12. 十二分の道
朝の教室で、汐見さんが席を替わってもらっている。
窓際の三列目から、廊下側のいちばん後ろへ。
彼女は凛のほうを見ない。凛も、机へ落とした視線を上げない。
足早に移動する靴の音が、ざわめきの底から浮かび上がる。
替わってもらった相手が、なんで、と一度だけ聞く。汐見さんは答えないままだった。
教室はざわついている。机の角に朝日が跳ね、声と椅子の音が重なる。この中では、僕の耳は何の役にも立たない。二メートルより近くても、音の底が濁っていれば、息はただの空気の音になる。
聞こえるのは、息だけだ。その息さえ、ここでは沈んでいる。
朝の教室では、声と椅子と紙の音が同じ高さで混ざり合う。窓際では高く、廊下側ではくぐもる。それでも、どれも誰のものだか分からないまま天井へ上がっていく。
汐見さんは新しい席に着いてから、机の位置を三度直す。前後を合わせ、左右を合わせ、指を離しかける。それでも気に入らないという顔で、もう一度だけ引く。床に細い音が残る。
凛は、その音のするほうを一度も見ない。視線を机の上へ押しつけるように、肩まで動かさない。見ないでいることには、見るより力が要る。理由は聞かない。聞けば、答えるほうが言葉を選ばなくてはいけない。
今朝まで、凛と汐見さんの席は通路を挟んで隣どうしだった。いまは、その片方が教室を横切り、いちばん後ろまで下がっている。空いた通路へ朝の光が落ちる。増えたぶんの距離を、どちらも見ない。
◇
八時前、放送室の鍵を開けて、箱をひっくり返す。紙が机へ散る乾いた音は、朝の教室より輪郭がはっきりしている。
朝いちばんのこの部屋は、機械の熱がまだ立っていない。空気は薄くて冷たく、金属と乾いた埃の匂いがする。鍵を回した指先だけが、いつまでも冷えている。
昨日の夕方から今朝までに入ったのは五通。机へ広げると、紙の端に蛍光灯の白さが乗る。文化祭の出し物の相談が一通、部活を辞めたいという相談が一通、あとの三通は恋の話である。
そのうちの一通を選び、残りは棚の紙箱へ戻す。捨てはしない。選ぶのは僕の仕事だが、そのことは誰にも言っていない。言えば、選ばれなかった紙に理由が生まれる。
紙箱の中身は、九月の初めからひと月ぶん溜まっている。毎朝いくつか戻すので、下のほうほど古い。底へ近い紙ほど、折り目の角が指にやわらかく触れる。
紙の手ざわりは、一枚ずつ違う。ノートを破ったものは端がぎざぎざで、机の中で折り畳まれていたものは、開いても十字の癖が消えない。指で伸ばすと、折り目だけが小さく鳴る。
同じ紙を何度も並べていると、書かれた内容より先に字の癖が見える。跳ねの高さ、点の向き、行の終わりで力を抜く癖。そこまで見えても、誰が書いたかまでは届かない。
学校のある日は毎日放送がある。選ぶのも毎日である。件を果たす日だけ、基準が一つ増える。その日は件と噛み合うものを選ぶ。休みの日の件は、前の登校日の朝に選んでおく。今朝の箱に無ければ前の日ぶんから繰り越す。紙を重ね、日付を揃え、なるべく通りになるように組んでみる。だから、噛み合うのは偶然ではない。偶然に見えるようにしているだけだ。
十六時三十分、赤いランプが点く。朝には冷えていた部屋へ、機械の熱と人の息が満ちている。
「はい、今日の相談です! ――相手の好きなものを聞きたいのに、聞くと調べたみたいで嫌がられそうです」
「うーん。聞かなくていい。かわりに、見ていて分かったことを一つ言えばいい。外れてても、見てたことは伝わるから。……はい、こんな感じでどうかな!」
僕は指先でスイッチを押し、自分のマイクを生かす。赤い灯りが、爪の縁に小さく映る。
「じゃあ、それ、やりましょう」
