↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/30

15. ついでみたいに

 朝、教室へ入ると、白い光のたまる机の上に、小さな包みが一つ置いてある。


 包みを開くと、卵焼きが一切れ入っている。表面には甘い匂いが薄く残り、焼き色は僕が焼くものより均一だ。端の一枚だけ、巻き終わりが少し厚い。


 もう冷めているのに、包みの内側にはまだ湯気の跡が残っている。指で触れると、薄い曇りが紙へ張りつく。作ってから家を出るまでの時間の短さが、その曇りぶんだけ分かる。


 台本の三十件には、こんな行は無い。一昨日で十四番は終わっていて、今日の行には別のことが書かれている。


 聞こえるのは、息だけだ。教室の音の底では、誰の息も原形をとどめない。だから、これを置いた人が今どんな顔をしているかは、僕には分からない。


 昨日の朝は始発だった。片方しか塞げないまま乗る車内は、思っていたより長い。空いた側から、レールの継ぎ目も扉の警告音も、人の息も入り続ける。着いたときにはもう、耳が半分だけ働いていた。


     ◇


「……どうだった?」


 昼になってから、凛が席のそばで足を止める。上履きの先がこちらを向き、視線だけが空になった包みへ落ちる。


「厚いところが、いちばん良かったです」


「そこ、失敗したところなんだけど」


「では、失敗が良かったです」


「三雲くん、ほんとに正直だね」


 正直なのではない。厚いところが良かったのは本当で、僕には本当のことしか言えないだけである。凛は口元を少しゆるめて離れていく。空の包みには、まだ甘い匂いが残っている。


       ◇


 十六時三十分。赤いランプが点く。空調の低いうなりも椅子のきしみも、部屋の奥へひとつずつ引いていき、マイクの前の息だけが近くなる。


「はい、今日の相談です! ――家族に会わせるのが怖いです。会わせるとなると、こっちがかしこまってしまいます」


「うーん、これはね。かしこまって会わせなくていい。かわりに、いつもの場所で、ついでみたいに会えばいい。用事のついでなら、逃げ道が両側にあるから。……はい、こんな感じでどうかな!」


 ついで、という言葉だけがヘッドホンの内側に残る。僕は指先で、自分のマイクを生かす。


「じゃあ、それ、やりましょう」


 言い終えてすぐ、フェーダーを落とす。マイクの赤が消えてから、自分の息が少し速いと分かる。


 こだまが録音機を頭の上で回している。黒いストラップが蛍光灯を横切るたび、白い光が細く切れる。


「ついでみたいに、だって。センパイの家族って、どんな人?」


「祖母です」


「それだけ?」


「それだけです」


「短いのよ、話が」


 短くしているのではない。家のことを説明する言葉を、僕はもともと持っていない。探すと、古い換気扇の音や炊飯器の湯気ばかりが先に出てくる。それを人に渡せる形にする方法が分からない。


