1. 七日じゃ足りません
人の声には、言葉のほかに、もうひとつの音が重なっている。
息だ。
迷った息、飲みこんだ息、うまく吐けなかった息。僕はそれを聞き分けてしまう。ただし、その乱れが嘘なのか、緊張なのか、恥ずかしさなのかまでは分からない。聞こえるのは、息だけだ。
だからだろうか。僕には、人の言葉をそのまま受け取れた記憶がない。「おはよう」の底に半拍ぶんの引っかかりがあれば、声の奥に何かが沈んでいることだけは分かる。けれど、その形も重さも、最後まで見えない。分からないものを耳に残したまま笑い返すくらいなら、放送室の暗がりで機械と向き合っているほうがいい。機械は息をしない。
始業式の日は短縮日課で、昼過ぎには帰る生徒のほうが多い。校舎に残るのは、部活へ向かう連中くらいだ。それでも放送部は放送を出す。放送を出さない日は、この学校には一日も無い。
九月一日の午後。夏の残りが、磨かれた廊下の床に薄い膜のように張りついている。鼻に残るワックスの匂い。開け放した窓からは、ぬるい風がカーテンを重たく揺らして入ってくる。上履きのゴム底が鳴るたび、体育館のほうから吹奏楽の音が半拍だけ遅れて返ってくる。
だから、放課後の昇降口で鳴海凛に呼び止められたとき、僕の耳へ届いたものは二つあった。
柱の陰から覗く白い縁が、西日を細く返している。誰かがスマホを構えている。柱までは二メートルもない。その裏には息が三つぶん、笑いを喉へ押しこんだまま並んでいる。
三つの息は、吸いこむ瞬間だけ綺麗に揃う。息を合わせているのではない。同じものが始まるのを待つ人間の揃い方だ。
「三雲くん。ずっと前から、好きでした」
声は、磨いたガラスのように澄んでいる。放課後の放送で原稿を読むときの鳴海凛と、一分の狂いもない。
澄みすぎている。人はたいてい、口にしにくいことを声にするとき、喉のどこかで息がこすれ、母音の頭がわずかに潰れる。けれど、この声には、その潰れがひとつも無い。
声の代わりに、彼女の左手が、スカートの横で紙を握りつぶしている。二メートルの距離では、乾いた繊維がきしむ細い音まで、僕の耳には届いてしまう。
「付き合ってください」
言い終えた途端、その紙が指の間から滑り落ちる。僕の上履きのそばで、乾いた音がした。拾って広げると、番号つきの箇条書きが並んでいる。上端には「恋人がやること」とある。
一、毎日、一緒に帰る。二、昼を一緒に食べる。三、名前で呼ぶ。同じ字がその先へ続き、ずっと下の三十までを埋めている。
行の間隔は、定規で引いたように揃っている。面白がって書き殴った紙にしては、書いた人間の指がきっちりしすぎている。
「わかりました」
「……え」
「付き合います」
彼女の喉が、空気を飲みそこねたように、こくりと小さく鳴る。
「あ、あの、いや……。な、七日後に、笑って振ってくれればいいので。あははは……」
言葉が急に駆け足になる。ここだけ息が乱れている。台本を読むあいだは澄み、素に戻ると乱れる――この人の声は、世間とは逆向きに鳴るらしい。
柱の陰の白い縁、押し殺した息、それにこの紙。三つが揃わなければ、僕にも何ひとつ分からない。息が乱れている。その事実だけでは、何の証明にもならないからだ。
柱の裏の三つの息が、いっせいに止まる。笑いを堪えているのではない。次の台詞が来るのを待つ止まり方だ。
「七日じゃ足りません。九十日にしてください。三十件、全部やるので」
「……は?」
「一日に一件でも三十日かかります。天気も、行事も、体調もありますから」
彼女の目だけが、僕の手の中で開かれた紙へ吸い寄せられる。
「七日でいいよ。七日のままで」
「では、七日で三十件やります。一日に五件ずつ、人前で」
「……っ」
「嫌なら、断ってください。今ここで」
僕はにこやかに、しかし、逃げ場をふさぐようにピシャリと言った。
