2. 席を一つ空けておく
朝八時前の放送室には、機械の低い唸りだけが満ちている。
冷えた金属と、乾いた埃の匂い。電源を入れると、卓の奥で小さな唸りが目を覚ます。かすかな振動が卓から指へ伝わり、部屋の空気がわずかに厚くなる。この音に沈んでいるあいだは、誰の息も僕を呼ばない。
僕は鍵を開け、扉の横の箱を逆さにする。一昨日に空にした箱から、今日は四通が滑り落ちた。紙の角が机を叩き、乾いた音が重なる。読まれる箱になった。それだけで、人はこんなに書く。
四通のうち一通を選び、机の上に置く。二件目の声と噛み合うのは、これだ。
「センパイ、朝から何やってんの?」
伊吹こだまが、録音機を提げたまま入ってくる。一年で、うちの録音係。開いた扉から、廊下の白い光まで一緒に滑りこんだ。
「選んでます」
「選んでます、だって。えらそう」
彼女には、人の言葉をそのまま返す癖がある。返すときだけ、唇の端が小さく上がる。三年ぶんの校内音源を全部持っているくせに、自分の言葉は一つも出さない。
「その音源、どこから持ってきたんですか?」
「先輩の先輩から丸ごと引き継いだのよ。卒業のとき、箱ごと。棚の下、ぜんぶそれよ」
「助かります」
「助かります、だって。……録っといたよ、ぜんぶ」
録音機の赤い点が、瞬きもせず灯っている。入ってくる前から回していたらしい。小さな赤だけが、こちらの息を待っていた。
「録るな」
「録るな、だって。センパイ、それ毎朝言ってる」
「毎朝録ってるからです」
こだまは喉の奥で笑い、録音機の赤い点を指の腹でゆっくり撫でる。指は遊ぶように動くのに、目だけは僕の手元から離れない。この子は、面白い音の隠れ場所を人の指先から嗅ぎ当てる。
◇
教室では、蜷川累が机から机へ渡り歩いていた。
窓際から順に、同じ話を少しずつ形を変えながら配っていく。受け取った側が笑うたび、話の角は削れて軽くなる。窓から差す朝の光に、笑った歯だけが白く浮く。
「なあ三雲。お前、ほんとに毎日帰ってんの?」
「帰りました」
「毎日って書いてあるもんな。俺が書いたんだけど」
「知ってます」
「……お前、そういうとこだぞ」
誰も笑わない。笑うつもりで寄ってきた顔は、口元だけを半端にゆるめている。行き場をなくした視線が、最後に僕へ集まる。誰かの椅子がきしみ、その音だけが妙に近い。
教室には、笑いが着地しそこねたときだけ生まれる静けさがある。その底で、蜷川の息が半拍ぶん浅くなる。制服の襟が、喉元でかすかに上下した。何に躓いたのかは分からない。
◇
昼休み。放送室の卓に着くなり、三年の都築先輩が肘をつき、下から僕の顔を覗きこんでくる。窓の外では、グラウンドの白線が昼の光に滲んでいる。
「相談のやつ、今日は昼にやろうか」
「放課後の枠です」
「昼のほうが人が聞くよ。放送室の中で決めたことに、外から口を出さない。私の主義でね。中で決めたなら、いいでしょ」
「先輩、それ、外から口を出してます」
「番組になるほうを選ぶのも中の判断でしょ。なぁ、鳴海いいだろ?」
「え? まぁ……はい」
先輩は口の端を上げて頷く。その指が伸び、卓のフェーダーがするりと上がった。
十二時二十分。赤いランプが灯り、昼の放送が始まる。
人の息は、マイクを通ると平らになる。ただし本人が原稿を離れた瞬間だけ、そこに凹凸が戻る。聞こえるのは、息だけだ。
「二年三組、鳴海凛です。今日の相談です」
彼女の声は今日も澄んでいる。台本の上を歩いているうちは、この人の声はどこにも躓かない。マイクの赤い光が頬に映っても、まばたきの間まで変わらない。
「――好きな人と、お昼を一緒に食べたいです。でも、誘い方が分かりません」
凛は一度だけ紙へ目を落とす。睫毛の影が文字の上を横切った。答えは放送の前に書いてある。始業式の日も、彼女は書いた言葉を声にしていた。
「誘わなくていい。先に座って、席を一つ空けておけばいい」
僕は自分のマイクを生かし、卓の向こうへ身を乗り出す。肘の下で金属が冷たい。この一言だけは、いつも校内へ流している。
「じゃあ、それ、やりましょう」
◇
中庭のベンチには、二人ぶんの幅がある。
けやきの影が半分だけ落ち、座面の右側には日向が残っている。九月の日向はまだ夏の熱を抱えている。板に手を置くと、乾いた木肌から指の腹へじわりと温かさが移ってきた。
僕は左端に座り、鞄を膝へ載せる。右側が空く。空けた席は、座っている側から見れば、日向にさらされたただの板である。