       ◇


 十七時、校門。


 この時期の十七時は、もう校舎の影が校門まで届いている。足元のアスファルトから冷えが靴底へ上がる。塀の上にだけ細い日の色が残り、ざらついた白を薄い橙に染めている。


 塀のそばに、祖母が立っている。買い物の袋を二つ提げ、病院の帰りだという顔で、何でもないようにこちらを見ている。袋の持ち手に押された指先だけが白い。


 もちろん、こうなる可能性も考えてお題を合わせたのではあるが、ここまで出来すぎていると、何らかの運命の手の悪戯を感じないでもない。


「近くまで来たからね」


「近くではありません。二駅あります」


「ははは、あんたの学生生活も見ておかないとね」


 下校の波が、ちょうど切れる。靴音と笑い声が角の向こうへ流れ、門の外では、塀のそばだけが水を引いたように静かになる。


 聞こえるのは、息だけだ。この距離なら、袋の持ち手が指に食い込む音まで届く。


 祖母の息は、待っていた時間のぶんだけ落ち着いている。冷えた指を曲げ伸ばししても、呼吸の幅は変わらない。ここに立っていたのは、たぶん一分や二分ではない。


 凛の靴底が舗道をこする。彼女は一歩前へ出て、頭を下げる。


「二年三組の、鳴海凛です」


 僕は紹介の言葉を持っていない。学校の人です、としか言えなかった。それでは足りないと分かるのに、その先が続かない。空いたところを、凛が自分の名前で埋めた形になる。


 祖母は袋を片方持ち替える。ビニールが乾いた音を立て、その音が消えるまで凛の顔を見ている。


「凛さん。卵焼き、うちの子が焼けるようになったって」


 その名のうしろで、息が乱れる。制服の袖口が、手首のところでかすかに揺れる。


 僕は家で、この人の話をしている。話した覚えのある回数より、たぶん多い。口にした言葉は僕に残っていないのに、祖母の中には名前まで残っている。


 家の中で人の名前を出すのは、外で出すより難しい。狭い食卓では、その名前が湯気より長く残る。難しいはずのことを、僕はいつのまにか何度もやっている。


「……三雲くん、家でわたしの話するの?」


「祖母が聞くので」


「聞かれたら答えるんだ」


「嘘をつくほどのことでもないので」


 そこへ、こだまが肩と肩の間の空気を押し分けるように、横から滑り込んでくる。


「センパイのおばあちゃん、だって。こんにちは! 伊吹こだまです。一年です」


「あら、元気」


「センパイ、家で何話してるんですか?」


「話していません」


「話してるって今言ったっしょ」


 祖母が笑う。笑い方は、僕の記憶にあるのと同じ形をしている。声は夕方の塀に当たり、少し丸くなって返る。この人が声を出して笑うのを家で聞いたのがいつだったか、僕はもう思い出せない。思い出せないのに、耳は迷わず知っている。


       ◇


 紙を塀に当て、立ったまま線を引く。風が下から入り、紙の角が指先を打つ。


 十五番――家族に会う。


 立ったままの紙は安定しない。風を含んだ端が細かく鳴る。彼女は左手の甲を紙の上へ添え、それでも一度で引き切る。


 塀のざらつきが線に出る。まっすぐのはずの黒が、紙の上で息を移したように細かく震えている。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 祖母が袋をこちらへ寄越す。米と、洗剤と、なぜか大根が一本。袋越しでも、重さが別々の方向へ引くのが分かる。


「持ちます」


「そこのスーパーで安かったんでね。持ってもらえばいいやって」


「そう言うと思っていました」


 凛は大根へ手を伸ばしている。


「わたしも持つ」


「大根は重いです」


「大根がいい」


 いつもの道を駅まで歩いていく。今日は祖母とお米と大根がついてくるが不思議となじんでいた。


 祖母が僕の子どものころの話をはじめる。僕はそれを止めない。訂正するところはあるが、止めるほどの話でもない。


「この子はね、しゃべらないんだけど、黙々と凄いことやるのよ。まだ小さかった時分に、うちの壊れたラジオを分解したのよ」


「直したんですか?」


「直ったけど、ねじが三本余ったの」


「余ったねじは、要らないねじです」


「ほら、こういう子」


 凛が笑う。息は乱れず、喉の奥から明るい音がまっすぐ出る。そんな笑い方を、僕は初めて聞く。この人は、たぶん台本の内側にいる。その音だけは、紙をめくらなくても続いている。


「余ったねじの話、もっと聞きたいです」


「やめてください」


「聞かせて。あとで役に立つかもしれないでしょ」


「役に立ちません」


 僕は歩きながら、袋の持ち手を右から左へ替える。米の角が腰に当たる位置を変えたのだ。


「透は昔から、こっちが話しかけても半分しか返さない子でね」


「半分は返しています」


「半分でしょう」


 街灯が点きはじめ、三人ぶんの影が、前と後ろに一つずつ伸びる。薄い橙の中で、影の先だけが重なったり離れたりする。歩く速さは、いちばん遅い人に合う。今日いちばん遅いのは祖母で、そのぶん道は長くなる。


 長くなった道を、僕は短くしたいと思っていない。袋が鳴る音と、凛の持つ大根の葉がこすれる音が、同じ速さで続いている。遅く歩くことに理由があるという日は、そう多くない。


 長くなった道の途中で、凛はもう一度だけ、袋の持ち手を握り直す。大根の葉が肩の高さで揺れ、街灯の下を通るたび、緑が浮いては消える。


 長いことがうれしい――この帰り道が、いつの間にか自分にとって大切なものになっていたらしい。そう思うようになったのがいつからなのかは、思い出せない。


       ◇


 その夜にはもう、家族公認らしい、という声すら校内に混じっている。


 校門の前に、知らない大人が立っていたらしい。荷物を持たせていたらしい。親戚じゃないか。いや、店の人だろう。あれは親戚だという説と、店の人だという説が廊下でぶつかり、どちらにも根拠は無い。名前の付いていない話は、口から口へ渡るほど本当らしい形になり、ここまで来ると誰にも取り消せない。数えている人によれば、あと四十四日である。大根が一本、袋から突き出ていたという一点だけは、なぜか全員の話で一致している。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。