17. 放送部やめれば
朝の放送室には、僕以外の気配が消える時間が十分だけある。蛍光灯を点ける前は、窓から差す薄青い光だけが、卓の角とマイクの網を冷たく浮かせている。
その十分のために、僕は毎朝ひとつ早い電車に乗っている。眠そうな車内も、冷えたつり革も、そのための手順に入る。誰にも頼まれていない。だから、誰にも言っていない。
鍵を開け、扉の横の木の箱を空にする。今日は四通。文化祭の礼が二通、部活の勧誘が一通。紙から、木と古い埃の匂いがする。
四通目だけは、指の跡が残るほど固く丸めてある。
丸めた紙は、開くときに音が出る。静かな朝には、乾いた擦れが壁まで届く。紙の立てる音のなかで、いちばん大きいのがこれである。
指で皺を押し広げる。見覚えのある字が、紙の谷をまたいで並んでいる。
〈放送部やめれば〉
同じ手が書いたものを、前にも一度、ポケットへ入れている。紙の角が脚に触れる場所まで、よく似ている。
僕はそれを丸め直し、また同じところへ入れる。箱から出した紙は捨てない。捨てないが、これを机にも並べない。布越しの小さな硬さだけが残る。
見せて減るものは、すぐに思いつく。増えるものは、一つも思いつかない。差し引きが合わないなら、見せないほうへ置く。
一通目のときも同じ順で考えて、同じ答えを出している。二度同じ答えが出るなら、たぶんそれで合っている。僕は、合っている答えを変えない。
紙箱から以前の投書を出し、並べて、今日の一通を決める。決めたものを残して紙箱へ戻す。窓の光が卓の中央まで届くころには終わる。ここまでが、あの日の次の朝から続いている十分である。
◇
昼、廊下側の席で借りたペンを返す。開いた窓から入る風が、プリントの端と制服の袖を同じ向きへ揺らしている。
返す前に、軸の、握っていたところを袖で一度拭く。プラスチックのぬるさが布へ移る。人の物は、借りたときの温度で返したい。
「はい、ありがと。……あ」
ポケットの口から、丸い紙が二つ、白い球のように床へ落ちる。
落ちる音はほとんどしない。教室には話し声も椅子を引く音もある。それなのに、この教室でいちばんよく聞こえる音になる。
凛が先に拾う。二つとも手の内に包み、握ったまま開かない。
「これ、ごみ?」
何かを勘づいた凛が、いたずらっ子の目で僕を見つめる。
「……いいえ」
「じゃあ、持ってていい?」
「……はい」
彼女は二つを制服のポケットの奥へ入れる。入れるときに、指が一度だけ止まる。爪の先がポケットの口を押し、それから離れる。
止まった指のぶんだけ、僕は何か言うべきだった。喉は、声を出す形に動く。言葉のほうは浮かばず、代わりに昼の予鈴が窓ガラスを細く震わせる。
◇
十六時二十分、放送室。西日が細長く差し込み、机の上で紙は二つとも平らに広げられている。
皺を伸ばされた紙は、折れ目ごとに細い影を抱え、丸まっていたときより大きく見える。二枚とも、字の大きさはまったく同じである。
「これ、なに?」
「箱に入っていたものです」
「いつの?」
「今朝と、前に一度」
彼女は二つを机の同じ向きへ並べ直す。紙の端を揃える音が、ひどく丁寧だ。並べ直してから、顎は動かさず、目だけをこちらへ上げる。
「わたし、聞いてない」
「はい」
彼女は紙の皺を、手のひらで一度だけ伸ばす。掌の下で、乾いた紙が低く鳴る。
「なんで?」
理由を言えば、言い訳になる。言い訳は、言った側だけが楽になる。軽くなったぶんは、聞いた側へ移る。そういう仕組みだ。
僕は黙る。舌を歯の裏へ押しつける。
黙っているあいだ、卓の低い唸りだけが部屋にある。閉め切った空気はぬるいのに、指先だけが冷える。いつもは背景に沈む音が、今日は耳の内側へ押し込まれてくる。
「毎朝、開けてるんだよね。鍵、三雲くんが持ってるから」
「はい」
「開けて、どうしてるの?」
「机に並べます」
声に出した途端、毎朝の十分が、ひどく長い手続きに聞こえる。実際には、紙を四枚並べて一枚を選ぶだけである。指なら、すぐに終わる。
「並べて?」
「その日に読む一通を、選んでいます。件のある日は、噛み合うものを」
「ふぅん……。で、投書の中にコレがあったのね?」
「……はい」
「なんで黙ってたの?」
彼女の指が、机の端で一度だけ止まる。爪が木目に触れたまま、先だけ白くなる。
「いや、それは……」
「二回もあったのに黙ってるの?」
「はい……」
彼女は椅子の背に体をあずけて、天井の蛍光灯を見る。白い光の筋が瞳の表面に映る。見上げたまま、指だけが机の端を二回叩く。音の間は、同じ長さではない。
「わたし、三雲くんはもっと私のこと分かってると思ってた」
「はい……」
彼女は椅子から立つ。脚が床を短く擦る。扉の横の箱を自分で開けた。昼のうちに入った一通がある。今朝、僕が机に伏せておいた一通は、伏せたままである。
