14. 焼き方
火曜の放送は連絡事項が多い。委員会、落とし物、明日の集会。順に読み終えると、卓の上に張っていた空気がほんの少しゆるみ、次の声を待つ静けさへ変わる。
「はい、今日の相談です! ――手作りのものを渡すのは、重いでしょうか。渡した瞬間の顔を想像すると、作る手が止まります」
「うーん。渡さなくていい。かわりに、その人の前で作ればいい。渡すのは物だけど、作るところは時間だから。……はい、こんな感じでどうかな!」
僕は指先で自分のマイクを生かす。赤いランプが点き、口元のかすかな息まで拾い始める。
「じゃあ、それ、やりましょう」
言い切るのと同時に、フェーダーを落とす。声の余韻が、ヘッドホンの奥で細く切れる。
顔を上げると、都築先輩が扉の枠に肘を掛けている。蝶番の鳴った記憶はない。
「調理室ね。家庭科の先生には私が言っておくよ。番組の素材だからねえ」
「鍵と後片付けはやります」
「そういうところが便利でねえ、君は」
聞こえるのは、息だけだ。便利、という言葉の下で、この人の息はまるで動かない。
便利だと言われて眉も動かさない人間は、たぶん便利にされ慣れている。慣れは反応を消すだけで、引っかかったものまで消すわけではない。
◇
十七時、調理室。
この部屋は放送室より天井が高く、声が白い壁とステンレスの台に当たって返ってくる。ガスの元栓を開けると、冷たい金属の匂いが一瞬だけ鼻をかすめた。
凛が卵を三つ割り、菜箸で白身を切る。切るというより、透明な筋を持ち上げては落としている。器の底で白身が切れる音は、思っていたより低く、湿っている。
「泡立てちゃだめ。空気が入ると、あとで固くなるから」
「祖母も同じことを言います」
「じゃあ、火は?」
「弱め、と言われました」
「うちは強めなの。焼けたら巻く。迷ってると固まるよ」
言い方が短い。放送のときのやわらかい声とは違い、単語の端が短く、迷いなく切れていく。
調理台のコンロは家のものより火が強い。青い炎は低く唸り、油は細かな粒になって跳ねる。その高さを見れば、焼き加減が分かるらしい。
「流派が違いますね」
「流派って」
僕は卵を割る。一つめには殻が落ち、二つめは手元から滑って流れ広がる。
「あ……」
機械の配線なら、目をつぶっても順番を間違えない。卵は目を開けていても言うことを聞かず、指にぬるい白身だけを残す。
凛の肩が揺れ、こらえていた笑い声がこぼれる。
「機械にはあんなに丁寧なのに」
「機械には殻がありません」
「殻のせいにした」
「明らかに殻のせいです」
卵の焼ける匂いは、二層になって湯気とともに上がってくる。下の層は熱い油で、上の層はほのかに甘い。鼻へ届く順番まで、祖母の台所と同じである。
凛は僕の手元を見つめ、口を出す前にいちど浅く息を吸う。喉の奥で言葉を止め、そのわずかな間に、言うか言わないかを決めているらしい。
「持ち方、逆。柄はもっと手前」
「はい」
「力、入れすぎ。卵は逃げないから」
「逃げませんか?」
「逃げない。焦がすと固まるだけ」
何度か失敗した後、ようやく卵焼きらしい形になる。巻こうとしたところで、凛の手が僕の手の上へ重なる。フライパンの柄ごと動かし、手首の角度だけを直す。
重なっているのは三秒もない。それなのに、その三秒のあいだだけ、指へ伝わる温度が近くなり、油の跳ねる音は扉の向こうほど遠くなる。
「そこで待たない。待つと固くなる」
「はい」
「もう一回。……そう、それ」
油の音が変わる。細く高い音がほどけ、低い音だけが底へ残る。そこで巻けばいい。今日の学びは、それで十分である。
教わったことは、たいてい一度で覚える。けれど今日のように、手順ではないもの――重さや温度や手の置かれ方まで、余計に残るのは珍しい。
「……お母さんにも、教えたこと無いんだけどな」
