20. いちばん最初に
朝八時前。放送室の鍵は、もう僕のポケットに無い。
ポケットの底には、鍵の形に押された癖だけが残る。布の織り目は、そこだけ擦れて薄い。
扉はもう開いている。机の上には、紙箱から出された相談がきちんと並ぶ。今日は三通である。
「……これにする」
「理由を聞いても」
「聞かないで。選ぶのは、わたしの仕事だから」
彼女は選んだ一通を伏せ、逃がさないように手を重ねる。紙の端が、指先の下でわずかに沈む。伏せられた一通は、放送の時間まで裏返らない。
「わかりました」
「早いね、引き下がるの」
「引き継いだので」
選ばれなかった二通は、乾いた音を立てて紙箱へ戻る。捨てられた紙は、今日も一通も無い。
選ぶ側から降りると、朝の十分が急に伸びる。秒針しか聞くものの無い十分は、言葉を選んでいた十分より長い。
◇
十六時三十分。
空は雨を抱えた灰色で、廊下側の窓はどこもいつもより早く閉まっている。ガラスの向こうでは、木の葉だけが風に裏返る。
「はい、今日の相談です。――秘密を持っているのが、つらいです。言えば、たぶん全部こわれます」
声は澄んでいる。台本の上で、形を整えた言葉だからである。
「……隠さなくていい。かわりに、いちばん最初に、自分の名前を言えばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
噂は名を名乗らない。放送は、名乗ってから話す。
この一言は、始業式の日から、機材の熱と乾いた埃の匂いがこもるこの部屋に置かれている。
背後で、扉が開く。
開いた扉の枠で、誰かの肩が一度だけ大きく上下する。喉の奥で空気が擦れる。走ってきた人の呼吸である。
入ってきたのは、教室のいちばんうしろの席にいる人である。
彼女は何も言わず、椅子を引いてマイクの前へ座る。脚が床を短く擦る。凛は止めない。僕も止めない。
赤いランプだけは、点いたままである。
止める理由が無いわけではない。けれど、止める権利のほうが、今日は僕の側に無い。
「二年三組、汐見ゆきです。あの告白は、あたしがやるはずでした」
言葉が切れる。唇だけが動きかけ、何も足さずに閉じる。
僕は指の腹でフェーダーを落とす。二秒も置いていない。
放送を切ったあとの数秒だけ、廊下のざわめきが遠くで途切れる。校舎じゅうの足音が、同じところで一度だけ止まったように聞こえる。
◇
放送の切れた部屋は、廊下よりも静かである。卓上の機材が出す低い音だけが、机の下に残る。
「……ごめん、りん。ごめん、じゃない。ごめんじゃ済まないんだけど」
「ゆきちゃん、座って」
「あたし、一学期の終わりに言われたの。断らせない言い方するでしょ、あの人。……ううん、違う。断れた。断れたのに、断らなかった」
汐見さんは、いつの間にか立ったまま喋っている。言葉が速い。言い直すたび、前の言い方を自分の口で消していく。
取り消しながら喋る人の話は、二度目のほうが本当である。前の言葉には手を出さず、二度目まで待てば、たいていのことは分かる。
「うん。聞いてるよ」
「前の日になって、無理ですって言ったの。そしたら、じゃあ誰でもいいやって……いや、そうじゃなくて。誰でもいいなら、って、りんが立ったの。わたしがやる、って」
「……そっか」
凛は、そこで一度だけ息を吸う。吐くより先に、椅子を半分ぶん近くへ寄せる。脚の金属が、床をかすかに鳴らす。
「りんは、あたしのぶんまで引き受けたの。ずっと見てたよ、あたし。毎日見てた」
聞こえるのは、息だけだ。早口の裏で、息のほうは一度も落ち着いていない。
九月からずっと、この人が凛のほうを見ないようにしていたことなら、僕も知っている。視線を外し続けるには、見ているのと同じだけ、相手の場所を知っていなければならない。
「箱に入れたのも、あたし。相談だよ。前の月のと、今日のと、二回とも」
「あたし、ずっと言おうと思ってたの。文化祭のときも、そのつもりで来たし。……来ただけだったけど」
「ゆき」
凛が、一度だけ名前を呼ぶ。短い音なのに、部屋の隅まで届く。
凛の息が、そこで大きく乱れる。
「……りん、怒ってよ」
「怒らないよ」
「怒ってくれたほうが、あたし、楽だし」
「じゃあ、怒らない」
汐見さんの眉が、その答えでいちばん深く寄る。口が開き、音にならないまま閉じる。それから、鞄の紐を白くなるほど握り直す。