彼女の唇が開く。けれど、細い息がこぼれただけで、また閉じる。ここで断れば、この告白は嘘だったと、自分の口で認めることになる。
逃げ道の形をした袋小路を、僕は分かったうえで差し出している。ずいぶんひどい。喉の奥がざらつく。それでも、差し出した言葉を引っこめる気にはならない。
「……断らないよ」
柱の陰から、蜷川累が笑い声を先にこぼしながら出てくる。撮っていたスマホは下ろさない。レンズだけが、まだ彼女を向いている。
「聞いた? 九十日だってさ。いいじゃん、そっちのほうが面白い」
「蜷川くん、あの」
「決まりな。九十日」
「え? 本当に……?」
柱の裏で押し殺されていた息が、そこでいっせいにほどけ、湿った笑い声へ変わる。
「うわ、マジで言ってる」
「録れてる? 今の、ちゃんと録れてる?」
名前を出さない声は、こういうときだけ妙によく通り、昇降口の高い天井に薄く残る。
「では、今日が一日目です」
僕が告げると、蜷川の笑いが半拍ぶん遅れて喉に引っかかる。
「……は?」
「毎日、一緒に帰る、と一番に書いてあるので。今日から数えます」
「お前さ、ほんとに全部やるつもりなの?」
「や……やります」
期限を決めるのは、この紙を書いた側だ。鳴海凛は、放送用の顔を貼りつけるように綺麗に笑い、頷く。そのあいだに、まばたきが二度、呼吸へ間に合っていない。
傾いた光が昇降口の奥まで差しこみ、床の細かな傷を金色に浮かせている。彼女の上履きは白く焼かれ、その上で爪先だけが内側へ寄っている。
◇
放送室の扉の横に、木の箱が置かれている。投書口の縁は、慣れない手で切ったらしく、わずかに斜めだ。
角は削り方が足りず、指の腹を滑らせると、細いささくれが指先に引っかかる。色も塗られていない。誰にも手伝わせず、一人で作り、一人でここまで運んできた物の形をしている。
「その箱、鳴海さんが作ったやつですよね」
「……よく知ってるね。開けたこと、ないんだけど」
「今日から使います。九十日のあいだ、届いた相談をひとつずつ読んでください。それが二つ目の条件です」
蓋を持ち上げると、底の暗がりに、紙が一枚だけ沈んでいる。
蓋の内側から、埃と乾いた木のにおいが、ふわりと鼻先へ上がってくる。一年半ぶん閉じこめられていた空気は、こんなに軽い。
「……一通しか入ってないよ」
「一年半で一通です。今日から増えます」
誰も答えないと分かった箱は、ただの木の箱へ戻る。中の紙には、折り目をもう一度、爪で丁寧になぞってから入れた跡がある。
紙を開いて読み終えてから、僕は三十件の一行目へ目を落とす。ぴたりと噛み合っている。一通しかない箱と、番号で決められた一件目が、どういうわけか同じことを言っている。
紙を元の形へ畳み直す。折り目に沿わせたつもりなのに、端が半分ぶんだけずれている。
「今日の相談は、これです。放送まで二十分あります」
三十件の紙を返し、その上に箱の一通を重ねて渡す。彼女は上の一枚へ一度だけ目を落とす。まだ開かない。そのままずれた端を指の腹でつまみ、もとの線へぴたりと押し戻す。折り目を探すための迷いが、どこにも無い。
紙がこすれる音に重なって、息が、そこでわずかに乱れる。
人の相談を人前で読むのが嫌なのだろう。そう受け取って、僕は卓の準備へ戻る。
背中のほうで、紙をひらく乾いた音がひとつ鳴る。答えを書くなら、中を読むしかない。だから振り返るほどの音ではない。
「読む前に、答えを書いてもいい?」
「どうぞ」
「……知らない人の相談って、その場で答えるものじゃないと思うから」
彼女は鞄からペンを取り出し、指先で静かに持ち直す。答えは先に書く人らしい。
ペン先が紙をこする音は、この狭い部屋ではよく通る。書いて、止まる。また書いて、同じ場所で止まる。そこだけ何度もペン先が触れ、紙の繊維が薄くつぶれて光りはじめる。
「うぅん……」
「なんで、そんなに?」
「付き合うって、そういうことなのです」
