23. 下がったつまみ
教室のあちこちで、去年が掘り返されはじめている。机を挟んだ小声が、冷えた空気の中を渡っていく。
「去年の今ごろにもあったよな。急に喋れなくなった放送」
「あれ、機械の故障じゃなかったの?」
「故障なら、次の日も直ってないだろ。次の日は普通に流れてた」
僕は名簿を伏せる。紙が机を打つ乾いた音だけが、妙に近い。その話の続きを、いまは聞いていたくない。
去年の十一月の放送は、この校舎で二度と話題にならないものだと思っていた。けれど、人の記憶は季節が一周すると、しまった場所からひとりでに戻ってくるらしい。窓から入る空気の冷たさ。日の落ちる速さ。廊下に伸びる影の色。そんな小さなものに手を引かれ、忘れたふりをしていた日まで連れ戻される。
噂を聞いていたくないと思ったのは、たぶん初めてである。噂は名を名乗らない。誰の話なのかは分からない。それでも、僕の指だけが名簿の端で固まっている。
◇
十六時三十分。卓の赤いランプがともる。
「はい、今日の相談です! ――『昔の写真を見せて』って言ったら、相手が急に黙りました。触れてはいけない話題だったみたいです」
「聞き出さなくていい。かわりに、こちらの古いのを先に一枚見せればいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
放送を切る。卓の赤いランプが消え、さっきまで声のあった部屋に機械の低い音だけが残る。僕はスマホを出す。
「二十三番、いちばん古い写真を見せてもらう、です」
僕は写真アプリを立ち上げる。
「あれ? 見せる、じゃなくて、見せてもらうの?」
「先に、と凛が答えたので」
凛が答えたとおりに、僕は動く。それだけである。今日に限った話ではない。
「分かったわ、それでいい」
僕の写真の枚数は少ない。撮るのは卓だけである。つまみを動かした日には、動かしたあとの並びを撮っておく。同じ形のつまみが、細い溝に沿って並ぶ。どこをどれだけ動かしたかは、戻すときに画面を見れば分かる。僕の記憶より、そのほうが確かである。
「……卓の写真しかないじゃん」
「機械は動かすと元に戻せなくなるので」
「人は?」
「人は撮りません」
いちばん古い一枚まで、指はすぐに届く。同じ卓の写真が画面を流れ、途中で、九月の写真を一枚だけ通り過ぎた。原稿の角に、手が二つ並んでいる写真である。僕の指だけが、その写真を越えるときに少し速くなる。
「いま、飛ばした」
「飛ばしていません。順に送っています」
「ふうん」
「これです」
凛の目が、画面の隅の日付で止まる。それから、確かめるように卓へ移る。窓の外の光はもう薄く、冷たい夕暮れの青がガラスににじむ。スマホのあかりだけが、近くに並んだ二人の手を青白く照らしている。
「……これ、去年の」
「はい」
「つまみ、一本だけ下がってる」
この人は一年半、この卓を見ている。整った並びの中で一つだけ高さが違えば、それが何をした跡かまで分かる。声と指先をここに預けてきた時間が、その目に残っている。気づかないはずがない。
僕が卓のつまみを動かしたのは、あの日が初めてである。動かしたものは元へ戻さないといけない。そのための控えを撮る癖も、その日に始まった。残すつもりだったのは、つまみの高さだけである。
「……あれ、透だったの」
「写真の日付は、そうなっています」
僕はそれ以上を言わない。黙っているほうが、この人は答えなくて済む。あの日の話は、この人にとって、答えないでいられる場所がいちばん少ない。スマホを持つ手に、少しだけ力が入る。
「おやおや、私、一年間ヒーローだったんだけどねえ」
扉の枠に都築先輩が寄りかかっている。廊下の薄暗さを背に、口元だけで笑っている。いつからいたのかは分からない。この人はいつも、いちばん都合のいいところに立っている。
「庇ったことになってたのは、私だからさ。楽でよかったなあ。番組が一本、終わっちゃったなあ」
「言っていいのか? とご自分で聞いてたじゃないですか」
「うん。それで君はこの結果を選んだ……。私は口を出さない主義だからね」
「はい」
「まぁ主義の話をしてる人ほど、口は出しちゃうんだよねえ。くっくっく」
都築先輩は手をひらひら振って、廊下の暗がりへ消えていく。足音が遠ざかるほど、残された部屋のほうが急に広くなった気がする。凛とのあいだにある沈黙まで、置き場所をなくす。
あの日、僕がつまみを一本下げた理由を、この人は一度も聞いてこなかった。その沈黙に守られて、僕も言わずに済んでいる。聞かないという形の口の出し方も、たぶんこの世にはある。
凛は台本の紙を机に置き、二十三番の行へペン先を下ろす。紙を擦る音が、広くなった部屋に細く響く。写真を見たあとで、手が一度止まる。引かれた線は、終わりだけ力を失い、糸のように細くなって消えている。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
◇
「……わたし、あの日のありがとうを、一年、言う相手がいなかったの」
聞こえるのは、息だけだ。乱れているという事実だけが届いて、その中身は僕には分からない。分からないまま、僕はその音をずっと覚えていることになる。
「言わなくていいです。機材側の問題にしておけばすべて丸く収まります」
「よくない」
「僕は、感謝されるために落としていません」
「……そういうところが、いちばん困る」
困らせるつもりはない。けれど、否定する言葉も見つからない。あの日に落とした音を、僕は一年ぶん、誰にも渡さずに持っていた。持っていると決めたのは僕で、渡さないと決めたのも僕である。それを今日、写真の日付のほうから、勝手に凛へ渡してしまった。手放したはずなのに、胸の奥は少しも軽くならない。代わりに凛の息が残り、前より重くなる。軽くならないことのほうが、僕には意外だった。
十七時十分。いつもの十二分を、いつもの速さで歩く。空は紺色へ沈みかけ、街灯が歩道に淡い輪を落としている。街路樹の下は葉の匂いが濃い。踏むたびに乾いた音が返り、凛の足音と重なる。
凛は三回、口を開く。三回とも、何も言わずに閉じる。冷えた空気へ、白い息だけがほどけていく。他人の言葉なら一分の狂いもなく読める人が、自分の五文字だけを持て余している。
名前の付かない助け方をした人間は、名前を付けられるのを、たぶんいちばん怖がっているのだ。
「……あのね」
「はい」
「明日でもいい?」
「はい」
この人が同じことを二度聞くのは、放送では一度もない。台本のない沈黙だけが、僕たちの歩幅に合わせてついてくる。
「あ、明日じゃなくてもいい?」
「いつでもいいです」
◇
その夜の噂は、去年の話になっている。去年の今ごろ、放送で声が出なくなった人がいた。あれは機械の故障だったと聞いていたが、どうやらそうではなかったらしい。誰が助けたのかについては、三年の誰かだという話と、機械が勝手に直ったという話が、並んで流れている。どちらの話にも名前は付いていない。名前のないまま、噂だけが人から人へ渡っていく。数えている人によれば、あと十九日である。
去年の話をしている人たちは、去年その放送を聞いていた人ばかりではない。それでも、語る声には迷いがない。