流し終えるとすぐ、フェーダーを落とす。声の余熱だけが、狭い部屋の空気に残る。
扉のところに、都築先輩が立っている。廊下の白い光が、肩のところで途切れている。いつからそこにいたのかは分からない。この人は扉の音を立てずに立つ。
「いいねえ。今日のは静かでいい番組だねえ」
「口を出さない主義では」
「褒めるのは口出しじゃないよ。それに、私は番組の話しかしてない」
「番組の話が、いちばん口出しです」
都築先輩は喉の奥で笑い、扉の枠に預けていた肘を離す。それでようやく、扉が小さく鳴る。
「言うようになったねえ、君も」
「先輩がそうしているので」
「私はねえ、番組のためなら何でも言うよ。部が残るなら、なおのこと言う」
この人の言う〈番組〉には、たぶん人が入っていない。声や息は入っていても、それを出した人は外に置かれる。だから、誰のことも傷つけずに面白がれる。
「今朝は、箱の音が重かったねえ」
この人は放送室の中のことなら、たいてい知っている。卓の埃も、鍵の回る音も、箱の重さも知っていて、口だけは出さない。
「聞いていたんですか?」
「音は勝手に入ってくるんだよ。長いことここにいるからねえ」
長いことここにいる、というのは、この人がいちばんよく使う理由である。理由になっていない。それでも、低い機械音のように部屋へ馴染み、たいていのことがそれで済んでしまう。
◇
卓のランプは落ち、部屋には機械の低い唸りだけが残る。熱を持った金属と、紙の乾いた匂いがする。この部屋がいちばん静かになるのは、放送が終わった直後である。
凛が椅子の脚を小さく鳴らし、椅子ごとこちらへ向き直る。原稿はもう机に伏せてある。白い紙の端を、指が押さえている。
「じゃあ、わたしからね。三雲くんがいちばん手放したくない時間は――」
彼女は少しだけまぶたを伏せる。考えているというより、自分の中にもうある答えを確かめている顔だ。
「一人で歩く時間でしょ?」
卓の上の針が、僕の返事より先に揺れる。息を吸った音だけで振れる針を、返事より前の位置へ戻す方法を僕は知らない。機械なら、手順があるはずなのに。
「……なんで、それを?」
「毎日一緒に歩いていれば分かるわ。あれは気を使っている足音」
人の足音を拾うのは、僕の側の仕事のはずである。けれど、拾われる側に回っていたことにも、自分の靴音だけを聞き落としていたことにも、今日まで気づいていない。
誰にも聞かれていないと思っていた音が、そっくり誰かの耳へ入っていた。喉の奥が薄く狭まり、椅子の背へ触れた肩が動かなくなる。その事実は、こわいのとよく似たところにある。
十二番の行に線が引かれる。言い終わってから引くので、ペン先は速い。紙をかすかに鳴らしながら、離れないまま次の行の頭まで滑り、そこで止まる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「……それ、わたしが毎日つぶしてるんだね」
その一言のうしろで、息が細く乱れる。原稿を押さえる指が、紙を巻き込むようにわずかに縮む。
僕は、いまの十二分のほうが、という言い方を知らない。知らないふりでもない。ただ、口に出せば長くなる。長くなった言葉は、たいてい最初と違う場所へ届く。
「言うほどのことじゃないので」
「そういうとこだよ」
「そういうところとは」
「言わないでおくところが多すぎるところ」
言わないでおくと、いつか言う日の重さだけが増えていく。喉を通らなかった言葉は消えず、胸の内側へ積もる。増えたぶんは、たぶん自分で持つことになる。
◇
廊下の曲がり角で、蜷川とすれ違う。窓から伸びた夕方の光が、互いの靴の先だけを照らす。
