21. 練習だと言って
三連休が明けた教室は、朝から声の向きが違う。宙ぶらりんになったざわめきが、次の獲物を探して、机と机のあいだをせわしなく渡っている。
先週の金曜から、噂は行き先をなくしていた。名乗った声を聞いてしまった教室では、誰もが何かを言いかけ、そのたび唇を閉じる。放送で自分の名前を置いた人がいる。その事実だけが、触れれば揺れる紙片のように宙に浮き、誰もその先へ進める言葉を持たない。けれど今日は、止まっていた視線が、探す側へ向きを変えている。誰が言い出したのか。誰が最初に決めたのか。名前を欲しがりはじめた話は、答えを一つつかむまで止まれない。
「じゃあさ、結局、誰が言い出したんだって話だろ?」
「言い出しっぺが一番わるいって」
「でも金曜のあれ、名乗ってたじゃん。名乗ったほうが悪いってことにはならなくない?」
「ならないから困ってんだろ」
二十人ぶんの声が同じ高さで重なり、机の天板をかすかに震わせている。窓は閉め切られ、暖房の乾いた匂いが、薄い膜のように天井のあたりへ溜まっていた。この濁った音の中では、誰の息も拾えない。人が多い。声が多い。音に、息の入り込む隙間がない。
聞こえるのは、息だけだ。その息が届くには、二メートルと、静けさが要る。教室はそのどちらも持っていない。だから朝のうち、僕の耳は休んでいられる。休んでいられるあいだだけ、僕はこの教室の一部でいられる。
放送室の鍵は、いまは凛が持っている。八時前に扉を開け、箱を空にし、その日の一通を選ぶ。僕は卓の前に座り、機械の電源を決まった順に入れていく。冷えた機械が目を覚ますまでの十数秒、狭い部屋を満たすのは、床まで伝わる低い唸りだけだ。この音を、僕は九月からずっと同じ順番で聞いてきた。凛が隣に立つようになっても、順番だけは、まだ僕の手の内にある。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日のね、ちょっと難しい」
「難しいほうが、放送は長くなります」
「そういう問題じゃないんだけどな」
紙を選ぶ手つきは、この十日ほどで目に見えて速くなった。束をめくる指の腹が、紙の厚みと、角のわずかな引っかかりをもう覚えている。速くなったぶん、選び終えたあとに一度だけ手が止まる。その小さなためらいは、以前の僕によく似ている。似ているというより、たぶん同じだ。選んだ一通を、選ばなかった束の上へ戻さないための時間だ。戻せば楽だと知っていて、それでも指を離すまでの時間である。
「三雲くんは、こういうとき、どうやって決めてたの?」
「その日の件に噛み合うものを探していました」
「毎日?」
「件を果たす日だけです。放送は毎日ありますが、件は三十しかないので」
「……ずるい。それ、先に言ってよ」
言えばよかったのかもしれない。ただ、毎朝これを一人でやっていたと打ち明けるのは、いま思えば、貸しを作って差し出すのに近い。凛の横顔を見ていると、その貸しだけは持ちたくなかった。
◇
十六時三十分。卓の端で、赤いランプが点く。小さな部屋の空気が、そこでぴんと張る。
「はい、今日の相談です! ――呼び方を変えたいのに、変えたら前に戻れない気がして、こわいです」
凛の声は、冷えたガラスのように澄んでいる。紙の上に載っている限り、この人の声にはいつも一分の狂いもない。息の継ぎ目まで、あらかじめ決めてあるように揃っている。近くで聞くほど、その整い方の奥に、触れさせないものがある。
「いきなり変えなくていい。かわりに、一度だけ、練習だと言って呼べばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
凛がまっすぐこちらを見る。マイクをほんの少し自分から遠ざけ、次に僕の指先へ視線を落とす。僕はフェーダーを下げる。赤が消えた途端、押し込められていた服のこすれる音や呼吸が、急に一回り近くなる。放送室が、学校から切り離された小さな箱に戻る。
「……いま、切った?」
「切りました。ここからは校内に流れません」
「なんで」
「練習だからです」
凛が息を吸う。胸の奥までそっと確かめるような、細い息だった。吸い切ってから、わずかに笑う。けれど笑いの終わりだけが、いつもより短く、ほどける前に切れている。
「二十一番、下の名前を呼び捨てにする、だもんね」
「はい」
「じゃあ、先に言って」
「凛」
言ってしまえば、二文字である。舌が触れて、息が抜ければ、それだけで形になる音だ。それなのに、こんなにも遠いとは思わなかった。喉の奥で一度つかえ、押し出したあとも、机の上へ置き忘れた物のように、僕と凛のあいだへ残り続ける。目を上げれば拾われてしまいそうで、僕はフェーダーから指を離せない。
「……練習だからね」
「はい」
「透」
その一言に、凛の息がほどけて乱れる。台本の上ではあれほど澄む声が、台本の外の一点だけで小さく崩れる。この人の声は、世間とは逆の鳴り方をするらしい。整えようとするほど、その一点だけが、こちらの耳へ近づいてくる。
