16. 十五分だけ
文化祭の朝は、靴音も笑い声も、ぜんぶ半音高い。
廊下には段ボールが積み上がり、紙とテープの乾いた匂いがする。いつもなら音を返す壁が、今日はどこにも無い。反響を失った校舎は、僕には知らない建物とほとんど同じである。
放送部は特番を出す。廊下に机を並べて卓をもう一つ増やし、朝から夕方まで、声を切らさずにつなぐ企画である。言い出したのは三年生だ。
「一年に一度の生放送だよ。これが番組でしょ」
「番組ばかりですね」
「番組しか無いんだよ、私には」
都築先輩は大きく手を振る。足取りまで弾ませ、来賓を迎える机のほうへ、人の列を縫って消えていく。
廊下の卓まで延びる配線は、昨日の夜のうちに引いてある。床を這う黒い線も、今は幅広のテープの下だ。こういう仕事は、たいてい誰の目にも触れないところで終わる。
卓の割りは、今日は僕が全部持つ。凛は案内と読み上げ、こだまは録音と外の中継。二人とも係から離れられない。動けないというより、動ける時間が、今日の予定表にはどこにも空いていない。
「センパイ、昼どうすんの?」
「抜きます」
「抜きますって」
「空きが三か所しかないので、抜いたほうが早いです」
「うわ、こわ」
こだまは録音機の頭を指先で弾き、返った小さな音で入りを確かめる。口元は笑っても、手だけは止めない後輩である。
「こわくはありません。並べ替えただけです」
「並べ替えて自分が消えるの、こわいっしょ」
消えているつもりはない。予定を並べ替えて空いたところへ、今日は一つだけ入れたいものがある。その欄だけは、朝から何度見ても白い。
十時の予定表を読み上げる声が、廊下のスピーカーから返ってくる。目の前の生声と、壁を回ってきた機械の声が、半拍ずれて重なる。
ずれて届くほうの声のうしろに、細い息が混じる。読み上げの息は、いつもより短い。
短い息で読む人は、たいてい、その先まで予定で塞がっている。
◇
正午の廊下では、人が肩と肩をぶつけながら流れていく。
焼きそばの甘い油の匂い、乾ききらない絵の具の匂い、体育館の扉から漏れる音楽。どれも強い。それでも、人波の中では輪郭だけが溶けている。
これだけ人が並ぶと、息はぜんぶ混ざる。誰のものでもない湿った厚みだけが耳に残り、そのなかから一つを抜き出せない。今日は、見ることしかできない日である。
目で拾えるのは、凛が入口の机で来た人の数を正の字にしていること。数えられるものを、この人はたいてい数える。
あとは、その正の字が二画目の途中で止まり、筆の先だけが廊下のほうを向いたまま、宙に浮いていること。
耳が使えない日は、目が二倍働く。どれだけ働いても、拾えるのは、彼女の手が止まっているという事実だけだ。
「三雲くん。今、何時?」
「十二時六分です」
「……そっか。ありがと」
時計は彼女の後ろの壁に掛かっている。首を少し回せば、すぐ見える位置である。
振り返らず、人へ聞く。時刻を知りたいときの聞き方ではない。では、何を確かめるための問いなのか。僕のなかには、その答えを置く欄がない。
答えのないまま、僕は卓へ戻る。
◇
十四時三十分。特番のざわめきのなかでも、相談の枠だけはいつもの形でやって来る。
机を一つ挟んだ向こうで、彼女は原稿の角を指でそろえる。紙が小さく鳴る。この動作だけは、廊下でも放送室でも変わらない。
「はい、今日の相談です! ――一緒に文化祭を回りたいのに、係の時間がずれていて、けっきょく一度も会えません」
台本の上を歩いているあいだ、この人の声は今日も澄んでいる。息継ぎの位置まで、線で決まっているように揺れない。
「うーん、これはね。ぜんぶ回らなくていい。かわりに、一つだけ、二人で決めて回ればいい。ぜんぶ回った人って、たぶん何も覚えてないから。……はい、こんな感じでどうかな!」
僕は自分のマイクを生かす。指を置いたスイッチが、かすかに冷たい。
「じゃあ、それ、やりましょう」
返事を待つ前に、指でフェーダーを落とす。
「十五分だけ、卓をお願いします」
「はいはい。借りがまた増えるっしょ」
「増えます」
この後輩は借りを口にする。けれど、返せとは一度も言わない。
「増えますって、自分で言うんだ」
「数えているのは、そちらなので」
「数えてないってば。覚えてるだけ」
こだまは椅子を回して卓へ着く。指はもう次のつまみを押さえていて、手つきは僕より速い。速いのに、この後輩はいつも、前に出る場所だけを僕へ回してくる。
速いほうが黙って下がり、遅いほうを前へ出す。この後輩は、そのやり方を借りと呼ぶ。
凛は案内の札を一年へ預けに行く。誰にも頼まれないうちに、自分から声をかけ、自分で頭を下げている。
◇
二年一組は、教室の窓を暗幕でふさぎ、天井いっぱいに星を映している。
中は暗い。客は僕たちのほかに二人しかいない。外のざわめきは幕一枚ぶん遠く、誰かが重心を変えるたび、床板が乾いた声で鳴る。
暗幕の内側は、外より二度ぶんほど暖かい。人の熱と機械の熱が、黒い布に押し返され、逃げ場を無くして溜まっている。
聞こえるのは、息だけだ。
