11. 行き先を決めない
金曜の十六時三十分。放送室の卓を挟んだ向こうで、凛が原稿の角をきっちりそろえている。
窓の外は、もう光が斜めになっている。机の木目を、細長い日だまりが一つだけ横切り、舞う埃まで金色に浮かせる。十月に入ってから、この部屋へ夕方が来る時刻は、毎日すこしずつ早くなる。
そろえられた紙の端が机を二回叩く。乾いた音が消えてから、彼女はマイクへ向き直る。
「はい、今日の相談です! ――休みの日に会う約束をしたのに、行き先が決められません。決めているあいだに気まずくなって、けっきょくどこにも行けなくなります」
その声は澄み、冷えはじめた放送室の空気をまっすぐ抜ける。台本の上を歩いているとき、この人の息には一分の狂いもない。
聞こえるのは、息だけだ。書いた人がどんな顔でこれを入れたのかまでは、僕には分からない。
卓のランプは赤いまま、原稿の白をうすく染めている。今朝この一通を選んだのは僕だ。理由は喉の手前まで来ているのに、言う相手はどこにもいない。
「うーん、これはね。行き先を決めなくていい。かわりに、待ち合わせの時間だけ決めればいい。行き先なんて、着いてからでも間に合うから。……はい、こんな感じでどうかな!」
僕は唇をマイクへ寄せ、自分のマイクを生かす。この一言だけは毎回、校内へ流している。が、喉の奥だけが台本どおりには動かない。
「じゃあ、それ、やりましょう」
言い終えた声が壁から返るより先に、指でフェーダーを落とす。
落とした指先に、卓の金属の冷たさが薄く張りつく。九月のあいだ毎日くり返してきた動きだ。それなのに、この一言のあとだけは、指が一拍おくれて戻ってくる。
卓の端では、伊吹こだまが録音機のスイッチを親指でゆっくり撫でている。いまの音の残りを、指で確かめるように。
「決めなくていい、だって。センパイ、明日ひま?」
「ひまではありません」
「ひまじゃないのに行くんでしょ?」
「行きます」
「うわ、はやい」
こだまは録音機を耳の高さまで持ち上げ、いま録れた四文字ぶんを確かめるように目を細める。面白い音のありかを、この後輩は人の指先から先に見つける。
凛が手帳を開く。ページの端は、指の跡のぶんだけやわらかく波打っている。ずいぶん長く持ち歩いてきたらしく、角は手のひらに馴染むほどまるく削れている。
「ねえ、ほんとに行き先決めなくていいの?」
「決めると、決めたほうの責任になります」
「責任って」
「面白くなかったときに、謝る人が要ります。要らないほうが楽です」
「……そういう理由なんだ」
本当の理由は、その半分うしろにある。決めた瞬間、その日に起きることは予定へ変わる。まだ何にもなっていない時間が一つ減る。そう考えると、口の中で次の言葉が動かなくなる。
凛は手帳の同じ行を、指の腹で二度なぞる。書いてある予定は明日のところだけ空いている。その空白の広さが、今日はやけに明るく見える。
「じゃあ、時間だけ決めよ。何時にする?」
「九時五十五分に、改札の前で」
「……五十五分?」
「十時二分に、上りか下りのどちらかが来ます。その七分前です」
こだまが録音機の先を、逃がさないように僕の口元へ寄せてくる。
「秒まで言いそうな顔してるのよ、この人」
「言いません」
言わないだけで、駅までの坂の傾きも、改札の手前の信号ひとつぶんも、頭の中では数え終わっている。数えたことまで言う必要は無い。
十七時十分、昇降口を出る。校舎の扉が背中で重く閉じた。金曜も一番の掛かる日だ。いつもの道を、いつもの速さで駅まで歩く。
十月の夕方は、九月より風が乾いている。歩道の脇の花壇では、終わりかけの草の匂いが二歩ぶんだけ続き、靴の先でふっと切れる。
明日の話は、どちらからも出ない。決めていないことには、まだ話の形が無い。
◇
土曜の朝の改札には、制服がひとつも無い。上着や買い物袋の色が、いつもの駅を別の場所に見せている。
休みの日の駅は、平日より音が低い。底のやわらかい靴が、床を押すように鳴り、足音の角を丸くする。
