13. 片方ずつ
金曜の放送は、週のうちでいちばん短い。連絡が少ないぶん、相談に使える枠だけは、ほかの日と同じ長さのまま残る。
卓の前に座り、僕は声に合わせて揺れる針を見ている。凛の声は、金曜でも月曜でも、決まって同じ高さから始まる。最初の音を揃えられる人は、たぶん本人が思っているより少ない。
窓は西を向いていて、この時間になると薄い金色の光が卓の縁まで這ってくる。斜めに差す光の筋の中でだけ、埃がゆっくり浮き沈みしている。
「はい、今日の相談です! ――お揃いのものを持ちたいのに、趣味がまるで合いません。相手に合わせて買ったものは、たぶん一度も使われません」
放送室は静まり、僕と凛のあいだには卓ひとつぶんの距離しかない。
聞こえるのは、息だけだ。原稿を読む凛の息は、今日も澄んでいる。
「うーん、これはね。同じものを二つ買わなくていい。かわりに、一つを二つに分ければいい。半分こなら、趣味は要らないから。……はい、こんな感じでどうかな!」
僕は指先でスイッチを押し、自分のマイクを生かす。赤いランプが点く。
「じゃあ、それ、やりましょう」
言い終えるのとほとんど同時に、指でフェーダーを落とす。僕の声は余韻になる前に切れる。
こだまが棚の陰から、待っていたように顔をのぞかせる。
「分ければいい、だって。センパイ、何を割るの?」
「割りません」
「割らずに分けるって、なぞなぞっしょ」
「なぞなぞではありません」
こだまの親指は、録音機のスイッチを入れては切る。赤い点がせわしなく灯っては消え、消えている時間のほうが短い。
「じゃあ答えは?」
「放課後に出ます」
「もったいぶるー。録っとこ」
「録るな」
録るな、と言った回数だけは、たぶん僕のほうが数えている。それでも今日が何度目かは、もう分からない。
◇
十七時、昇降口。
外はもう夕方の青さへ沈み、靴箱の並びの上だけに、遅れた白い光が残っている。下校の波はすでに引き、上履きの底が床を擦る音は、ひとつずつ遠く離れて聞こえる。
僕は鞄の内ポケットからイヤホンを取り出す。左右が別々になる、線の無いほうである。音が少し遅れるため、卓では使えない。始発の電車の中でだけ使ってきた物だ。
いつも出すのは始発の車内だけで、そこ以外で手にするのは、たぶん今日が初めてになる。
右を自分の耳へ入れ、左を凛へ差し出す。
差し出した手のひらに、白い小さな粒が一つ、頼りなく乗る。ここまで来てから、人へ渡すには小さすぎる物だと気づく。指の熱だけが、つるりとした白い表面へ移っていく。
「……これ?」
「片方ずつです。同じものを二つ買うより安いので」
「安いから?」
「理由は一つで足ります」
凛が左をつまんで耳へ入れる。耳もとの髪が指に押され、さらりと戻る。それを見届けてから、僕は再生を押す。
流れ出すのは音楽ではない。校庭の朝、廊下の昼、雨の夕方。校内のどこにでもある音を拾い、順に並べただけの確認用の音源である。
人に聞かせるために作った並びではない。だから、誰かの耳に入ったとき、どう聞こえるのかを、僕は一度も考えたことがない。再生ボタンから指を離してから、そのことに気づく。
二つに割れた片方ずつが、同じ音を同時に鳴らしはじめる。僕の頭の中と、この人の頭の中へ、同じ朝の校庭が同じ広さで広がっていく。耳のあいだの距離は、たぶんゼロである。
誰かと同じ音を同じ瞬間に聞くと、耳の奥ではなく、胸の内側がわずかに詰まる。息を吸うたび、隣の呼吸までこちらへ重なる。それでも、再生を止める指は動かない。
一つめが終わり、次が始まるまでの短い切れ目で、僕は自分の側を外す。鳴らしたままでは、こちらの耳は何の役にも立たない。
「……近い」
外した耳に、その二文字だけが近すぎるほど鮮明に届く。すぐうしろで、息がひとつぶん乱れ、耳の縁をかすかな熱が撫でる。
「これ、なに?」
「音です」
