↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/30

10. 名乗る

 九月三十日の朝から、教室の音がいつもと違っている。誰もが声を落とし、そのぶん視線だけを忙しく飛ばしていた。


「今日らしいぞ」


「放課後の放送な」


「聞き逃したら負けじゃん」


「賭けてるやつ、まだいるらしいぞ」


「もう締め切ったって」


 蜷川累は何も言わない。唇を結んだまま、待ちきれない足取りで机のあいだを二往復する。


 それだけで、昼までには全校が今日の放送を知っている。彼は声ではなく足で噂を回し、受け取った側は目つきで次へ渡す。ずいぶん効率のいい伝言ゲームだ。


 この教室では、僕の耳は何の役にも立たない。それでも、目で追えば分かる。机のあいだを縫う彼の足取りは、今日は朝から、床を蹴るたびにわずかに弾んでいた。


 窓の外は、抜けるような秋晴れだ。校庭の白線は朝の光にくっきり浮かび、九月の終わりの空は、夏のものより一段だけ遠く感じられる。


       ◇


「はい、今日の相談です。――好きだと言えません」


 放課後の放送で、凛はその一通をいつもよりゆっくり読み上げる。相談は今日も一通。小さく詰まった字は、行の終わりへ近づくほど、ためらうように震えていた。


 凛の声からも、いつもの明るい弾みが半分だけ抜けている。


「言わなくていい。名前を名乗ればいい」


 噂は名を名乗らない。放送は、名乗ってから話す。


 僕はマイクを倒す。手順どおりの動きなのに、指先だけが妙に重い。


「じゃあ、それ、やりましょう」


「……今の、わたしが言った答えだよね?」


「はい」


「今日は、わたしがやる側だ」


「二人でやる側です」


 卓の端の紙が、ほんの少し斜めにずれている。答えを書いた手が、書き終えたあとで迷うように一度触れた跡だ。


「順番、決めてないんだけど」


「では、僕からで」


「待って。心の準備が」


「準備は、始業式の日からしています」


「……そういうことを、平気で言う」


 彼女の指が、逃げ場を探すように卓の縁を一度だけ叩く。


「平気ではありません」


「え」


「手が震えているので、卓の下に入れています」


「……見せて」


「見せません」


 彼女は原稿を置き、卓の紙を伏せ直してから、マイクの位置を自分のほうへ少しだけ動かす。指先には迷いが残っているのに、その動きだけはまっすぐだった。


 廊下の音が消え、扉の曇りガラスの向こうを横切る影もない。全校が聞いているときの校舎は、こんなにも静かになるらしい。


 聞こえるのは、息だけだ。この部屋には、二人ぶんの息しか残っていない。


 卓の針は真ん中で止まっている。こちらの緊張など知らない顔で、きっちり動かないままだ。この部屋でいちばん落ち着いているのは、たぶん機械のほうである。


「二年三組、三雲透です」


「……二年三組、鳴海凛です」


 二人ぶんの息が、卓を挟んで一度そろう。台本の上にある声と、胸の奥から出た声の区別が、今日はもうつかない。


「「恋人です」」


 声が重なる。半拍だけ彼女のほうが遅れ、そのためらいまで、ほどけないままマイクに残る。


 そのあと二秒ほど、放送室の中には何の音もない。短いはずの沈黙が、言ってしまった言葉をじわじわ本物にしていく。


 名乗った瞬間、廊下のスピーカーから自分の声が遅れて戻ってきた。八日前もこの部屋で名乗ったが、あのとき置いたのは、代打の放送部員としての姓だけである。今日は学級と下の名前まで、逃げ道がなくなるように出した。恋人だと、誰のことか分かる形で言うためだ。


 そのあいだ、頭のなかだけがせわしなく動く。卓の後ろにいる人間は、「放送の人」で足りてしまう。僕は、名前の要らないその足り方を気に入っている。それを今日、自分の口で手放した。胸のどこかが軽くなって、思っていたより惜しくない。惜しくないと分かったことのほうが、自分では意外である。


「……言えた」


「言えました」


 スピーカーの向こうで、どこかの教室が沸いた。壁と床を伝う震えに、笑い声と拍手と椅子の音が混ざり合って届く。


 凛は紙を出し、ペンの尻を二回鳴らして気持ちを整える。それから、十番の行へためらいのない線を引く。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 引き終えた手が、そこで止まる。線の下には、まだ二十件ある。その長さを見て、ほっとした自分に気づく。


