↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/30

3. 間違えたふり

 教室のあちこちで、同じ数を数えている連中がいる。


 鳴海凛が僕を呼ぶ回数だ。四時間目までで六回。そのうち五回が「三雲くん」で、一回は「ねえ」だった。名字で呼ぶたび、後ろの席で誰かが机の陰に手を隠し、小さく指を折る。


 噂を信じているから、あいつらは数えられる。信じていない人間は、誰かの声を見世物みたいに指へ移したりしない。


 僕は数えない。数えても意味がないからだ。何を思って呼んでいるかまでは、僕には届かない。聞こえるのは、息だけだ。


 窓の外では、朝から同じ色の雲が校舎の上に貼りついている。教室の照明だけが乾いた白さで、昼なのに机の木目も、鉛筆でこすれた跡も、くっきり浮いている。


       ◇


「今日のはね、けっこう難しいと思う」


 放送室で、凛は紙から目を上げないままそう言った。答えを書く前の彼女は、ときどき独り言を机の上へ落とす。拾ってほしいのか、聞かなかったことにしてほしいのか、声だけでは分からない。


「難しいほうが、話は進みます」


「進めなくていいんだけど」


「進めないと、九十日で終わりません」


「……三雲くんって、そういうとこ、ほんとうに」


 言いかけた唇が、途中で閉じる。彼女は目を伏せたまま、原稿の角を二度そろえ直した。白い角がきっちり重なっても、指先はしばらく離れない。


 紙の角が机を擦る音は、この部屋でいちばん小さい音のひとつだ。それでも二メートル以内にいれば、乾いた気配まで耳へ届く。届いてしまうから、僕は聞かないふりをして卓のつまみを指の腹で撫でる。指先には、つまみの冷たさだけが残る。


 十六時三十分。卓の上に小さな赤が灯り、放課後の放送が始まる。


「二年三組、鳴海凛です。今日の相談です」


「――同じクラスの子を、名字でしか呼べません。名前で呼びたいのに、口が動きません」


 僕は卓の針だけを見ている。彼女の声は今日も真ん中で、決められた幅の中を静かに揺れているだけだ。


「呼ばなくていいの。一度だけ、間違えたふりをすればいいんだから」


 その答えが耳に落ちたとき、僕の指は考えるより先にマイクを自分のほうへ倒していた。支柱が小さく鳴る。


「じゃあ、それ、やりましょう」


「……え?」


「今、生放送ですが」


「待って。待って、今の、相談の人への答えで――」


「相談の人は、たぶん今これを聞いています。実際にやって見せた方がいいでしょう」


 凛が顔を上げ、まっすぐ僕を見る。卓の赤い表示だけが、二人のあいだを切り分けるように灯り続けている。窓のない部屋で、その赤はやけに濃い。


 彼女は肩をわずかに上げて、息を吸う。吸いきってから、唇の奥に少しだけ長く留めた。


 息が止まっているあいだ、放送室の空気まで動かない。古い機械の熱と、紙の乾いた匂いが狭い部屋にこもる。廊下のどこかで椅子を引く音がして、それが遠くの教室でひとつ跳ね返る。


「……えっと、じゃあ、今日はここまで。ありがとう、透くん」


 言い終えた瞬間、原稿が彼女の指をすり抜ける。白い紙は膝に触れ、床へ落ちた。その乾いた音を、マイクは拾わない。


 拾ったのは僕の耳のほうだ。そこには台本の上に無い凹凸が、指でなぞれそうなほど鮮明に一つ残っている。短い呼び名のはずなのに、やけに長く耳に残る。


 この学校で僕の名前を呼ぶ人は、ほとんどいない。卓の後ろにいる人間なら、たいてい「放送の人」で足りてしまう。僕自身より、その呼び方のほうが廊下では通りがいい。


 だから、いま聞こえた凹凸の正体を考えるより先に、僕は自分の耳を疑う。聞き違いなら、もっと早く薄れるはずだった。


 下の名前というのは、呼ばれると耳の裏がすこし熱くなるものらしい。放送室は冷えているのに、そこだけ温度が合わない。そんな仕様は知らなかったので、これも故障の一種として処理しておく。