その一言のうしろで、凛の息がかすかに乱れる。コンロの火は同じ高さなのに、声の終わりだけが薄く揺れた。
「お母さんは他を作る人なので」
「そう。わたしは卵焼きだけ。他は全部お母さん」
「なぜ卵焼きだけ?」
「……朝に一つだけ、自分で決めたいことがあるから、かな」
窓の外はもう暗く、ガラスに白い蛍光灯だけが映っている。調理台の上では、卵の湯気と甘い匂いだけが、灯りのようにほどけていく。
朝に一つだけ自分で決めたいことがある、と言う人が、放課後には人の相談へ迷いなく答えを出す。その答えは、ずっと前から用意されていたように早い。
自分のことだけ言葉にならない人が、どうして他人のことなら言えるのか。僕にはまだ分からない。分からないまま、柄の熱を確かめるように、フライパンを握り直す。
◇
覗きに来ていた一年が、皿の端を指先でつまみ、割れ物より慎重に持ち上げる。
「三雲先輩の、上手ですね」
その息は、言葉から半拍遅れて乱れる。目だけが皿の上から逃げた。
どうでもいい嘘は、よく鳴る。褒める声だけが不自然に明るい。上手ではない。四つは無駄にしている。
それでも、口に入れば味は同じである。上手かどうかと、うまいかどうかは、どうやら別の話らしい。
一年は皿を持ったまま、その場から動かない。卵焼きを見下ろし、唇を湿らせてから聞く。
「……食べていいですか?」
「どうぞ」
換気扇の低い音の下で、箸が皿の縁に触れ、かちりと鳴る。切り口から、まだ白い湯気がほどけている。
凛が紙を取り出し、濡れていない調理台の端へ広げる。
十四番――相手のために何かを作る。
手を洗ってすぐ線を引くので、紙が湿り、線はいつもより太い。にじんだ端が、行の下へ少しだけはみ出している。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「木曜のお弁当、卵焼きにするね」
「僕のぶんは要りません」
「作るとは言ってないよ?」
「……失礼しました」
凛は菜箸の先についた泡を水で流しながら、少しだけ顎を上げる。言葉を出すか引っ込めるか迷うとき、この人はいつもそうする。
「でも、一つ持ってく。台本に無いけど、持ってく」
「いつですか?」
「明日はお母さんが早いから、あさって。木曜ね」
「十四番は今日で終わりました」
「終わったから、あさってのは別の話でしょ」
台本の外に、用事が一つ増える。増えたぶんを、僕はどこへ数えればいいのか分からない。日数にも件数にも入らず、終わりの線も引けない予定は、この九十日で初めてである。
鍵を返し、流しを拭き、換気扇を止める。水でこすっても油の匂いは袖に残り、朝まで指先を甘く包む。
今日ぶんの機材整備は、そのまま明日の朝へ倒す。倒した先で待つのは、始発の電車と、まだ誰もいない放送室だ。
◇
十八時、いつもの道を駅まで歩く。街灯の下で、並んだ影が細長く伸びる。今日も一番の掛かる日である。
夜の道は昼より音が遠い。街灯の白い輪の外を、自転車が一台、風を細く切って通り過ぎていく。
「片方、まだ返さないよ」
「返さなくていいです」
「言うと思った」
そう言いながら袖を鼻に近づける――。
袖から立つ甘い匂いに、彼女は何も言わない。言わないことを選んでいる。
明日の朝は始発になる。暗い車内で塞げるのは、右だけである。
◇
その夜にはもう、味方が出はじめているらしい。
放課後の調理室から、甘い匂いがしたらしい。一年が一つ分けてもらったらしい。うまかったのかと聞かれて、その一年は、うまかったですと答えたあとで、いや、そこじゃないです、と言い直したらしい。そこじゃないなら、どこなんだろう。話を面白がるだけだった何人かも、今週からは少し庇うようになっている。数えている人によれば、あと四十六日である。