パンの袋を開け、半分ほど食べたころ、砂利を踏む音が木々のざわめきの下から近づいてくる。一定だった足取りが、ベンチの前だけ少し遅くなる。
足音は、ベンチの二歩手前で止まる。
息が、そこで乱れた。ほんの半拍。葉擦れの音にまぎれそうなほど短い。それでも、僕の耳には残る。
「……座るよ」
「どうぞ」
彼女は座り、膝の上で弁当の包みをほどく。布がかすかに擦れ、ふたの隙間から甘い醤油の匂いが立つ。しばらく続くのは、箸の音と、遠くの部活の声だけだ。
右肩のすぐ向こうに人がいるだけで、思っていたよりずっと音が多い。制服の布が擦れる音、包みを開く音、飲みこむ前に喉が小さく動く音。風が止むたび、どれも輪郭を持って耳へ届く。僕の耳は、要らないものまで律儀に拾ってしまう。
「三雲くんって、いつも一人でお昼食べてたよね?」
「機械と食べてました」
「……何それ?」
「卓の前が涼しいので」
彼女はしばらく黙り、弁当の隅へ目を落としてから箸を動かす。笑いはこぼれない。けれど口元だけがいったんゆるみ、声になる前に元へ戻る。笑いかけてやめた名残が、唇の端にかすかに残っている。
「今の話、録音されてないよね?」
「あの子は、たいてい聞いています」
植え込みの向こうで、砂利がひどくわざとらしく鳴る。枝先だけが、風と違う向きへ小さく揺れている。
「あの……卵焼き、いる?」
「もらいます」
差し出された箸の先が、少しだけ震えている。放送のあいだは一ミリも震えなかった手だ。近づいてくる黄色い角だけが、日の光をやわらかく返す。
卵焼きは甘い。祖母が焼いていたものより、砂糖がひとさじぶん多い。舌の上でやわらかな角がほどけ、油と砂糖の匂いが鼻へ抜ける。飲みこんだあとも、甘さだけが舌の奥へ薄く残った。
「甘いですね」
彼女の箸が止まり、弁当箱の縁で小さく鳴る。
「……入れすぎた。今朝、寝てないから」
寝ていない理由を、僕は聞かない。問いかけが喉まで上がり、マイクの前でするように息ごと飲みこむ。聞けば、この人は台本の外の声で答えることになる。その声がこぼれたら、僕の耳は要らないものまで拾ってしまう。
「自分で作ってるんですか?」
「こ、これだけよ。ほかは全部お母さん」
「いちばん難しいところです。火が強いと角が立つので」
「……なんで、そんなこと知ってるの?」
「祖母がうるさかったので」
彼女は箸を宙で止め、ゆっくりこちらを見る。風が前髪を持ち上げても、その目は僕から動かない。
「三雲くんって、ぜんぶそうだよね。知ってても言わずにひょうひょうとしている」
「言うほどのことじゃないので」
昼休みの終わりに、凛は鞄からあの紙を取り出す。ボールペンの尻を二回鳴らしてから、『一緒にランチ』に線を引く。紙を押さえる爪の先だけが白くなる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
その日も、僕たちは同じ速さで駅まで歩く。夕方の光が、並んだ影を歩道の先へ細長く引いていく。一行目は毎日ぶんの約束で、線を引いても消えてくれない。
その十二分のあいだ、僕は一言も喋らない。靴底が舗道を擦る音と、隣の呼吸だけが同じ間隔で続く。喋らないほうが伝わると答えたのは彼女だ。そのとおりにしているだけなのに、駅の屋根が見えるころには、靴音と靴音の隙間が妙に広くなる。
口の中には、出さなかった言葉の味だけが残っている。どこから来たのかは、自分でも分からない。静かな時間なら、いつもは呼吸が楽になる。今日も音は充分に少なかった。それでも、隣に人の息があるのに何も渡さず帰るのは、電源を入れたまま何も流さない放送に少し似ている。赤いランプの残像が、駅を出ても目の奥から消えない。
◇
夜のうちに、中庭のベンチの話は校内を回っていった。声から声へ渡るたび、ベンチの熱も葉擦れも削られ、見ていないはずの場面だけが鮮やかになる。
「中庭のベンチを見に行った人がいるらしい」
二人は一言も喋らなかったらしい。いや、片方だけ笑いかけたらしい。声を潜めるほど、話の輪郭だけが濃くなる。
それでも、名前を出す者は、やはり一人もいない。話だけがふくらみ、最初に言った者はいつのまにか輪の外へ消えている。
増えた話のどれを聞いても、二年の誰それ、放送部の誰か、としか言われていない。名前の入っていない話は、呼び止めても振り向かない。そのまま誰の口にも残り、誰にも取り消せない。
あと八十七日。教室はまだ、これを見物として数えている。




