3. 間違えたふり
教室のあちこちで、同じ数を数えている連中がいる。
鳴海凛が僕を呼ぶ回数だ。四時間目までで六回。そのうち五回が「三雲くん」で、一回は「ねえ」だった。名字で呼ぶたび、後ろの席で誰かが机の陰に手を隠し、小さく指を折る。
噂を信じているから、あいつらは数えられる。信じていない人間は、誰かの声を見世物みたいに指へ移したりしない。
僕は数えない。数えても意味がないからだ。何を思って呼んでいるかまでは、僕には届かない。聞こえるのは、息だけだ。
窓の外では、朝から同じ色の雲が校舎の上に貼りついている。教室の照明だけが乾いた白さで、昼なのに机の木目も、鉛筆でこすれた跡も、くっきり浮いている。
◇
「今日のはね、けっこう難しいと思う」
放送室で、凛は紙から目を上げないままそう言った。答えを書く前の彼女は、ときどき独り言を机の上へ落とす。拾ってほしいのか、聞かなかったことにしてほしいのか、声だけでは分からない。
「難しいほうが、話は進みます」
「進めなくていいんだけど」
「進めないと、九十日で終わりません」
「……三雲くんって、そういうとこ、ほんとうに」
言いかけた唇が、途中で閉じる。彼女は目を伏せたまま、原稿の角を二度そろえ直した。白い角がきっちり重なっても、指先はしばらく離れない。
紙の角が机を擦る音は、この部屋でいちばん小さい音のひとつだ。それでも二メートル以内にいれば、乾いた気配まで耳へ届く。届いてしまうから、僕は聞かないふりをして卓のつまみを指の腹で撫でる。指先には、つまみの冷たさだけが残る。
十六時三十分。卓の上に小さな赤が灯り、放課後の放送が始まる。
「二年三組、鳴海凛です。今日の相談です」
「――同じクラスの子を、名字でしか呼べません。名前で呼びたいのに、口が動きません」
僕は卓の針だけを見ている。彼女の声は今日も真ん中で、決められた幅の中を静かに揺れているだけだ。
「呼ばなくていいの。一度だけ、間違えたふりをすればいいんだから」
その答えが耳に落ちたとき、僕の指は考えるより先にマイクを自分のほうへ倒していた。支柱が小さく鳴る。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「……え?」
「今、生放送ですが」
「待って。待って、今の、相談の人への答えで――」
「相談の人は、たぶん今これを聞いています。実際にやって見せた方がいいでしょう」
凛が顔を上げ、まっすぐ僕を見る。卓の赤い表示だけが、二人のあいだを切り分けるように灯り続けている。窓のない部屋で、その赤はやけに濃い。
彼女は肩をわずかに上げて、息を吸う。吸いきってから、唇の奥に少しだけ長く留めた。
息が止まっているあいだ、放送室の空気まで動かない。古い機械の熱と、紙の乾いた匂いが狭い部屋にこもる。廊下のどこかで椅子を引く音がして、それが遠くの教室でひとつ跳ね返る。
「……えっと、じゃあ、今日はここまで。ありがとう、透くん」
言い終えた瞬間、原稿が彼女の指をすり抜ける。白い紙は膝に触れ、床へ落ちた。その乾いた音を、マイクは拾わない。
拾ったのは僕の耳のほうだ。そこには台本の上に無い凹凸が、指でなぞれそうなほど鮮明に一つ残っている。短い呼び名のはずなのに、やけに長く耳に残る。
この学校で僕の名前を呼ぶ人は、ほとんどいない。卓の後ろにいる人間なら、たいてい「放送の人」で足りてしまう。僕自身より、その呼び方のほうが廊下では通りがいい。
だから、いま聞こえた凹凸の正体を考えるより先に、僕は自分の耳を疑う。聞き違いなら、もっと早く薄れるはずだった。
下の名前というのは、呼ばれると耳の裏がすこし熱くなるものらしい。放送室は冷えているのに、そこだけ温度が合わない。そんな仕様は知らなかったので、これも故障の一種として処理しておく。
◇
「うわ。うわうわ、今の録れた。透くん、だって」
扉の陰から、伊吹こだまが目だけをのぞかせ、それから顔を出す。手にした録音機の赤い点が、こちらでも得意げに灯っている。
「消せ」
「消せ、だって。無理でしょ。校内に流れたやつだよ?」