急ぐ人がいないぶん、足音の間隔まで広くなる。天井の高いところで案内の放送が一度だけ響き、壁の四方から少しずつ遅れて戻ってくる。
今日は祖母の通院の日だ。付き添いは隣の家の人に頼んである。返しの用事を日曜に引き受けたので、その日の機材整備だけが、予定表の上で行き場を無くしている。
祖母は理由を聞かず、台所で湯を沸かす音の向こうから、たまには行っておいで、とだけ言って送り出した。
玄関で靴を履くあいだ、祖母は台所から出てこない。食器の触れる音だけが背中まで届く。出てこないのが、この人なりの見送り方である。
改札の前に着いたのは九時五十分。凛はもう来ている。白い上着が、人の流れの中で先に目に入る。
紺のスカートに白い上着。学校で見る形とは袖の長さが違い、布が朝の光をやわらかく返している。
制服でない人は、少しだけ知らない人に見える。視線が袖口で止まる。けれど、立ち方だけは放送室の椅子のそばにいるときと同じで、背中がまっすぐだ。
「早い」
「わたしは七分も前だったの。三雲くんは?」
「五分前です」
「負けちゃった」
この人は、数えられるものならたいてい数える。放送の秒数も、原稿の行数も、目で追いながらきちんと拾う。
「勝ち負け……でしたか?」
「ふふっ。今、決めたの。先に来て待ってたほうが、負け」
先に音のしたほうの階段を降り、ちょうど入ってきた電車に乗る。行き先は決めていない。
どちらの階段になるかは、その音が決める。僕たちが決めたのではないことにしておけば、二人とも黙ったまま階段を降りられる。
降りたのは、僕がいつも使わない側のホームだ。毎日この駅で別れている。それなのに、この側に立つのは初めてで、見慣れた柱の裏側まで知らない色に見える。
同じ駅なのに、線路をひとつ挟んだだけで、風の抜ける向きが逆になる。いつも背中に受ける風が、今日は正面から来る。
◇
二駅目にさしかかる――。
車内は休みの日の朝のぶんだけ空いていて、窓の外を、知らない屋根と物干し竿が続けて流れていく。窓ガラスには、凛の白い袖が町の上へ薄く重なる。
窓に映っていた白い袖が動き、凛が立ち上がる。
「ここ、降りたことない」
「僕もです」
「じゃあ、ここにしよ?」
扉が開くと、冷えた空気に乗って、知らない駅の匂いが車内へ入り込む。
どこの駅にもある油と埃の匂い。そのうしろに、この駅にだけ溜まるらしい、焼けた砂糖のような甘い匂いが一つ混ざっている。
「決まりましたね」
「決めてないよ。降りただけ」
「では、そういうことにします」
◇
商店街には屋根が続いている。雨も降っていないのに、その下だけ音がこもり、昼の光まで薄くなる。
声も自転車のベルも、いったん屋根に当たってから足元へ落ちてくる。外より少しだけ暖かく、その暖かさは行き交う人の多さのぶんである。
凛は店の前で足を止め、二秒だけ中をのぞき、何も言わずまた歩き出す。歩くのが速い人だと言われるらしいのに、今日は半分の速さだ。
速さを落とした人の歩き方は、音でも分かる。かかとが先に降り、そのあとでつま先がそっと置かれる。急いでいないときにだけ出る順番である。
乾物屋の前を通ると、鰹節を削る、しゃっ、しゃっという音がする。
「これ、なんの音?」
「削っています」
「三雲くん、こういうの好きでしょ?」
「好きです」
「即答が多いね、今日」
削り台の刃が立てる音は、遠くで聞くと細い雨に似ている。乾いた木の匂いと、そのうしろから来る海の匂い。店の奥では、量りの皿が触れ合う音が一度だけ澄んで混じる。
「考える時間が惜しいので」
「惜しいんだ、今日は」
惜しい、と言ってから、舌の先がわずかに止まる。考えて選んだ答えより、先に出た言葉のほうが喉の奥に近い。取り消す理由も無い。そのまま歩く。
文房具屋の店先に、古い型のボールペンが日焼けした箱ごと並んでいる。凛は一本を持ち上げ、音を試すようにノックを二回鳴らし、それから元へ戻す。
鳴った音は、放送室で毎日聞いているのと同じ高さだ。聞いた瞬間、耳の奥に卓の赤いランプまで浮かぶ。
「買わないんですか?」
