↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/30

19. 台所の椅子

 十六時三十分。


 火曜の連絡は短い。最後の文字まで目で追うと、彼女の指先が乾いた音を立て、原稿を一枚めくる。


「はい、今日の相談です! ――待っているのを知られたくありません。待たせた側が、気にすると思うので」


「うーん。知られなくていい。かわりに、待っていた時間を、あとで一度だけ言えばいい。一度だけね。二度言うと、責めてることになるから」


「じゃあ、それ、やりましょう」


 フェーダーを落とす。機械を通っていた声が消え、部屋の空気だけが耳へ戻る。


 切ったあとの部屋は、さっきまでより静かだ。連絡の紙が少ないぶん、机の面が広く、蛍光灯の光まで冷えて見える。


「知られなくていい、だって」


 こだまが録音機を持ち上げる。角に蛍光灯の白が走り、同じ節で二度繰り返す。


「センパイ、今日は誰を待たせるの?」


「待たせません」


「待たせませんって顔で、いつも待たせてるっしょ」


「予定は伝えてあります」


「伝えたら待たせてないことになるの、それ」


 この後輩は、僕の言い方に空いた穴を、いつも僕より先に見つける。指先で縁をなぞるところまではするのに、その向こうへは踏み込んでこない。


 都築先輩が扉の枠を、指の節で軽く叩く。乾いた音が会話の隙間へ入る。


「いやあ、待ってる時間って、番組だよねえ」


「待ち時間は番組ではありません」


「番組だよ。あれがいちばん、みんな聞いてるんだから」


       ◇


 十七時十分、昇降口を出る。歩幅を合わせた覚えはない。それでも同じ速さのまま、駅まで歩く。


 十月の終わりの夕方は、もう手のひらから熱を奪う。歩き出して五分ほどで、指先だけが体から切り離され、薄い夕風の中へ置き去りになる。


「今日、薬を取りに行きます」


「病院?」


「線路の向こう側の薬局です。調剤に三十分はかかります」


 薬の名前は言わない。口にすれば、祖母の病名まで同じ糸で引き出される。


「……じゃあ、待ってる」


「どこでですか?」


「三雲くんち。この前、寄っておいでって言われたから」


 祖母なら言いそうなことである。あの帰り道のどこかで言ったのだろう。大根の葉が夕風に揺れるのを見ていて、僕の耳には残っていない。言われたほうが本当に来る可能性は、考えに入れていなかった。