十六時三十分。卓の赤いランプが灯り、放課後の放送が始まる。
噂は名を名乗らない。放送は、名乗ってから話す。
「二年三組、鳴海凛です。今日から、みなさんの相談をひとつ読みます」
彼女の声が、古いスピーカーを通り、校舎の隅々まで同じ厚みで届く。僕は卓の向こうでレベルを見守りながら、その揺れなさに耳を澄ます。
針は真ん中を離れない。うまい人の声は、機械の上では、ただの退屈な線になる。
「はい! 今日の質問です! 誰かと二人で歩くとき、何を話せばいいのか分かりません。黙っているのが、こわいです」
凛は少しのあいだ黙る。スピーカーから、校舎じゅうの空気が遠く鳴る。それから、迷いのない声で答える。
「うーん、これね、話さなくていいよ。歩く速さを合わせれば伝わる。はい! こんなんでいいかな?」
僕は椅子を引き、マイクの前へ身を乗り出す。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「……え?」
◇
昇降口から駅までは、歩いて十二分ある。
その十二分だけは、一日のうちで耳の奥が静かになる。誰の息も聞こえない距離を、一人で歩ける。人の少ない道を選び、遠い車の音と風の音だけを入れて、耳を空にして帰る。空にしておかないと、翌朝、また誰かの息を拾いはじめたとき、耳の内側がひどく狭い。
卓の裏の配線をまとめる作業は、明日の朝へ回す。始発で来れば間に合う。
僕は歩幅を半歩ぶん詰める。彼女はすぐに気づき、こちらを見ないまま、同じだけ歩調をゆるめる。それまでずれていた靴音が、夕方の道で同じ間隔を刻みはじめる。
「……これ、何の意味があるの?」
「鳴海さんが、そう答えたので」
「わたしは、相談の人に答えただけ」
「僕は、答えのとおりにやっただけです」
信号が赤になる。彼女は半歩ぶん先で止まり、それから僕の速さへ戻ってくる。
車道の向こうで、傾いた日射しがビルの窓を一枚ずつ灯していく。熱を残したアスファルトから、乾いた匂いが立つ。二人ぶんの影は横断歩道の白い線をまたぎ、並んで伸びている。長さの違う影の、歩幅だけが揃っている。
「わたし、歩くの速いってよく言われる」
「知ってます」
「なんで?」
「放送のあと、廊下を歩く音が聞こえるので」
彼女が、初めてまっすぐこちらを見る。夕日の色が、黒い瞳の縁にだけ細く残っている。
「……変な人」
「よく言われます」
改札の手前で、凛が鞄からあの紙を取り出す。ボールペンの尻でノックの音を二回鳴らしてから、一行目へ迷いなく線を引く。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
定規を当てたみたいに、まっすぐな線だ。引き終えると、彼女はその線の端を、指の腹でひとつ、そっと撫でる。
「明日も、やるの?」
「毎日、一緒に帰る、と書いてありますから」
彼女は紙をたたむ。重なった角を見下ろしたまま、細い息をゆっくり外へ逃がす。
「……八十九日も、あるんだ」
その一言だけ、息の終わりがかすかに乱れている。
改札の白い光の下で、彼女の指は紙の角をぴたりと合わせている。数えているのはこちらのはずなのに、紙の角が揃うたび、こちらが数えられているようで首筋が冷える。たぶん、この人の指のせいだ。
◇
その日の夜、二年の教室からこぼれた話が、誰の口から始まったのか分からないまま、校内を回りはじめる。
「二年の誰かが、罰ゲームで告白したらしい」
相手は放送部の裏方らしい。しかも、その裏方は受けたらしい。
笑い声が、廊下の端から端へ、乾いた音を立てて渡っていく。名前を出す者は一人もいない。噂というものは、いつでも顔を伏せたまま、声だけで歩く。
放送室の窓の下では、誰かがこう言って笑ったらしい。
「九十日って言ったんだって。何様のつもり?」
あと八十九日。教室はまだ、これを笑い話として数えている。