引き算の答えは、いつも相手から一つ取り上げる。取り上げられたぶんには、もう差し出す先が無い。この人が、これから自分で持つことになる。
返事の代わりに、彼女は放送室を出ていく。扉に触れた指は固く曲がっているのに、閉まる音だけはひどく静かである。
凛はしばらく扉を見てから、鞄からあの紙を出す。ペンの尻が二回鳴り、指の中で一度止まる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
二十番の行に、黒い線が走る。指が震え、線は途中で白く切れる。戻ったペン先が、短い一本を継ぎ足す。
二十本のうち、震えたまま残る線は、これが最初である。
◇
彼女は棚から紙箱を下ろし、束のいちばん下へ迷わず指を差し入れる。抜き出したのは、折り目の深い一枚である。
箱を下ろす手にも、紙を抜く指にも迷いが無い。どこに埋もれているかを、この人はもう知っている。
折り目を指で開き、それを自分の声で読む。
「――誰かと二人で歩くとき、何を話せばいいのか分かりません。黙っているのが、こわいです」
最後の音が消えるまで紙を見つめ、それから、そっと裏返す。
「これ、わたし。一年の春に入れたの。誰にも読まれないと思ってた」
僕は、口を開かない。
跳ねの高さも、点の向きも、行の終わりで力が抜ける癖も、僕は先週の机の上で見ている。紙を伏せるより前から、もう分かっている。けれど、見ていたと言えば、彼女が自分で明かす順番を僕が取る。今日は、彼女の順番である。
「びっくりしない?」
「します」
「してないよ」
顔に出ていないのは、たぶん本当である。息は少し浅いのに、頬は動かない。出し方のほうを、僕はどこかへ置いてきた。
「顔に出ないだけです」
「じゃあ、どこに出てるの?」
「出ていません。出ないので、僕は数えます」
彼女は鞄の底を探り、包みを一つ取り出す。誕生日の朝から、ずっと入れたままのものである。角は擦れて丸くなり、包み紙も指の触れたところだけ色が薄い。
包み紙をほどくと、新しいボールペンが出てくる。まだ曇りのない軸が、天井の白い光を細く返す。
古い型である。休みの日に見た店先の箱にも、同じ形のものが隙間なく並んでいる。
「ゆきがくれたの。五十日ぶん、持ち歩いてた」
「開けなかったんですか?」
「開けたら、使わなきゃいけないでしょ」
彼女は新しいほうを机の中央に置き、今まで使っていたほうを、音を立てず鞄へ戻す。
「これは、まだ」
「はい」
「これは、まだなの……」
「はい……」
新しいペンは、机の上でまだ一度も鳴らない。彼女の指は、ペンの尻に触れないまま離れる。鳴らす日は、たぶん彼女が決める。
◇
廊下へ出ると、蜷川に会う。蜷川の手に、写しはもう無い。
「二十番って、〈相手の秘密をひとつ知る〉だよな?」
「はい」
「こんなのを想定して書いてねえよ、俺は」
写しが無くても、二十番の文言のほうは、この男の頭にそのまま残っている。
「知っています」
「知ってますって顔で、全部拾っていくのな、お前」
「拾えと書いてあるので」
廊下ですれ違う人の視線が、昨日までより少し低い位置に集まる。笑いに来る目ではない。騙されていた側を、触れない距離から確かめる目である。その目は、僕がいちばん近くで聞いてきた息より、ずっと読みやすい。
気の毒がられると、笑われるより肩の置き場が無い。笑いは肌に当たって落ちるだけだが、気の毒は服の隙間から内側へ入り、体温に混じる。
十七時二十分、昇降口を出る。雨はまだ落ちていない。湿った風の中、並んだ靴音を崩さず、同じ速さで駅まで歩く。
「三雲くんは、知って……」
「十件、残っています」
知っていることを言わない理由を、僕はまだ自分の言葉にできない。言葉にできないものは、数にして形を押さえる。
まだ十件ある。そのうちの一つが、〈相手に、嘘をひとつ打ち明ける〉である。
◇
その夜の噂は、途中で止まっている。名前を名乗って言ったのだと伝わり、じゃあ、あれ、全部――と言いかけた声は、そこで切れ、そこから先へ続かない。名前を出さずに笑うことならできても、名前を出した人をどう笑えばいいのか、その笑い方が誰にも分からないのだという。廊下でも教室でも、口を開くたび同じところで言葉が止まり、言いかけた数だけが増えていく。そのぶん、次に訪れる黙りは前より長くなり、声の途切れたあとばかりが校内に残る。数えている人によれば、あと二十九日である。