「うん。……使ってるのが、まだ書けるから」
「書けなくなったら買いますか?」
「そのときは、そのとき」
彼女の鞄にあるペンも、同じ音を出す。透明な軸の中にインクの空白を伸ばしてきた、一年半ぶん減った一本だ。
書けなくなる日のことを、この人は考えていない。正しくは、考える順番のずっと後ろに置いている。見えなくなるほど後ろだ。
昼は、その並びのパン屋で買ったものを川沿いで食べる。開いた紙袋から、まだ温かい小麦とバターの匂いがこぼれる。
川の面は昼の光で白く、風が渡るたびに、その白がまとめて下流へ動く。土手の草はもう半分枯れていて、腰を下ろすと乾いた匂いが服のまわりに立つ。
鳩が三羽、影を小さく揺らしながら二メートル手前まで来て、それ以上は近づかない。
「鳩まで距離を測ってる」
「二メートルは、たいていの生き物の距離です」
「ふぅん、詳しいね」
「そういう仕事なので」
凛はパンの端を細くちぎり、鳩の手前へ落とす。三羽は乾いた草を鳴らしてそこまで来て、パンをついばむと、また同じ場所まで離れていく。
「ほら、二メートル」
「測りましたか?」
「測ってないけど、当たってる」
当たっている。靴の先から歩幅で四つぶん。たしかに、そこから先へは来ない。
この人は測らずに当てる。僕は測ってからでないと言えない。同じ答えに違う道で着くから、着いたあとの顔がいつも合わない。それでも、見ている境だけは重なる。
凛が鞄から、折り癖のついた紙を出す。三十件の並んだ、あの紙だ。
休みの日にも鞄へ入れて持ち歩いていることを、僕はここで初めて知る。紙の角を見た途端、口の中のパンが急に乾く。
十一番『休みの日に二人で出かける』
膝の上で引くので、線がわずかに波打つ。川風に紙が震え、定規を当てたようにまっすぐだった一本目とは、もう似ていない。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「……こういうの、台本に無いね」
その一言のうしろで、息がひとつぶん引っかかり、次の呼吸だけが浅くなる。
台本の上でなら、この人の声は澄んでいる。乱れるのは、いつも台本の外だ。だから、聞き落とせない。
「十一番は台本の中です」
「そうじゃなくて。……ううん、なんでもない」
彼女は紙を折って鞄へ戻す。折り目は、もとの線をなぞり、消さずに隠す。
「ねえ。今日、どこ行ったか聞かれたら、なんて言う?」
「聞かれたことに答えます」
「隣町、って言うだけ?」
帰りの電車の窓を流れる景色は、行きに見たのと同じはずなのに、順番が逆になるだけで別の町に見える。
「行き先を決めていないので、それしか言えません」
「……それでいいんだ」
そのあと、帰りの電車では二人とも黙っている。窓の外を流れる知らない家並みに、さっき見た川の白さがときどき重なる。
黙っているのが平気な相手は、そう多くない。この人の隣では黙っている時間のほうが長いのに、一度も次の言葉を探さなくて済む。肩にも喉にも余計な力が入らない。その理由を、僕はまだ自分に説明できない。
今日は学校が無いので、一番の対象日ではない。あの八字が掛かるのは、二人とも登校した日だけだ。だから今日は、どの欄にも入らない。
それでも僕たちは、歩くときは一緒に同じ速さで歩いていた。合わせようとした覚えはないのに、靴音だけは最後までずれない。
◇
その夜、話は学区の外まで伸びている。聞いた、見た、たぶんそうだ。短い声がつながり、確かめる前に廊下の先へ出ていく。
休みの日に、隣町で見たらしい。制服じゃなかったらしい。どこへ行くとも決めずに歩いていたらしい。駅で見た。店でも、という声が重なる。時間はいつ。目撃したという話は三つあって、駅も店も時間も食い違っている。食い違ったまま、どれも同じところへ着く。あれはまだ続いているらしい、と。数えている人によれば、あと五十六日である。教室の中だけで回っていたころより、話は遠くまで届く。けれど、その先に何があるのかを言う声だけは、まだ聞こえない。