乱れたのは、たぶん一秒に満たない。それでも僕の耳には、放送室じゅうの機械が立てる音より、ずっと大きく届く。届いたからといって、何が本当なのかは分からない。僕には息の揺れしか聞けない。その奥にある心までは、勝手に決められない。それでも僕は、その音を今日いちばん大事なもののように、胸の内へしまい込んでしまう。
凛は紙を取り出し、ペンの尻を二回鳴らす。乾いた音が机に跳ねてから、二十一番の行へペン先がゆっくり下りる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。線の始まりには、ためらった点が一つ残っている。
「では、練習の回数を決めましょう。一日一回です」
「なにその制度?」
「多いと練習になりません」
制度と呼ぶほどのものではない。ただ、決めておかないと、決めていないほうへ流れる。流れた先で、僕はたぶん何度でも呼んでしまう。凛の息がそのたび乱れるのか、確かめたくなる。それは、たぶん練習ではない。
「じゃあ今日のぶんはもう終わり?」
「終わりです」
「……ふうん」
◇
廊下は、放送のあとだけ人の流れが薄くなる。窓の外はもう濃い青に沈み、蛍光灯の白が、磨かれた床のつやを冷たく引き延ばしている。遠い部活の掛け声が、ガラス越しに角を失って届く。扉の横では、うちのクラスの男子が二人、まだ笑いの残る声で喋っている。
「別に面白がってねえって」
二メートルもない。廊下は静かで、音と音のあいだに隙間がある。だから、その一言を押し出した息が、途中で針のように細くなり、ぷつりと途切れたのが分かってしまう。笑っている声より、隠そうとした息のほうが近い。
僕は何も言わない。言ったところで、僕にはその中身が分からない。乱れたという事実だけが耳に残り、理由のほうは最後まで届かない。それでも耳は勝手に働く。望んでいないものまで拾い、僕の中へ置いていく。拾ったものを真実と決めずに捨てる。それが、この耳を持っている者の仕事のようなものだ。
「録れた!」
「録るな」
「録るなって言われても、もう入っちゃってるっしょ。練習だ、だって。じゃあこだまも練習しよ。透センパイ!」
「僕は先輩です」
こだまは録音機を胸に抱えたまま、廊下の壁へ背中を預けて笑っている。この後輩の笑い方は、声が消えたあとの響きまで計算されている。壁の硬さも、天井の高さも、きっと体で覚えているのだろう。無邪気に見える声ほど、狙った場所へまっすぐ届く。
「じゃあ透センパイでいいじゃん」
「よくありません」
「透センパイ、透センパイ、透センパーイ」
三回言われた。三回とも、耳の裏が同じだけ熱くなる。そこだけ薄い皮膚を見つけられたようで、手で隠したくなる。僕の名前を呼ぶ人は、この校舎にほとんどいなかったはずだ。卓の後ろにいる人間は、「放送の人」で足りる。名前がなくても役目は動く。足りるほうが楽だと、九月まではそう思っていた。
◇
教室の前まで来ると、凛の歩幅が半歩ぶんだけ狭くなる。さっきまで並んでいた肩が、ほんの少し後ろへ下がる。
「三雲くん、鞄」
「はい」
戻したのではない。ここは教室の前で、さっきの部屋とは場所が違う。ただそれだけだ。そう切り分ければ、胸の内側に落ちた小さな重さにも、名前をつけずに済む。
「そっちで合っています」
「……うん。合ってる」
教室の入口を過ぎたところで、背中へ声が飛んでくる。
「おー、透ー」
「お前も練習しとけよ、透ー」
笑いを貼りつけた呼び方が、廊下を一往復して戻ってくる。二年三組で僕の名前を呼ぶ人は、先週まで一人もいなかった。呼ばれない名前は、それだけで身を隠せる場所になる。誰の視線にも形を与えずに済む、静かな場所だ。今日、その場所が一つ減った。胸元が急に寒い。減ったことに気づいたのは、階段を三段降りたあとである。
「……言い返さないの?」
「言い返すと、明日は二往復します」
十七時十分。昇降口から駅まで、いつもの十二分を崩さずに歩く。十一月の風は、九月のころより早く暗くなるぶん、頬に冷たい。乾いた葉が、風に押されて靴の先を追い越していく。街灯の明かりは、日ごとに一つずつ早く僕らを迎える。並んだ影は足元から長く伸び、次の街灯までのあいだで一度だけ溶ける。消えて、また隣に戻るたび、歩幅が少しだけ揃う。
「透?」
「はい」
「呼んでみただけ」
「一日一回は、もう使いました」
「……明日のぶん」
前借りである。そう言おうとして、喉の手前でやめた。前借りという言い方は、この九十日にはあまり似合わない。明日のぶんを今日使えるということは、明日があると数えているのと同じだ。胸の奥が、触れられたようにあたたかくなる。けれど僕は、それをいま口に出せない。言葉にすれば、明日までの距離まで測ってしまいそうだった。
◇
その夜の噂は、まだ名前を探している。あの告白は仕掛けられたものだったらしい。そこまでは分かった。では、誰が言い出したのか。三年の誰かだという者と、同じクラスの誰かだという者がいて、どちらも根拠を持たない。それでも断定する声だけが、廊下のあちこちで増えていく。名前の付いていない話は、名前を出さないまま、人を一人ずつ削る。顔も声も知らない誰かの形を、勝手な言葉で細くしていく。数えている人によれば、あと二十五日である。
削られる側に立っている人の顔は、まだ誰にも見えていない。見えない顔は、聞いた人の数だけ好きに描ける。