「知ってる。……そうじゃなくて、なんでこれを持ち歩いてるの?」
説明の要る質問は苦手である。答えを短く削ろうとすると、要らない説明ばかりが先に浮かび、舌の裏へ並ぶ。
「耳が鈍った日に、揃え直すためです」
「鈍るんだ、耳って」
「鈍ります。人と喋った日は、特に」
この人と喋った日がいちばん鈍る、とまでは言わない。口にすれば、どうして鈍るのかまで聞かれる。答えはあるが、まだ声にできる長さへ削れていない。
凛は黙ったまま三つめまで聞く。隣の靴音の間隔が伸び、歩く速さはいつもの半分になっている。
「さっきのって、朝の校庭?」
「一つめです。六月の朝で、まだ蝉がいません」
「よく分かるね」
六月の校庭には、朝のうちだけ水を撒く細い音が入る。撒いたあとの土は音を吸うので、足音の角が丸くなる。湿った土の匂いまで耳の奥へ戻り、同じ校庭でも午後とは別の場所に聞こえる。その違いを人に向かって言葉にしたのは、たぶん今日が初めてである。
「順番に並べたのが僕なので」
「そっか。……あのね、これ、二番目のがいちばん好き」
「廊下の昼です」
「うん。声は入ってないのに、人がいっぱいいる感じがする」
その言い方は、僕が三年ぶんの音源から選び出した理由と、ほとんど同じである。胸の内側で、聞き逃しそうなほど小さな音がする。
昼の廊下には、声が無くても人がいる。上履きの底が鳴り、引き戸が滑り、遠くの階段が小さくきしむ。人の輪郭は、声より先に足の裏から来る。それを説明する言葉を、僕はいままで一度も持っていない。その言葉を持っている人が、いま左の耳で同じ音を聞いている。
説明しなくていい相手というのは、たぶん珍しい。珍しいものに当たったら、数えておいたほうがいい。数えておけば、あとから無かったことにはならない。
道の先で、店の看板がひとつずつ灯りはじめ、夕闇に小さな色が増えていく。灯りの下を通るたび、並んだ二人の影が前へ伸び、足もとをくぐって、また後ろへ回る。
駅の手前まで来ると、彼女が鞄から紙を取り出す。
十三番――お揃いのものを持つ。
片手に鞄を提げたままなので、紙を膝で押さえ、残った手を斜めに引く。線の途中に指の跡が残り、そこだけインクが薄くかすれる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「明日、返すね」
「片方だけ持っていてください。返されると、揃ってしまうので」
「……揃ったら困るんだ」
困る、という言い方をこの人はよく使う。口もとはわずかに上がり、目はまっすぐこちらを見ている。
「困りはしませんが、返した瞬間に十三番が嘘になります」
「終わらせない気だ」
「終わらせる気しかありません。九十日で三十件です」
駅の灯りが、線路の向こうで端から一列に点く。薄暗い空を電線が黒く切り、改札まではあと少しである。
「三雲くん、片方でだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶです」
「即答」
「即答できることしか、即答していません」
左が僕の手元へ戻らなければ、次に始発へ乗る朝は、片方しか塞げない。
始発にも人はいる。眠っている人ほど息が近い。隠す気が無いぶん、服の擦れる音も、喉の鳴る音もよく聞こえる。両方を自分の音で塞いでおけば、着くころには耳が元に戻っている。片側だけでどうなるのかは、まだ知らない。
知らないまま渡したのは、たぶん、返されるほうが困るからである。
◇
その夜、真似が始まっている。
同じものを買いに行った人がいるらしい。二人で分けるのだと聞いて、まず二つ買ってしまった人もいるらしい。それでは意味が無いと笑った当人が、その足で自分も一つ買っていたらしい。数えている人によれば、あと五十日である。校内で、左右が別々になるものを片方ずつ持って歩く二人組が増えたのは、たぶん今週からである。