       ◇


「うわ。うわうわ、今の録れた。透くん、だって」


 扉の陰から、伊吹こだまが目だけをのぞかせ、それから顔を出す。手にした録音機の赤い点が、こちらでも得意げに灯っている。


「消せ」


「消せ、だって。無理でしょ。校内に流れたやつだよ?」


「校内に流れたやつでもだ」


「やなこった。べーっだ!」


 こだまは廊下へ跳ね出し、床を軽く鳴らしながら遠ざかる。曲がり角の向こうで「透くんだって、きゃははは!」と笑う声が、壁づたいに戻ってくる。


 凛はしばらく卓の縁を見つめている。伏せたまつ毛の影が、赤い光の中で細く揺れる。原稿を拾おうとした指は、紙に触れる手前で止まった。


「あれ、聞こえたよね?」


「聞こえました」


「……間違えたふりだから」


「そう答えたのは鳴海さんです」


 彼女は口を開き、声を出さないまま閉じる。唇の形が途中で迷う。反論を三つくらい作って、三つとも舌の上で捨てたような閉じ方だ。


 鞄の底から、乾いた擦れ音とともにあの紙が出てくる。ボールペンの尻が二回、机の上で硬く鳴り、迷いのない線が引かれる。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 三本目の線は、前の二本より少しだけ長い。行の終わりを越え、紙を裂きそうな勢いで余白まで走っている。ペン先が離れても、黒い跡だけはまっすぐ残る。


「三雲くんは、なんとも思わないの?」


「思いますよ」


「……何それ。どういう意味?」


「言うほどのことじゃないので」


 彼女が鞄の持ち手を握り直す。持ち手が小さくきしみ、指の関節からゆっくり色が抜けていく。


「じゃ、じゃあさ、明日も……呼ぶの?」


「呼ばなくていいと答えたのは、鳴海さんです」


「わたしの答えばっかり」


「僕の答えは要らないので」


 彼女は唇をわずかに尖らせたまま、それでも荷物をまとめる。教科書の角が鞄の口に引っかかり、いつもより鈍い音を立てた。


       ◇


 放送のあとの廊下は、朝と少しだけ音が違う。窓から差す灰色の光まで、誰かの声を薄く吸い込んでいる。


 僕が通ると、話し声が半拍だけ小さくなる。挨拶が一つ減る。掃除当番の割り振りを書いた紙は、僕の名前のところだけ指で押し潰すように雑に丸めてある。


 丸めた指にはずいぶん力が入っていたらしく、紙は伸ばしても白い皺を残す。指でならしても、そこだけがざらついている。誰がやったかは分からないままになる。名前が付いていない行いは、返す先も持たない。


 昇降口に下りると、蜷川累が靴箱にもたれて待っていた。開いた扉から湿った風が入り、彼の前髪を細かく揺らしている。


「なあ、放送で名前呼ばせるとか、さすがにやりすぎじゃね?」


「相談の答えのとおりにしただけです」


「みんな引いてるよ。俺は面白いけど」


「みんな、というのは誰ですか?」


 蜷川の口の端が、笑いの形を残したまま止まる。靴箱の金属扉がどこかで閉まり、その音のあとだけ妙に静かになった。


「……そういうとこ、ほんと嫌い」


「嫌われる理由が分かって助かります」


「褒めてねえよ」


 彼が回した噂は、名前を出さないまま僕の周りへ落ちてくる。あいつは調子に乗っている、らしい。放送を私物化している、らしい。小声なのに、僕へ届くところだけ妙にはっきりしている。


 噂には、言った人の名前が付いていない。問い返す先も、取り消させる相手もない。声だけが壁に残り、人は先に消えている。


 昇降口の靴箱のところでは、凛が鞄を抱えて待っていた。そこからは今日も、同じ速さで駅まで歩く。一行目の約束は、線を引いたあとも毎日ぶん残る。曇った夕方の道に、靴音が乾いて続いていく。


 その十二分のあいだ、彼女は一度も僕を呼ばなかった。呼ばないと決めた人の黙り方は、話すことがない人の黙り方より、ずっと硬い音がする。隣の靴底がアスファルトを擦るたび、名前のない空白も同じ速さでついてくる。


       ◇


 その日の夜、二年の教室で始まった話は、それぞれの家まで持ち帰られ、まだ二つに割れている。


「今の、台本なのか?」


 台本だと言う側は、放送部なら台詞くらい書くものだと言う。違うと言う側は、決められた台詞にしては迫真に迫り過ぎていたと言う。


 どちらの言い分にも名前が付いていない。誰が最初に言い出したのかを、誰も覚えていない。言葉だけが、夜のあいだも人から人へ渡っていく。


 あと八十五日。教室はまだ、これを議論の種として数えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。