「ふぅん、この相談は……。そうね、今日はこっちを読む」
「わかりました」
十六時二十五分、ランプが点く。赤い光が、彼女の頬と伏せた紙の端を照らす。
「……はい、今日の相談です。――本当のことを言ったら、たぶん嫌われます。黙っているほうが、優しいですか?」
いつもの跳ねが、頭の一文字から抜けている。抜けたぶんだけ、声の輪郭が台本へ平たく貼りつく。
その声は澄んでいる。台本の上から外れないかぎり、息も語尾も乱れない。だからである。
彼女はいつもどおり、答えを紙に書く。ペン先だけが、蛍光灯の下で黒く動く。書いてから読むのが、この人の順番である。
「黙ってるのは優しさなんかじゃないわ! 絶対よ!」
ふんっと鼻を鳴らすと、マイクを切る。ランプの赤が消え、卓の金属だけが夕方の光を返す。
聞こえるのは、息だけだ。
「わたしに黙って、勝手に進めないで」
息が乱れる。言葉の端に呼吸がぶつかる。台本の外に出た声である。
「わたしだって関係者だよ。知らないままなの、変でしょ?」
ここで言う言葉を、僕は一つだけ持っている。舌の上には、もう形までできている。この九十日のあいだ、放送のたびに言ってきた言葉である。
言えば、今のも手順の一つになる。消えたランプの向こうまで、いつもの放送に戻してしまう。
僕は言わない。できかけた形を、奥歯の内側へ押し戻す。
言わないでおくと、いつか言う日の重さが増える。前にそう思ったとき、その日はもっと先にあるはずだった。
「……なんか言ってよ」
言わないことを、彼女はもう一度待つ。待たれたぶんだけ、喉の奥が狭くなる。
彼女は二通をそのまま自分の鞄へ入れる。ファスナーの音が短く走る。それから、あの紙を出し、机に置かずに立ったまま広げる。紙の端が指の力で震える。ペンの尻が二回鳴る。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
ペン先が紙を押し、十七番の行に強い線が入る。擦れる音が止んでも、裏まで跡が残っている。
引き終えた紙は、鞄ではなく彼女の手のなかに残る。縁をつまむ指先だけが白い。
「……これ、今日ので済んだから」
「はい」
「書いてあるから済んだの。わたしがそう思ったからじゃないよ」
書いてあるから済んだ、という数え方を、僕はこの九十日でずっとしてきた。同じ数え方を返されると、言葉は紙より硬い。喉の入り口で止まり、下へ落ちない。
「わかりました」
「わかりましたって、返事じゃないでしょ」
「……はい」
◇
廊下の窓のところに蜷川がいる。夕方のガラスに横顔を重ねたまま、中は見ていない。見ていなくても、扉の閉まる音でだいたい分かる人である。
「喧嘩しろとは書いた」
「はい」
「こんなのは書いてねえよ」
「何を書いたのかは、僕にも分かりません」
蜷川は写しを持っていない。持っていないのに、書いた文言のほうは、紙が目の前にあるようにはっきり覚えている。
「いや、俺が書いたんだけど」
「書いた人にも分からないなら、なおさらです」
「……お前さあ。今日、いつものあれ言ってないだろ?」
「言っていません」
彼の語尾が、めずらしく上がらない。廊下の空気へ、まっすぐ落ちる。
「なんで?」
「何でもです」
蜷川は窓の桟に肘を置いて、廊下の先を見る。触れたガラスが薄く曇る。窓の外はもう夕闇に沈みかけていて、校庭の白線だけが光を残して浮いて見える。
「……なんかあったの?」
「ありました」
「聞かないほうがいい?」
「聞いても、僕は言いません」
「だろうな」
十七時十分、昇降口を出る。日が落ちたあとの空気が、襟元から制服の中へ入る。今日も対象日である。
同じ速さで駅まで歩く。十二分のあいだ、どちらも一言も喋らない。アスファルトを踏む音だけが、交互に続く。
歩く速さを合わせれば伝わる、と彼女は放送で言っている。今日は、合っているほうが痛い。靴音が重なるたび、肋骨の裏へ返ってくる。
合わせようとしなくても合ってしまう。九月からこの道を歩いた回数を、足のほうが先に覚えている。離れるためには、歩き方から考え直さなければならない。
改札で、彼女は反対側の階段へ行く。振り返らない。改札機の乾いた音だけが、少し遅れて背中に届く。
◇
その夜の噂は、放送で語られた相談の中身よりも、いつもなら最後に添えられるはずなのに聞こえなかった一言のほうへと集まる。聞き逃しただけらしいという見立てには、あれを聞き逃すはずがないと言い返され、喉を痛めたらしい、卓の機械が壊れたらしい、あるいは同じ締め方にそろそろ飽きたのだという、どれも的外れな推測ばかりが次々に連なる。心配する調子を装いながら、声の端は少しずつ楽しそうに弾み、普段そこにあるものが一度消えただけで、無かったことそのものが新しい話題に変わる。数えている人によれば、あと三十九日である。




