24. やらなかったこと
その朝、放送室の冷えた床いっぱいに、白さの違う紙が広がっていた。
箱から出した今朝ぶんが左、繰り越しの束が右である。凛は右の束を、下から順にめくっている。膝を冷たい床につけ、髪を片側だけ肩の後ろへ落とし、紙の角を一枚ずつ立てていく。伏せた横顔には、探す前から焦りがにじんでいる。
「無い」
「はい」
「今日、二十四番なの。今朝の箱に、かばう話が一通も無いの」
「はい」
僕は卓の前に座ったまま、電源を順に入れていく。スイッチが入るたび、機械の低い明かりが灯る。手伝わない。伸ばしかけた指も、膝の上へ戻す。手伝えば、この人が選んだことにならない。
「手伝ってとは言わないけど」
「はい」
「なんで手伝わないの、とは聞いてもいい?」
「聞いてもいいです」
床に広がった紙は、下へ行くほど手ざわりが古くなる。折り目の癖も、紙の厚みも、一枚ずつ違う。ノートを破った端がぎざぎざのもの。机の中で十字に畳まれていたもの。雨の日に持ち歩かれ、波打ったもの。凛の指が触れるたび、出せなかった声の時間までめくられていくように見える。この束は、読まれなかった日数のぶんだけ厚い。
「答えは?」
「凛が選んだことにならないからです」
三十分かかって、凛は五日前の金曜の一通を、束の底から引き上げた。ようやく見つけたはずなのに、顔は晴れない。膝の上には紙が四十枚ほど残り、その重さがまだ両手を塞いでいる。
「……これで、いい?」
「凛が選んだなら、それでいいです」
「うん」
凛は束から引き上げるなり、ペンを走らせはじめた。紙は途中で折り返されたままで、押さえる指先に力がこもっている。最初の何行かで〈かばう話だ〉と分かったのだと思う。三十分を探すほうへ使ったので、残りは放送で初めて読むことになる。知らない続きを前にしても、凛のペンは止まらない。
選んでいたころは、中身を知り、危ない言葉を見つけて消すのが僕の役目だった。いまは違う。今朝の一通は、誰の目も通らないままマイクの前へ出る。胸の奥に、小さな棘だけが残る。それでも僕は、選ばせることと放っておくことの境目から目をそらす。
◇
十六時三十分。窓から差す西日が卓のつまみを赤く照らし、マイクの網に細い影を落とす。
「はい、今日の相談です! ――友達があるトラブルの責任を追及されています。かばいたいけれど、嘘はつきたくないです。わたしは一年で、吹奏楽部の――。あ……」
凛の声が、そこで止まった。紙を押さえる指が固まり、目だけが続きを追っている。
遅れてから、続きを飛ばした。声は何事もなかったように先へ進む。けれど、飛ばしても、もう読まれてしまっている。学年と部活が分かれば、この校舎の中では十人を切る。廊下の向こうで、見えない耳が一斉にこちらを向く気がした。
僕は自分のマイクを生かさない。喉まで出かかった言葉を飲む。ここで割り込めば、いま気づいていない人にまで気づかせてしまう。指はスイッチの手前で止めたまま。触れれば届く距離が、ひどく遠い。僕は放送の残りを最後まで聞く。
「……嘘をつかなくていい。かわりに、自分がやらなかったことだけを言えばいい」
答えの紙は、放送の前に書かれている。書いた本人が、書いたとおりの答えを、いちばん要るときに自分へ返している。凛の唇がわずかに震える。けれど、紙を持つ手は逃げない。
「じゃあ、それ、やりましょう」
僕はマイクの前へ移る。卓の椅子ではなく、読む側の椅子である。この椅子に座るのは、九月から数えて二度目になる。座面には、凛の体温がまだ残っている。制服越しに伝わる温かさが、逃げたくなる僕をその場に残す。誰かの温かいところへ座って喋るのは、思っていたより落ち着かない。赤いランプが、目の前で黙って光っている。
「二年三組の三雲です」
名乗ってから話す。声だけではなく、誰が言ったかまで引き受ける。放送とはそういうものだと、この部屋で教わった。
自分の学級と姓を口にした瞬間、廊下のスピーカーが、わずかに遅れて同じ声を返してくる。薄い壁を回って戻った声は、もう自分のものに聞こえない。名前を出すというのは、たぶん、自分の外側に一人ぶんの人間を立たせることだ。立たせたぶんだけ、隠れる場所が減る。九月から数えて、僕は減らしてばかりいる。
「放送の前に原稿を確かめるのは、音響係の仕事です。僕は確かめませんでした」
それ以上は言わない。言えるのは、自分がやらなかったことだけである。凛が読み違えたとは言わない。言えば嘘にはならない。けれど、それは僕がやらなかったことでもない。言葉を足せば足すほど、凛のほうへ責任を押し返してしまう。
放送を切る。赤いランプが消える。二秒ほど、部屋の中には機械の低い音しかない。さっきまで校舎中へ開いていた空気が、急に狭くなる。
「……なんで」
「僕が確かめていれば、あの一行は残っていません」
「わたしが読んだのに」
僕はマイクのスイッチを指で確かめる。冷たい感触を、念を押すようになぞる。落ちていることを確かめてからでないと、この話はできない。声が外へ漏れないと分かっても、喉の奥はまだ固い。
「読む紙を用意するところまでが、僕の係です」
「それ、今日はわたしの係だったよ」
「係の表は、四月から書き換わっていません」
◇
都築先輩が来たのは、その十分後である。廊下を急ぐ足音は聞こえず、扉だけが静かに開く。その静けさのほうが、叱る声より重い。
「職員室から言われてね。明日の相談コーナーは一日お休み。私が決めたんじゃないよ」
「はい」
「事故は番組になるんだよねえ。……なるんだけどねえ」
箱は明日、開かない。九十日にしてくださいと言ったのは僕で、あの箱を毎朝開けさせたのも僕である。その箱を一日閉じさせたのは、僕の名乗りのほうだった。胸の内で、何かが静かに沈む。名乗った声はもう消えたのに、閉じた蓋の重さだけが残る。
聞こえるのは、息だけだ。都築先輩の息は、廊下へ出るまで一度も乱れていない。この人はいつも、自分の言ったことを本当にしてから帰る。
「……今朝、一通も見つからなかった」
凛の息が乱れる。浅く吸った音が、狭い部屋の静けさに引っかかる。今日の一点はそこである。凛が見つけたのは、紙ではなく、僕の沈黙だ。
「毎朝、これをやってたんだね」
「はい」
「言ってくれたら、よかったのに」
言えばよかったのかもしれない。その言葉を聞いた途端、黙っていた時間が胸の中で重くなる。言わなかった理由を、僕は全部は説明できない。凛に選ばせたかった。その奥にあったものには、まだ名前をつけられない。
「言うと、凛が答えないといけなくなるので」
凛は紙を出して、二十四番の行に線を引く。一度引いた線の上を、もう一度なぞる。ペン先が紙をこする音だけが、やけに近い。二本ぶんの太さになった線を、指の腹で押さえている。指先の色が薄くなるまで、離さない。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
なぞった線は、最初の一本より濃い。白い紙の上で、そこだけが傷のように沈んで見える。濃くなったