↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/30

22. いちばん言いにくいこと


 教室が話題にし出したのは、人ではない。人数である。


 あの日の昇降口に何人いたか。柱の陰には何人ぶんの気配が重なっていたか。答えの出ない問いも、数字が付いた瞬間、本当らしい顔をする。数字は、どの口から出たかを覚えていない。だから疑いの目は、数字ではなく、数えられた側へ向く。


「あの日さ、あそこにいたの四人だったらしいよ」


「四人? 三人じゃなくて」


「撮ってたのが一人、笑ってたのが二人、告白したのが一人。で、四人」


「じゃあ、告白された側は数に入ってないんだな」


 入っていない。数える声の中で、僕はまだ人数のうちに入っていないらしい。胸がほんの少し軽くなる。そんな僕が、すぐに気味悪くなる。


 数えられているあいだは、たぶん、まだ安全である。数の中にまぎれていられる。けれど、数え終わった人から順に、名前を貼られる側へ回る。


 僕は数えない。数えたところで、僕の耳では顔までは分からない。それでも、あの日ぶんの息の数を知る人間は、この校舎に一人しかいない。柱の裏で、喉の奥へ笑いを押し戻した息が三つ。九月の一日目、僕の耳にいちばん最初に刺さった音である。


       ◇


 十六時三十分。


「はい、今日の相談です! ――手紙を書いたのに、二か月渡せません。長くなりすぎて、何が言いたいのか自分でも分からなくなりました」


「長く書かなくていい。かわりに、いちばん言いにくいことを、一行だけ書けばいい」


「じゃあ、それ、やりましょう」


「え、いま?」


 凛が原稿から顔を上げる。紙の擦れる音が止む。放送はもう切ってあるのに、部屋にはまだ、言葉を拾う静けさが残っている。


「便箋、ありますか?」


「……あるけど。なんで持ってると思ったの?」


「角が丸くなっている物を、凛はよく持ち歩くので」


 凛が鞄から取り出したのは、罫線の薄い便箋である。白い紙は手になじみ、角がすこし丸くなっている。長く持ち歩いた物は、手放せなかった時間のぶんだけ、角から丸くなる。手帳も、三十件の紙も、この人の鞄の中では同じ丸まり方をしている。


 僕はペンを借りる。静かな部屋では、ペン先が便箋を擦る音まで大きい。息を浅くして、一行だけ書いた。


『九十日が、終わってほしくないです』


 書いてから、それを凛のほうへ滑らせる。聞こえるのは、息だけだ。その息が、紙を受け取る手より先に動く。


「……これが、いちばん言いにくいこと?」


「はい」


「理由は」


「言うほどのことじゃないので、とは言えなくなりました」


 その言い方は、九月からずっと僕の逃げ道だった。口にするたび、道は一本ずつ細くなる。もう肩をすぼめても通れないほどだと、今日になって気づく。


「それ、いつもの逃げ道でしょ」


「はい。今日で一つ減りました」


 凛は便箋を二つに折り、もう一度開いて、また折る。折り目のわずかなずれを指先で直す。その手つきを、僕は始業式の日に一度見ている。開かないまま押し戻された紙も、端だけはきれいに直されていた。


 同じだと気づいても、それを口に出す用事はどこにもない。用事のない気づきほど、胸の内側へ静かに居座り、人を黙らせる。


 それから凛は、自分の便箋を一枚とり、いちばん上に自分の名前を書く。そして途中で――ペン先が止まる。握った指だけが、白くなる。


「……やっぱり、いい」


「読みません」


「読まないでほしいんじゃなくて」


「はい」


「まだ、なの」


 書いた紙は、渡されないまま鞄の内側へ沈んでいく。凛の指が、紙の端を二度だけ折り直す。その小さな紙の音に合わせるように、息も乱れる。


 僕は聞くだけで見ない。見ないと先に決めておくほうが、あとで見たくなったときに困らない。いま見れば、もっと見たくなる。


 渡されなかった紙を、僕は惜しいと思っている。九月のはじめなら、胸は少しも動かなかったはずである。渡されないものは無いのと同じ。無いものについて考える時間は、ずっと機械のほうへ使ってきた。けれど、使い道が一つ増えると、余りのほうが減る。減ったぶんが、今日の惜しさになって、胸の奥にうすく残る。


 凛はいつもの紙を出し、二十二本目の線を引く。下敷きが便箋なので、紙はやわらかく沈む。線はまっすぐ進めず、わずかに波打っている。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 便箋の罫線が紙の下から淡く透ける。引いたばかりの線の脇に、もう一本のうすい線が、触れないまま寄り添っている。


「センパイ、一行だけ、だって」


「録るな」


「録ってないもん、見てただけ。ねえセンパイ、便箋の余白、あと三十行ぶんくらい残ってたけど? ふふっ」


 こだまは扉の隙間から、顔の半分だけをのぞかせている。半分でも、目のほうは面白そうに光り、しっかりこちらを向いている。


「ふぅ……。一行で足りたので」


「三十行ぶん、もったいなくない?」


「余白は、読む人のものです」


       ◇


 こだまは、その〈一行だけ〉を放課後の教室まで運んでいく。放送部ではない人間の耳へ入るには、それだけで足りる。話は、廊下を二本ぶん渡るあいだに、書いた中身だけをきれいに落とす。落ちて空いたところは、聞いた側の想像が、都合のいい形で埋めていく。


「なあ三雲、手紙って何書いたんだよ?」


 蜷川は椅子を後ろ向きにして座り、背もたれに腕を預けている。その座り方だけが、九月からずっと同じである。


「言いません」


「手紙を書けとは書いたけどさ、一行とは思わねえだろ、普通」


「思わなくていいです」


 蜷川の声は軽い。軽さを保とうとする声は、力をかけたぶんだけ細くなる。その細さだけが、言葉の奥に残っている。


「一行で足りるなら、二十二番は何のためにあるんだよ?」


「渡すためです」


「……お前、そういうとこな」


 言わないという返事は、それだけで噂の材料になる。答えない人間のまわりには、空白を埋めるように、答えのかわりの話が集まる。それでも僕は、あの一行を誰にも読ませたくない。読ませれば、読んだ人の数だけ意味が変わり、僕が書いた一行ではなくなる。


 十七時十分。いつもの十二分。凛は鞄の口を一度だけ確かめた。それから、そこへ手を置いたまま歩いている。歩くたびに鞄が揺れても、その手だけは離れない。


       ◇


 その夜の噂は、人数のあいだで揺れている。四人だ。いや三人だ。そもそも見ていない者が、なぜ数えられるのか。数える人と数えられる人の距離だけが、日ごとに狭くなる。名前はまだ出ない。出ないまま、話す声だけが少しずつ小さくなる。小さな声は、耳を寄せた人の中で本当らしい重さを持ち、また次へ渡っていく。数えている人によれば、あと二十三日である。


 小さくなった声のほうが、かえって遠くまで届いてしまう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。