目は合う。合ったまま、向こうは何も言わない。唇も肩も動かない。数えている側の人間が黙るときは、たいてい、まだ数え終わっていないからである。
すれ違ったあとの数歩は、背中のほうが音をよく拾う。制服の布が擦れる音まで、すぐ後ろにあるように聞こえる。今日は足音が止まらず、そのまま廊下の冷えた空気へ遠ざかっていく。
◇
十七時十分、昇降口を出る。開いた扉から、冷えた空気と乾いた葉の匂いが入ってくる。
十月の日は、この時間からもう傾いている。校門を出ると、影が二つ、道の先へ細長く伸びる。触れそうで触れない幅を保ったまま、歩くたびに揺れる。
十二分の道を、二人で歩く。靴底が舗道を叩く間隔は、いつのまにか揃っている。喋らない日もあるし、今日みたいに、二度ばかり喋る日もある。
「三雲くんの十二分、いつ返せばいいのかな?」
「返さなくていいです。九十日ぶん、まとめて数えているので」
「……数えてるんだ」
数えられるものは、数えているあいだだけ形がある。九十のうちの三十七日目が、いま足の下を通り過ぎていく。踏むたび、道の細かな砂が乾いた音を返す。
「数えるのは、日数と件数だけです」
「じゃあ、あと何件?」
訊かれた数は、いつも同じ場所から出てくる。頭の中の数え方は、日付と、引かれた線の本数の二本だけである。それ以外は、形が変わるので置いておけない。
「あと十八件です。今日ので十二件、済みました」
「ねえ。十八件のうち、いちばん難しいのはどれだと思う?」
「まだ読んでいません」
「読んでないの?」
紙は毎日、彼女の鞄から出てくる。鞄の口が開くかすかな音のあと、折られた紙が指に挟まれて現れる。僕はなるべく残っている上の一行ぶんだけ、読むようにしていた。
「できるだけ順番に読みます。先に読むと、今日が薄くなるので」
「……ほんと、変わってるね」
「そう言われます」
信号待ちで、彼女が思い出したように顔を上げる。赤の光が、二人ぶんの足元まで届き、靴の縁を同じ色に染める。冷えた風が、制服の裾を小さく揺らす。
「ねえ。すれ違った人、何か言ってた?」
「何も」
「そっか」
角を曲がってからも、視線は背中に残っている。もう見えないはずなのに、背中の布だけが、まだ後ろへ引かれているように重い。
「言わない人のほうが、たいてい長く見ています」
「……こわいこと言うね」
駅の改札で、彼女は反対側の階段を降りていく。乗る方向が違うので、別れる場所は毎日ここになる。人の流れと案内の音が、さっきまで揃っていた足音をほどいていく。
「三雲くん。明日の放送、いつもの曲でいい?」
「決めるのは鳴海さんです」
「毎回それ言うね」
毎回そう言っている。決めた人の名前が残るほうが、あとで誰も困らない。責任は、名前のある場所へ戻せるからだ。
「毎回そうなので」
「……つまんないの」
つまらない、と言うときのこの人の声は、つまらなそうではない。語尾だけが、紙の上の跳ねのように軽く上がる。改札の音が鳴り、その続きは向こう側の階段へ降りていく。姿が人の波に隠れても、その跳ねだけは耳に残る。
◇
その夜、賭けが解散しているらしい。校内のあちこちで、めいめい違う声が同じ話をしている。
いつまで続くかを賭けていた側が、金を返してまわっているらしい。締切を三十日にした人も、六十日にした人も、いま残っているのはどちらでもない、という。だいたい賭けというのは、終わりが来ると思っている者どうしでしか成立しないのだ、と別の声が言う。数えている人によれば、あと五十三日である。返された金で買った飲み物を、返した側と返された側が並んで飲んでいたらしい。なら、何が終わったことになったのか。そこだけは、誰の声もまだ決めていない。