「校内に流れたやつでもだ」
「やなこった。べーっだ!」
こだまは廊下へ跳ね出し、床を軽く鳴らしながら遠ざかる。曲がり角の向こうで「透くんだって、きゃははは!」と笑う声が、壁づたいに戻ってくる。
凛はしばらく卓の縁を見つめている。伏せたまつ毛の影が、赤い光の中で細く揺れる。原稿を拾おうとした指は、紙に触れる手前で止まった。
「あれ、聞こえたよね?」
「聞こえました」
「……間違えたふりだから」
「そう答えたのは鳴海さんです」
彼女は口を開き、声を出さないまま閉じる。唇の形が途中で迷う。反論を三つくらい作って、三つとも舌の上で捨てたような閉じ方だ。
鞄の底から、乾いた擦れ音とともにあの紙が出てくる。ボールペンの尻が二回、机の上で硬く鳴り、迷いのない線が引かれる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
三本目の線は、前の二本より少しだけ長い。行の終わりを越え、紙を裂きそうな勢いで余白まで走っている。ペン先が離れても、黒い跡だけはまっすぐ残る。
「三雲くんは、なんとも思わないの?」
「思いますよ」
「……何それ。どういう意味?」
「言うほどのことじゃないので」
彼女が鞄の持ち手を握り直す。持ち手が小さくきしみ、指の関節からゆっくり色が抜けていく。
「じゃ、じゃあさ、明日も……呼ぶの?」
「呼ばなくていいと答えたのは、鳴海さんです」
「わたしの答えばっかり」
「僕の答えは要らないので」
彼女は唇をわずかに尖らせたまま、それでも荷物をまとめる。教科書の角が鞄の口に引っかかり、いつもより鈍い音を立てた。
◇
放送のあとの廊下は、朝と少しだけ音が違う。窓から差す灰色の光まで、誰かの声を薄く吸い込んでいる。
僕が通ると、話し声が半拍だけ小さくなる。挨拶が一つ減る。掃除当番の割り振りを書いた紙は、僕の名前のところだけ指で押し潰すように雑に丸めてある。
丸めた指にはずいぶん力が入っていたらしく、紙は伸ばしても白い皺を残す。指でならしても、そこだけがざらついている。誰がやったかは分からないままになる。名前が付いていない行いは、返す先も持たない。
昇降口に下りると、蜷川累が靴箱にもたれて待っていた。開いた扉から湿った風が入り、彼の前髪を細かく揺らしている。
「なあ、放送で名前呼ばせるとか、さすがにやりすぎじゃね?」
「相談の答えのとおりにしただけです」
「みんな引いてるよ。俺は面白いけど」
「みんな、というのは誰ですか?」
蜷川の口の端が、笑いの形を残したまま止まる。靴箱の金属扉がどこかで閉まり、その音のあとだけ妙に静かになった。
「……そういうとこ、ほんと嫌い」
「嫌われる理由が分かって助かります」
「褒めてねえよ」
彼が回した噂は、名前を出さないまま僕の周りへ落ちてくる。あいつは調子に乗っている、らしい。放送を私物化している、らしい。小声なのに、僕へ届くところだけ妙にはっきりしている。
噂には、言った人の名前が付いていない。問い返す先も、取り消させる相手もない。声だけが壁に残り、人は先に消えている。
昇降口の靴箱のところでは、凛が鞄を抱えて待っていた。そこからは今日も、同じ速さで駅まで歩く。一行目の約束は、線を引いたあとも毎日ぶん残る。曇った夕方の道に、靴音が乾いて続いていく。
その十二分のあいだ、彼女は一度も僕を呼ばなかった。呼ばないと決めた人の黙り方は、話すことがない人の黙り方より、ずっと硬い音がする。隣の靴底がアスファルトを擦るたび、名前のない空白も同じ速さでついてくる。
◇
その日の夜、二年の教室で始まった話は、それぞれの家まで持ち帰られ、まだ二つに割れている。
「今の、台本なのか?」
台本だと言う側は、放送部なら台詞くらい書くものだと言う。違うと言う側は、決められた台詞にしては迫真に迫り過ぎていたと言う。
どちらの言い分にも名前が付いていない。誰が最初に言い出したのかを、誰も覚えていない。言葉だけが、夜のあいだも人から人へ渡っていく。
あと八十五日。教室はまだ、これを議論の種として数えている。