 断る理由を頭の中で探す。一つも形にならない。口を閉じたままではいられず、代わりに道順のほうを言う。


「下りで二駅です。降りて、西口改札を出て、斜め右前の通り、二つ目の角」


「それだけ?」


「それだけです。表札は出ていません」


 家の場所を人に教えるのは、たぶん三年ぶりである。舌の上で、道順だけが妙に新しく響く。


「表札の無い家って、どうやって分かるの?」


「表札の出ている家が、両隣にあります」


「……わかった。着けば分かるよ、たぶん」


       ◇


 改札の電子音を挟んで別れる。彼女は下りのホームへ降りていく。毎日、上りの階段を使う人が、今日は反対側の段へ靴先を向ける。


 毎日ここで分かれる二つの階段。そのうち、彼女が僕の側を降りるのは初めてである。制服の背中が手すりの影に細く切られていくのを、僕は改札の外側から見送る。


 僕は線路の上の橋を渡る。線路の向こう側は、同じ町なのに、耳に触れる音の高さが違う。


 屋根は低く、道は狭い。狭い道は音を両側から挟むので、自転車のベルが壁を跳ね、二度鳴ったように聞こえる。


 薬局で名前を告げ、番号の紙を受け取って、硬い椅子に座る。順番は三つ先である。


 待つ側の時間は、進み方が違う。壁の時計は同じ速さで針を運ぶのに、こちらの一分だけが引っかかり、長く伸びる。


 番号が呼ばれるまで、僕は九十日のうち何日が終わったかを数えない。数えれば、僕の側の時計だけが、さらに遅くなる。


 薬局の椅子は、待つ人の背の高さに合っていない。浅く座れば足が余り、深く座れば鞄が膝から滑る。どちらを選んでも、目だけが壁の時計へ吸い寄せられる。


 いま、僕の家の台所にも待っている人がいる。待たれる側から待つ側へ回っただけで、同じ時計の顔がこれほど違って見える。


 三十分。時計を見れば、ちょうど三十分である。


 薬の紙袋を鞄へしまい、線路の上の橋を戻って、下りの電車で二駅乗る。鞄を膝へ置くと、中の紙が電車の揺れに合わせて鳴る。


       ◇


 玄関を開けると、台所から声が流れてくる。冷えた廊下には、茶の温かな匂いまで混じっている。


 玄関の土間には、不似合いな靴がきちんと揃えてある。かかともつま先も線を引いたように並び、丁寧すぎて、この家のものには見えない。


 祖母の声と、もう一つ。もう一つのほうは、この家の天井にまだなじまない高さで、明るく弾んでいる。


「――で、ねじが三本余ったんですか?」


「余ったのよ。余っても、ちゃんと鳴ったの」


「鳴ったんですか?」


 祖母の声は、僕が家で聞くときより高く、台所の天井へ軽く跳ねる。話し相手がいる日の高さである。


「鳴るのよ。うるさいくらいにね」


「そのラジオ、まだあります?」


「あるわよ。押し入れの奥にね」


 台所の椅子の背には、鞄が掛かっている。テーブルの上には湯呑みが二つあり、その脇に、あの紙が広げられている。紙の白だけが、電灯を強く返す。


 湯呑みの片方には、飲みかけの茶が半分残る。もう片方は空で、底に小さな茶葉が二枚、濡れたまま貼りついている。二人ぶんの時間の長さが、湯気をなくした形で、そのまま二つ並んでいる。


 十九番の行には、線が引かれている。古いテーブルのわずかな凹凸に引きずられたのか、その線だけが少しガタガタと曲がって通る。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 僕が台所へ入ると、彼女は椅子を引いて立ち上がりかける。脚が床を短く擦り、彼女は途中で動きを止める。


「……おかえり」


 凛の息がつかえ、次の一息だけが不自然に長くなる。


 聞こえるのは、息だけだ。何が乱れたのかまでは、僕には分からない。分からないまま、僕は靴を揃える。


 この家でその四文字を口にする人は、長いあいだ一人だけである。増えた一人ぶんの声は、廊下の冷たい空気に消えず、玄関までまっすぐ届く。


「……ただいま、戻りました」


「なにそれ?」


「言い慣れていません」


「言い慣れてない人の言い方じゃないよ、それ」


 祖母が急須を持ち上げ、こちらの湯呑みへ先に注ぐ。茶の匂いを含んだ湯気が、冷えた指の前でほどける。


「透、この人はよく喋る人ね」


「そうですか?」


「あなたが居ないあいだ、ずっと喋ってたのよ」


 祖母は戸棚から湯呑みをもう一つ出し、僕のぶんの場所をテーブルに作ってから、こちらを見る。


「透。遅いじゃないの」


「三十分かかると言いました」


 凛が指を三本立てる。僕の目の前で、それから一本ずつゆっくり折る。


「三(さん)・十(じゅっ)・分(ぷん)、待った。ふふっ」


 一度だけ言い、そのあとは口を閉じる。さっき放送で出した答えが、台所の机の上で、そのまま形になる。


 言われたほうには、返す言葉がない。ないから、僕は湯呑みを受け取り、冷えた指を隠すように両手で包む。


 湯呑みは熱い。指の腹がじんじんするほど熱いのに、離す理由だけは見つからない。


       ◇


 十八時三十分、家の電話で掛ける。


 この家の電話は薄暗い廊下にあり、受話器の線が短い。壁へ肩を寄せなければ、口元を受話器に近づけられない。


「――夜分に失礼します。二年三組の三雲透と申します。鳴海さんの、その、同じ部の者です」


『あら』


 受話器の向こうから届く声は、凛に似ていない。似ていないのに、言葉の前に薄い沈黙を置く、その間の取り方だけが同じである。


『凛から聞いてます。透くん、でいいのかしら?』


「三雲で結構です」


『じゃあ透くんね』


 名乗った瞬間、名前はもう相手のものになる。取り返せないものが、これでまた一つ、短い線の向こうへ出ていく。


「遅くなっているのは、僕の用事のせいです。駅まで送ります」


『歩いて?』


「歩いて送ります」


『……そう。ありがとう』


 受話器を置くと、握っていた手のひらに薄い汗が残る。声だけの相手へ名乗るのは、顔のある相手へ名乗るより難しい。


 顔が見えなければ、こちらの息遣いも向こうへ届かない。届かないぶん、言葉だけで立たなければならない。


       ◇


 その夜の噂は、駅で起きている。毎日べつの改札へ消えていくはずの人が、今日はいつもと逆の側の電車に乗ったらしい。上りに乗るはずの人が下りに乗っていた、と言い直されて広がる。どちらも同じ話らしいが、ホームは誰にでも見えるため、この話にかぎっては目撃した全員の言い分が揃っているらしい。それでも、電車を降りたあとの行き先まで知っている人は一人もいないらしい。見えたことだけは揃い、見えなくなった先だけが空白のまま残っている。その空白まで含めて、噂は夜の駅から町へ流れていくらしい。数えている人によれば、あと三十二日である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。