隣の息は、入ってきたときより浅い。吸うたびに肩がわずかに上がり、そのまま天井の星がひとまわりする。
映っている星は、本物の空とは並びが違う。違っていても、暗いところで隣り合って見上げれば、目には同じ光として残る。
「……人の多いところ、ほんとは苦手なの」
暗がりで、隣の息の間隔が崩れる。
一日じゅう入口に立ち、来た人の数を数えていた人が言う。正の字を増やしていたのは、たぶん、手を動かしていないとそこに立っていられないからである。
「放送では平気そうです」
「あれは台本だから。台本の上なら、どこにでも立てるよ」
「では、ここは」
暗幕の内側では、声が布に吸われ、短く足元へ落ちる。そのぶん、行き場のない息だけが長く残る。
「ここは、外」
「暗いので、外には見えません」
「暗いから外なの。顔が見えないところは、ぜんぶ外」
顔が見えないところが外なら、放送室のマイクの前も外になる。それでもあそこに立っていられるのは、台本が足元を支えるからだろう。紙の上に線があれば、この人は迷わずそこへ立てる。
暗がりの中で、鞄から出した紙の白さだけがぼんやり浮く。ペンの尻が、膝の上で二回鳴る。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
手元が見えないせいで、線は十六番の行の下をかすめ、少し斜めに走る。項目の字にはほとんど掛かっていない。それでも彼女は、ペンを戻さない。
「見えなくても、引いたら引いたことになるでしょ?」
「なります」
引いたことになる、という数え方は、もともと僕のものだった。今日は、それを向こうが使う。暗くて顔は見えないのに、紙を押さえる指だけが近い。
幕を出た瞬間、光が目の奥へ刺さる。
耳より先に、目のほうが戻らない。まぶたを閉じても、その裏に星の形が白く残る。さっきまで隣にあった息だけが、急に遠い。
展示の入口脇、白い廊下の光の中に、汐見さんが一人で立っている。
人の流れの端で、こちらをまっすぐ見ている。目が合う寸前、彼女は肩をひねって人波へ入り、そのまま人波の色にまぎれて見えなくなる。
立っていたのは、人の流れがいちばん切れやすい場所である。誰かを待つ立ち方ではない。誰かが出てくる瞬間だけを見るための立ち方だ。
凛は気づかない。案内の時間なので、もう札を胸に抱えて歩き出している。
◇
十六時。仮設の机の裏で、蜷川が紙の写しを広げ、両端を指で押さえている。
「文化祭を二人で回る、って書いたんだけどな」
「回りました」
「十五分だろ?」
「何分回れとは書いてありません」
「……書いてねえよ。書くわけねえだろ、そんなの」
彼は写しを畳み、その硬くなった角で自分の額を軽く叩く。紙の音だけが、妙にはっきり届く。
「なあ。あいつ、昔から、頼まれたら断らないんだよ」
「知っています」
「知ってて、やらせてんの?」
蜷川の語尾は、いつも同意を取りにくる形で上がる。声は上がっても、目は答えを待たず、こちらへまっすぐ止まっている。
昔から、という言い方をこの男が使うのは二度目である。一度目は九月。誕生日の話をしたときだ。
「僕がやらせているのは、僕の側だけです」
「同じことじゃん」
「違います。断れる相手にしか、頼まないので」
蜷川は口を開き、何か言いかけて閉じる。人の多い日は、彼の声でさえ周りへ混ざる。
混ざっても、この男の声だけは耳の奥に残る。人混みの中でも残るように喋る癖が、もう身についている。
十七時、閉会。ざわめきが拍手のあとからほどけていく。片付けは音響の担当なので、僕の仕事である。
机を運ぼうとすると、凛が袖をまくり、反対の端を先に持ち上げる。天板がわずかに傾く。
「係、終わったのでは」
「終わったよ。だから来たの」
「台本には?」
彼女は机の脚のほうを持ち直し、滑らない位置へ指を順に置く。運び方を知っている手である。
「無いよ。無いけど、来たの」
「重いので、そちらは持たなくていいです」
「持つ。今のは引き算の答えになってないよ」
引き算の答えを、この人は自分には使わない。使えば、片付けに残る理由まで消える。だから、机の向こうの指は離れない。
十八時、昇降口を出る。外気が、昼の匂いを服から薄くはがしていく。今日は登校日なので、この道も対象日である。
人がいちばん減った時刻の校舎は、朝より静かである。机を引く音も、遠くの笑い声ももう薄い。人が引いてようやく、すぐ隣の息が、誰のものでもない厚みではなく、また隣の息として聞こえる。
同じ速さで駅まで歩く。荷物のぶんだけ、歩幅はいつもより短い。短いぶんだけ、隣の時間は長くなる。
◇
その夜の噂は、外から来た客の話で膨らんでいる。放送室の前に行列ができていたらしい。中を見た者はいない。それなのに、閉じた扉の前で足を止めた者は多かったらしい。特番の中身より、扉の話のほうが遠くまで届く。誰かが扉の話を足し、別の誰かがまた運ぶ。けれど、中で何があったのかを言う者はいない。数えている人によれば、あと四十二日である。数える声は、先月より低く、静かになっている。




