22. いちばん言いにくいこと
教室が話題にし出したのは、人ではない。人数である。
あの日の昇降口に何人いたか。柱の陰には何人ぶんの気配が重なっていたか。答えの出ない問いも、数字が付いた瞬間、本当らしい顔をする。数字は、どの口から出たかを覚えていない。だから疑いの目は、数字ではなく、数えられた側へ向く。
「あの日さ、あそこにいたの四人だったらしいよ」
「四人? 三人じゃなくて」
「撮ってたのが一人、笑ってたのが二人、告白したのが一人。で、四人」
「じゃあ、告白された側は数に入ってないんだな」
入っていない。数える声の中で、僕はまだ人数のうちに入っていないらしい。胸がほんの少し軽くなる。そんな僕が、すぐに気味悪くなる。
数えられているあいだは、たぶん、まだ安全である。数の中にまぎれていられる。けれど、数え終わった人から順に、名前を貼られる側へ回る。
僕は数えない。数えたところで、僕の耳では顔までは分からない。それでも、あの日ぶんの息の数を知る人間は、この校舎に一人しかいない。柱の裏で、喉の奥へ笑いを押し戻した息が三つ。九月の一日目、僕の耳にいちばん最初に刺さった音である。
◇
十六時三十分。
「はい、今日の相談です! ――手紙を書いたのに、二か月渡せません。長くなりすぎて、何が言いたいのか自分でも分からなくなりました」
「長く書かなくていい。かわりに、いちばん言いにくいことを、一行だけ書けばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
「え、いま?」
凛が原稿から顔を上げる。紙の擦れる音が止む。放送はもう切ってあるのに、部屋にはまだ、言葉を拾う静けさが残っている。
「便箋、ありますか?」
「……あるけど。なんで持ってると思ったの?」
「角が丸くなっている物を、凛はよく持ち歩くので」
凛が鞄から取り出したのは、罫線の薄い便箋である。白い紙は手になじみ、角がすこし丸くなっている。長く持ち歩いた物は、手放せなかった時間のぶんだけ、角から丸くなる。手帳も、三十件の紙も、この人の鞄の中では同じ丸まり方をしている。
僕はペンを借りる。静かな部屋では、ペン先が便箋を擦る音まで大きい。息を浅くして、一行だけ書いた。
『九十日が、終わってほしくないです』
書いてから、それを凛のほうへ滑らせる。聞こえるのは、息だけだ。その息が、紙を受け取る手より先に動く。
「……これが、いちばん言いにくいこと?」
「はい」
「理由は」
「言うほどのことじゃないので、とは言えなくなりました」
その言い方は、九月からずっと僕の逃げ道だった。口にするたび、道は一本ずつ細くなる。もう肩をすぼめても通れないほどだと、今日になって気づく。
「それ、いつもの逃げ道でしょ」
「はい。今日で一つ減りました」
凛は便箋を二つに折り、もう一度開いて、また折る。折り目のわずかなずれを指先で直す。その手つきを、僕は始業式の日に一度見ている。開かないまま押し戻された紙も、端だけはきれいに直されていた。
同じだと気づいても、それを口に出す用事はどこにもない。用事のない気づきほど、胸の内側へ静かに居座り、人を黙らせる。
それから凛は、自分の便箋を一枚とり、いちばん上に自分の名前を書く。そして途中で――ペン先が止まる。握った指だけが、白くなる。
「……やっぱり、いい」
「読みません」
「読まないでほしいんじゃなくて」
「はい」
「まだ、なの」
書いた紙は、渡されないまま鞄の内側へ沈んでいく。凛の指が、紙の端を二度だけ折り直す。その小さな紙の音に合わせるように、息も乱れる。
僕は聞くだけで見ない。見ないと先に決めておくほうが、あとで見たくなったときに困らない。いま見れば、もっと見たくなる。
渡されなかった紙を、僕は惜しいと思っている。九月のはじめなら、胸は少しも動かなかったはずである。渡されないものは無いのと同じ。無いものについて考える時間は、ずっと機械のほうへ使ってきた。けれど、使い道が一つ増えると、余りのほうが減る。減ったぶんが、今日の惜しさになって、胸の奥にうすく残る。
凛はいつもの紙を出し、二十二本目の線を引く。下敷きが便箋なので、紙はやわらかく沈む。線はまっすぐ進めず、わずかに波打っている。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
便箋の罫線が紙の下から淡く透ける。引いたばかりの線の脇に、もう一本のうすい線が、触れないまま寄り添っている。
「センパイ、一行だけ、だって」
「録るな」
「録ってないもん、見てただけ。ねえセンパイ、便箋の余白、あと三十行ぶんくらい残ってたけど? ふふっ」
こだまは扉の隙間から、顔の半分だけをのぞかせている。半分でも、目のほうは面白そうに光り、しっかりこちらを向いている。
「ふぅ……。一行で足りたので」
「三十行ぶん、もったいなくない?」
「余白は、読む人のものです」
◇
こだまは、その〈一行だけ〉を放課後の教室まで運んでいく。放送部ではない人間の耳へ入るには、それだけで足りる。話は、廊下を二本ぶん渡るあいだに、書いた中身だけをきれいに落とす。落ちて空いたところは、聞いた側の想像が、都合のいい形で埋めていく。
「なあ三雲、手紙って何書いたんだよ?」
蜷川は椅子を後ろ向きにして座り、背もたれに腕を預けている。その座り方だけが、九月からずっと同じである。
「言いません」
「手紙を書けとは書いたけどさ、一行とは思わねえだろ、普通」
「思わなくていいです」
蜷川の声は軽い。軽さを保とうとする声は、力をかけたぶんだけ細くなる。その細さだけが、言葉の奥に残っている。
「一行で足りるなら、二十二番は何のためにあるんだよ?」
「渡すためです」
「……お前、そういうとこな」
言わないという返事は、それだけで噂の材料になる。答えない人間のまわりには、空白を埋めるように、答えのかわりの話が集まる。それでも僕は、あの一行を誰にも読ませたくない。読ませれば、読んだ人の数だけ意味が変わり、僕が書いた一行ではなくなる。
十七時十分。いつもの十二分。凛は鞄の口を一度だけ確かめた。それから、そこへ手を置いたまま歩いている。歩くたびに鞄が揺れても、その手だけは離れない。
◇
その夜の噂は、人数のあいだで揺れている。四人だ。いや三人だ。そもそも見ていない者が、なぜ数えられるのか。数える人と数えられる人の距離だけが、日ごとに狭くなる。名前はまだ出ない。出ないまま、話す声だけが少しずつ小さくなる。小さな声は、耳を寄せた人の中で本当らしい重さを持ち、また次へ渡っていく。数えている人によれば、あと二十三日である。
小さくなった声のほうが、かえって遠くまで届いてしまう。




