18. 二十秒
朝の放送室は、窓から入る白い光まで冷たい。当番表を持ち、部長のところへ行く。
当番表は放送室の壁に貼られた紙で、四月からずっと、同じ画鋲に留められている。画鋲の頭だけが、朝の光を鈍く返す。
「鍵の当番、外れます」
「珍しいねえ。理由は?」
「向いていないので」
「向いてない人が半年やってたの、それはそれで番組だけどねえ」
都築先輩は表を目の高さまで上げ、僕の名前を横切るように線を走らせる。ペン先は、紙に引っかからない。
線の引き方は速く、紙を擦る音も短い。この人は、迷うところと迷わないところが、はっきり分かれている。
「で、誰にするの?」
「鳴海さんです」
「本人には?」
「これから言います」
都築先輩は表を裏返し、日付の欄へ小さな丸を打つ。丸は切れ目なく閉じる。部が回っている限り、この人はだいたい何でも通す。
「順番が逆だねえ」
「逆です」
「まあ、君の順番はいつも逆だからねえ」
言う前に、鍵を放送室の机へ置いて出る。金属が木に触れた硬い音だけが、廊下までついてくる。彼女がいつ取ったのかは、僕には分からない。
昼にのぞくと、机の木目の上には何も無い。朝にはあった金属の光も、影も消えている。取っていくところだけを、僕は見ていない。
残っているのは、何も無いという輪郭だけである。視線を外しても、置いた場所へ何度も戻ってしまう。
◇
十六時三十分。西日が卓のつまみを長く照らすころ、放送前の箱を開けるのは、今日は彼女である。
扉の横に立ち、鍵をまわすところから見る。錠の奥で金属が噛み合う音は、僕がやるときより一拍長く、狭い部屋に残る。
紙の角を揃える手つきは、僕より丁寧である。丁寧なのに、指が迷わず、選ぶまでが速い。
「はい、今日の相談です。――謝り方が分かりません。謝ると、余計に嫌われそうで」
凛は紙に答えを書く。今日はこの場で書き、ペン先を止めてから読む。
「……謝らなくていい。かわりに、黙るときは、黙るって言えばいい」
僕はスイッチを押し、マイクを生かす。卓上の赤いランプが、音もなく点く。
「じゃあ、それ、やりましょう」
言葉が部屋に落ちてから、短く息を置き、続ける。
「黙ります。今から二十秒」
二十秒は長い。言葉を入れずに待つと、長さがむき出しになる。
二十秒のあいだ、僕の耳へ校舎の音がぜんぶ流れ込む。誰も喋らないと、遠い体育館で床を打つボールも、風に揺すられる窓の金具も、壁を越えて届く。人の声だけが、きれいに抜けている。
校舎という建物が、これほど絶えず鳴っているとは、今日まで知らなかった。人が黙ると、床と窓と配管が、それぞれの声で喋りはじめる。
廊下を流れていた音が、途中から途切れる。放送に合わせて黙る理由は誰にも無い。それでも二十秒目まで、誰の足音も鳴らない。
二十秒が終わる。僕は指の腹でフェーダーを落とす。細い溝を滑る抵抗だけが、急にはっきりする。
卓の端で、こだまが録音機を両手で抱えたまま固まっている。指の節が、ケースに押されて白い。
「……センパイ。今の、学校ぜんぶ止まってたよ」
「二十秒だけです」
「二十秒で全校止めるの、こわいっしょ」
「止めたのは僕ではありません。答えのほうです」
「答えのほうですって」
扉の枠を、都築先輩が指の背で叩く。乾いた音がして、止まっていた空気がようやくほどける。
「二十秒、番組が止まったねえ」
「止めました」
「あれ、今年いちばん人が黙った二十秒だよ。私は数えてたからね」
「数えたんですか?」
「数えるよ。番組だからね」
こだまが、ようやく録音機を膝の上へ戻す。抱えていた跡が、制服の布に薄く残る。
「こだまも数えてた。十九秒だったっしょ、たぶん」
「二十秒です」
「一秒、どこ行ったの?」
「どこにも行っていません」
一秒はどこにも行かない。こちらが見失うだけだ。行かないから、数えられる。
凛が椅子ごとこちらを向く。キャスターが床を擦り、細い音を引く。
「……はい、どうぞ」
鞄から二通が出てくる。丸めた跡を残したまま机に並び、紙の端だけがわずかに浮く。
三日のあいだ、この紙は彼女の鞄の中にあった。鞄よりも、持っていた側の肩のほうが、たぶん重かったのだろう。
僕は最初から言う。喉に引っかからないよう、手順の形にして並べる。あの日の次の朝から毎朝、鍵を開けて箱を空にしていること。四通なら四通を机に並べ、その日に読む一通を選んでいること。件を果たす日は、それと噛み合うものにしていること。選べない日は、前の日ぶんから繰り越していること。〈放送部やめれば〉の二通を、誰にも言わずにポケットへ入れたこと。
