の階段へ向かい、そのまま降りていく。上りと下りでは乗るホームが違う。


       ◇


 ホームの端で、蜷川が紙の写しを広げて待っている。改札からここまで、紙の上に出た目だけがずっとこちらを追っていたらしい。


「袖って、手をつないだうちに入るのか?」


「入りません」


「だよな」


 彼は写しを、指の腹でこつりと叩く。薄い紙が小さくたわむ。


「入りませんが、四番は〈手をつなぐ〉です。つないだのは袖と指で、僕の手ではない。だから鳴海さんはあの線を、自分で判断して引きました」


「……お前、なんでそんな嬉しそうなんだよ?」


 自分の口元は見えない。頬に触れてみても、いつもとの違いは分からない。


 ただ、あの人が誰にも聞かずに線を引いた。紙を擦ったあの音だけが、今日のどの音より近くに残っている。九十日のうち八日目。初めて、彼女の指が誰かの答えを待たずに動いた。


 電車が滑り込んできて、押し出された風がホームの端を走り抜ける。制服の袖も、蜷川の写しも激しく鳴る。その中でも、僕の耳にはさっき紙へ線を引いた音が細く残っている。


「嬉しそうですか?」


「うわ、自覚ないのが最悪だな。……じゃあ次は何が残ってんの?」


「五番、誕生日を祝う、です」


 蜷川の指が、写しの上で止まる。ホームを渡る風が、紙の端だけを細かく揺らす。


「……あー。それ、俺が書いたやつのなかで、いちばん性格の悪いところなんだよな」


「それは、初耳です」


「あいつ、誕生日の話になると逃げるんだよ。昔から」


 昔から、と彼は言った。電車の音にさらわれかけたその四文字を、僕は折らずに、そのまま覚えておくことにする。


       ◇


 その日、校内のあちこちで、袖をどう数えるかという判定でもめている。


「袖ってなんだよ」


 入ると言う側は、離さなかった時間が長すぎると言う。入らないと言う側は、そもそも本人が離したと言い返す。


 どちらの側も、名前を出さないまま声だけを重ねる。判定を下す者はいない。だからどちらの説も減らず、廊下を渡るたび、尾ひれだけが増えていく。


 そして、ふくらんだ話のどれにも、二人の名前は入っていない。入っているのは袖と、指と、離れるまでの歩数だけだ。


 あと八十二日。教室はまだ、これを判定の難しい遊びとして数えている。名前のない笑い声だけが、机のあいだを軽く跳ねている。

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