「……えっと、じゃあ、今日はここまで。ありがとうございました」


       ◇


 彼女は大きく息を吐き、糸が切れたように椅子の背へもたれる。肩から力が抜けていくのが、目に見えて分かった。


「終わった……」


「……ずるいよ、三雲くん」


 声が濡れている。泣いてはいない。ただ、いつものように笑うための息を使えていない。だから僕にも、胸の奥が揺れているのだと分かる。


「全部、ほんとみたいにやるんだもん」


「ほんとうにやっています」


「そういうことじゃなくて」


「では、どういうことですか?」


「……こっちが、ほんとになるでしょ」


 卓の下に隠したままの手を、僕はまだ戻せないでいる。震えが止まったか確かめる勇気もない。


 卓の赤いランプは、気づいてほしいほど鮮やかに、まだ点いたままでいる。


 僕は慌てて手を伸ばす。指がフェーダーに届くまでに、たぶん一秒はかかっている。焦る頭に比べて、指先だけが呆れるほど遅い。


「……え?」


「まだ放送中でした」


「……三雲くん」


「はい」


「あとで、怒るからね」


 彼女は両手で顔を覆い、指の隙間から、恨めしそうに放送機材を見ている。隠れたいのか確かめたいのか、たぶん本人にも決められない。


「はい」


「今、はいって言った?」


「言いました」


 校舎の四方八方で、押し殺されていた音が一度にあふれ出した。


       ◇


「いやぁ、今年いちばんの番組だったねえ」


 都築先輩が、上機嫌を隠しもしない顔で扉の枠を叩いている。その肩越しから、録音機を宝物のように抱えたこだまが顔を出す。


「センパイ、切るの遅すぎぃ」


「遅かったね」


「うん。だから録れた。うっしっし」


「流すなよ」


「流さないってば! きゃははは」


 都築先輩は指を一本立て、念を押すように扉の枠をもう一度叩く。僕はその指を見ないことにした。まともに見たら、きっと二本目が立つ。


「一年生は口が減りませんね」


「減ると番組が短くなっちゃいますよ。くふふふ」


 部長は満足そうに頷き、廊下の人だかりへ愛想よく手を振っている。部が残ればそれでいい人だから、今日はたぶん今年でいちばん機嫌がいい。さっきから口元が下がる気配もない。


 その人だかりの先では、蜷川が壁に手をついて立っている。自分が書いた十番を、自分の書いたとおりに読まれてしまった人の顔だ。達成感より、コレジャナイ感が勝って見える。


「……あんなの、書いた覚えねえよ」


「十番目です。ご指定の『恋人だと、みんなの前で言う』」


「言えとは書いた。あんな言い方しろとは書いてねえ」


「言い方の指定はありませんでした」


「……お前さ、ほんと――ふぅ」


 彼は最後まで言い切らず、人の流れへ肩を押し込むように歩いていく。振り返らないから、どんな顔をしていたのかは分からない。ただ、背中だけが朝より少し重く見えた。


      ◇


 十七時二十分、僕たちは肩を並べ、同じ速さで駅まで歩く。九月のあいだ、一番は一度も切れていない。その事実が、今日はいつもより胸の近くにある。


 西日が歩道を淡い金色に染め、二人ぶんの影が端でくっついたり離れたりする。すれ違う人は僕たちを一度だけ見て、それから何も言わずに通り過ぎる。その視線に、凛の肩がほんの少しすぼまった。


「ねえ」


「はい」


「明日――学校行きたくない」


 彼女の歩幅が半分ぶん遅くなる。理由を聞く代わりに、合わせる僕も半分ぶん遅くする。


「休んでもいいですが、そのときは僕は一人で帰ります」


「……それ、ずるい言い方」


「今日だけで、二回目です」


 その十二分のあいだ、僕はひとつのことばかり考えていた。隣に凛がいると、駅までの道は短すぎる。


 この九十日が終わってほしくないと、思えてしまうのだ。


 九十日にしてくださいと言ったのは僕なのに、今では終わりの日だけは来ないでほしいと思っている。自分で決めた期限が、近づくほど他人の決めたもののように冷たく見える。


 筋の通らない願いである。残りの日数ぶん、僕はこの通らない筋を胸に抱え、隣を歩くことになる。それでも、手放したいとは思えない。


 九月の終わりの風は、昼の熱をもう持っていない。冷えた空気の中で、すぐ隣にいる人の息だけが、触れられそうなほど温かく感じられる。


       ◇


 その夜、校内を巡る話の向きが、少しずつ反転していく。


 あれ、台本じゃなかったよな。台本なら、もっとうまく言うだろ。最後のあれ、切り忘れてたよな。切り忘れたところだけを、みんなが妙にはっきり覚えている。


 笑っていた側から順に口を閉ざし、黙った人から順に、自分がどっち側に立って笑っていたのかを思い返しはじめる。冗談だったという逃げ道が、少しずつ狭くなっていく。


 名前を出さずに笑うことはできる。けれど、名前を出さずに謝ることは、たぶんできない。名乗った言葉は、聞いていた側にも名前を求める。


 あと六十日。教室はもう、これを遊びとしては数えていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。