10. 名乗る
九月三十日の朝から、教室の音がいつもと違っている。誰もが声を落とし、そのぶん視線だけを忙しく飛ばしていた。
「今日らしいぞ」
「放課後の放送な」
「聞き逃したら負けじゃん」
「賭けてるやつ、まだいるらしいぞ」
「もう締め切ったって」
蜷川累は何も言わない。唇を結んだまま、待ちきれない足取りで机のあいだを二往復する。
それだけで、昼までには全校が今日の放送を知っている。彼は声ではなく足で噂を回し、受け取った側は目つきで次へ渡す。ずいぶん効率のいい伝言ゲームだ。
この教室では、僕の耳は何の役にも立たない。それでも、目で追えば分かる。机のあいだを縫う彼の足取りは、今日は朝から、床を蹴るたびにわずかに弾んでいた。
窓の外は、抜けるような秋晴れだ。校庭の白線は朝の光にくっきり浮かび、九月の終わりの空は、夏のものより一段だけ遠く感じられる。
◇
「はい、今日の相談です。――好きだと言えません」
放課後の放送で、凛はその一通をいつもよりゆっくり読み上げる。相談は今日も一通。小さく詰まった字は、行の終わりへ近づくほど、ためらうように震えていた。
凛の声からも、いつもの明るい弾みが半分だけ抜けている。
「言わなくていい。名前を名乗ればいい」
噂は名を名乗らない。放送は、名乗ってから話す。
僕はマイクを倒す。手順どおりの動きなのに、指先だけが妙に重い。
「じゃあ、それ、やりましょう」
「……今の、わたしが言った答えだよね?」
「はい」
「今日は、わたしがやる側だ」
「二人でやる側です」
卓の端の紙が、ほんの少し斜めにずれている。答えを書いた手が、書き終えたあとで迷うように一度触れた跡だ。
「順番、決めてないんだけど」
「では、僕からで」
「待って。心の準備が」
「準備は、始業式の日からしています」
「……そういうことを、平気で言う」
彼女の指が、逃げ場を探すように卓の縁を一度だけ叩く。
「平気ではありません」
「え」
「手が震えているので、卓の下に入れています」
「……見せて」
「見せません」
彼女は原稿を置き、卓の紙を伏せ直してから、マイクの位置を自分のほうへ少しだけ動かす。指先には迷いが残っているのに、その動きだけはまっすぐだった。
廊下の音が消え、扉の曇りガラスの向こうを横切る影もない。全校が聞いているときの校舎は、こんなにも静かになるらしい。
聞こえるのは、息だけだ。この部屋には、二人ぶんの息しか残っていない。
卓の針は真ん中で止まっている。こちらの緊張など知らない顔で、きっちり動かないままだ。この部屋でいちばん落ち着いているのは、たぶん機械のほうである。
「二年三組、三雲透です」
「……二年三組、鳴海凛です」
二人ぶんの息が、卓を挟んで一度そろう。台本の上にある声と、胸の奥から出た声の区別が、今日はもうつかない。
「「恋人です」」
声が重なる。半拍だけ彼女のほうが遅れ、そのためらいまで、ほどけないままマイクに残る。
そのあと二秒ほど、放送室の中には何の音もない。短いはずの沈黙が、言ってしまった言葉をじわじわ本物にしていく。
名乗った瞬間、廊下のスピーカーから自分の声が遅れて戻ってきた。八日前もこの部屋で名乗ったが、あのとき置いたのは、代打の放送部員としての姓だけである。今日は学級と下の名前まで、逃げ道がなくなるように出した。恋人だと、誰のことか分かる形で言うためだ。
そのあいだ、頭のなかだけがせわしなく動く。卓の後ろにいる人間は、「放送の人」で足りてしまう。僕は、名前の要らないその足り方を気に入っている。それを今日、自分の口で手放した。胸のどこかが軽くなって、思っていたより惜しくない。惜しくないと分かったことのほうが、自分では意外である。
「……言えた」
「言えました」
スピーカーの向こうで、どこかの教室が沸いた。壁と床を伝う震えに、笑い声と拍手と椅子の音が混ざり合って届く。
凛は紙を出し、ペンの尻を二回鳴らして気持ちを整える。それから、十番の行へためらいのない線を引く。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
引き終えた手が、そこで止まる。線の下には、まだ二十件ある。その長さを見て、ほっとした自分に気づく。
「……えっと、じゃあ、今日はここまで。ありがとうございました」
◇
彼女は大きく息を吐き、糸が切れたように椅子の背へもたれる。肩から力が抜けていくのが、目に見えて分かった。
「終わった……」
「……ずるいよ、三雲くん」