「……ぜんぶ?」
「ぜんぶです」
「三雲くん、それ、ずっと黙ってるつもりだったの?」
「言う理由が、一つも見つかりませんでした」
卓の針は真ん中で止まり、空調の低い音だけが続いている。生きていないマイクの前で、僕は自分の手順を全部並べ終える。口から出した言葉は戻せないのに、針は動かない。
「わたしが嫌がると思った?」
「思いました」
「……そういうところだよ」
そういうところだ、と言われるのは二度目である。一度目も、この部屋だった。吸音材の穴も卓の傷も、あのときから動いていない。
彼女は机の上の紙へ手を置く。僕も同じ場所へ手を伸ばし、浮いた紙の端を押さえる。薄い紙が、指の下でかすかに鳴る。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
押さえているぶん、紙は動かない。ペン先が十八番の行を進み、まっすぐな線を残す。
押さえた指の先へ、彼女の手の熱が紙一枚ぶんだけ隔てて伝わってくる。線が止まっても、僕の指はすぐには動かない。
◇
当番表を机に置く。紙が木目へ触れる音は、ほとんどしない。鍵のほうは、朝から彼女の手にある。
「月曜から、鳴海さんです」
「……いいの、これ?」
彼女が吸い込んだ息は、喉の途中でかすかに乱れる。
聞こえるのは、息だけだ。何が乱れたのかまでは、僕には分からない。分からないので、僕は手続きの話だけをする。
「箱は八時前に空にしてください。紙は捨てないでください」
「捨てないの?」
「一通も捨てていません」
「……三雲くんって、捨てられない人なんだね」
一通も捨てていない、と口にするのは簡単である。声はすぐ消える。あとに残るのは、それだけの紙がどこかに在るという事実のほうだ。
「置き場所が要るだけです」
「置き場所があるうちは、捨てなくていいってこと?」
「はい。置き場所は、まだあります」
引き継ぎのため、棚から紙箱を下ろす。九月からふた月近くぶんの紙は束になり、腕に乗せた瞬間、箱の中にあった量が重さへ変わる。
紙は一枚ずつなら、指先で忘れられるほど軽い。束にすれば、二か月という時間そのものが、掌へ重さを持って戻ってくる。
束のいちばん下に、折り目の深い紙が一枚、沈んでいる。始業式の日に箱から出てきた一通で、そのあと、また箱へ戻されている。
その紙と、今日彼女が書いた答えの紙が、机の上で隣り合う。窓からの薄い光が、筆圧の溝にだけ細く溜まる。
跳ねの高さが同じである。点の向きも同じだ。行の終わりで、力の抜ける場所まで似ている。
似ている。それだけである。
字の癖は、同じ人が書けば同じところに出る。だが、同じところに出たからといって、同じ人が書いたことにはならない。ならない、と自分に言い切れるあいだは、まだ何も分かっていないのと同じである。
僕は紙を重ね、音が立たないように束をもとの箱へ戻す。
戻すとき、いちばん下がいちばん下のままになるように順番を揃える。その必要は、たぶんどこにも無い。それでも、ずれた角は指で直す。
十七時十分、昇降口を出る。夕方の風は、日陰だけ先に冷たい。同じ速さで駅まで歩く。今日は、二人とも三度ずつ喋る。
「月曜の朝、八時前だよね?」
「八時前です」
「遅れたら?」
駅までの道で、彼女がこちらへ顔を向けるのは三度目である。頬にかかる夕方の光が、向くたびに揺れる。数えるつもりはないのに、今日は数えられてしまう。
「そのときは、箱が開くのが遅れます」
「三雲くんが開ければ?」
「開けません。鍵は、もう僕のところに無いので」
無い、と言うときの自分の声は、思ったより軽い。制服のポケットも、朝から何も引っかからない。手放したもののほうが、持っていたときより輪郭を濃くしている。
◇
その夜の噂は、止まったことより戻ったことのほうを拾っていく。今日は言ってた、と誰かが口にし、それだけで、なんか安心した、と隣の声が受ける。何が安心なのか、説明できる者はいない。説明のないまま、昨日まで的外れに騒いでいた声は、今日は同じ方向へ、息を潜めるように揃っていく。途中で二十秒も黙っていたのに、それを不気味だと言う者は一人もいない。数えている人によれば、あと三十六日である。