声が濡れている。泣いてはいない。ただ、いつものように笑うための息を使えていない。だから僕にも、胸の奥が揺れているのだと分かる。
「全部、ほんとみたいにやるんだもん」
「ほんとうにやっています」
「そういうことじゃなくて」
「では、どういうことですか?」
「……こっちが、ほんとになるでしょ」
卓の下に隠したままの手を、僕はまだ戻せないでいる。震えが止まったか確かめる勇気もない。
卓の赤いランプは、気づいてほしいほど鮮やかに、まだ点いたままでいる。
僕は慌てて手を伸ばす。指がフェーダーに届くまでに、たぶん一秒はかかっている。焦る頭に比べて、指先だけが呆れるほど遅い。
「……え?」
「まだ放送中でした」
「……三雲くん」
「はい」
「あとで、怒るからね」
彼女は両手で顔を覆い、指の隙間から、恨めしそうに放送機材を見ている。隠れたいのか確かめたいのか、たぶん本人にも決められない。
「はい」
「今、はいって言った?」
「言いました」
校舎の四方八方で、押し殺されていた音が一度にあふれ出した。
◇
「いやぁ、今年いちばんの番組だったねえ」
都築先輩が、上機嫌を隠しもしない顔で扉の枠を叩いている。その肩越しから、録音機を宝物のように抱えたこだまが顔を出す。
「センパイ、切るの遅すぎぃ」
「遅かったね」
「うん。だから録れた。うっしっし」
「流すなよ」
「流さないってば! きゃははは」
都築先輩は指を一本立て、念を押すように扉の枠をもう一度叩く。僕はその指を見ないことにした。まともに見たら、きっと二本目が立つ。
「一年生は口が減りませんね」
「減ると番組が短くなっちゃいますよ。くふふふ」
部長は満足そうに頷き、廊下の人だかりへ愛想よく手を振っている。部が残ればそれでいい人だから、今日はたぶん今年でいちばん機嫌がいい。さっきから口元が下がる気配もない。
その人だかりの先では、蜷川が壁に手をついて立っている。自分が書いた十番を、自分の書いたとおりに読まれてしまった人の顔だ。達成感より、コレジャナイ感が勝って見える。
「……あんなの、書いた覚えねえよ」
「十番目です。ご指定の『恋人だと、みんなの前で言う』」
「言えとは書いた。あんな言い方しろとは書いてねえ」
「言い方の指定はありませんでした」
「……お前さ、ほんと――ふぅ」
彼は最後まで言い切らず、人の流れへ肩を押し込むように歩いていく。振り返らないから、どんな顔をしていたのかは分からない。ただ、背中だけが朝より少し重く見えた。
◇
十七時二十分、僕たちは肩を並べ、同じ速さで駅まで歩く。九月のあいだ、一番は一度も切れていない。その事実が、今日はいつもより胸の近くにある。
西日が歩道を淡い金色に染め、二人ぶんの影が端でくっついたり離れたりする。すれ違う人は僕たちを一度だけ見て、それから何も言わずに通り過ぎる。その視線に、凛の肩がほんの少しすぼまった。
「ねえ」
「はい」
「明日――学校行きたくない」
彼女の歩幅が半分ぶん遅くなる。理由を聞く代わりに、合わせる僕も半分ぶん遅くする。
「休んでもいいですが、そのときは僕は一人で帰ります」
「……それ、ずるい言い方」
「今日だけで、二回目です」
その十二分のあいだ、僕はひとつのことばかり考えていた。隣に凛がいると、駅までの道は短すぎる。
この九十日が終わってほしくないと、思えてしまうのだ。
九十日にしてくださいと言ったのは僕なのに、今では終わりの日だけは来ないでほしいと思っている。自分で決めた期限が、近づくほど他人の決めたもののように冷たく見える。
筋の通らない願いである。残りの日数ぶん、僕はこの通らない筋を胸に抱え、隣を歩くことになる。それでも、手放したいとは思えない。
九月の終わりの風は、昼の熱をもう持っていない。冷えた空気の中で、すぐ隣にいる人の息だけが、触れられそうなほど温かく感じられる。
◇
その夜、校内を巡る話の向きが、少しずつ反転していく。
あれ、台本じゃなかったよな。台本なら、もっとうまく言うだろ。最後のあれ、切り忘れてたよな。切り忘れたところだけを、みんなが妙にはっきり覚えている。
笑っていた側から順に口を閉ざし、黙った人から順に、自分がどっち側に立って笑っていたのかを思い返しはじめる。冗談だったという逃げ道が、少しずつ狭くなっていく。
名前を出さずに笑うことはできる。けれど、名前を出さずに謝ることは、たぶんできない。名乗った言葉は、聞いていた側にも名前を求める。
あと六十日。教室はもう、これを遊びとしては数えていない。




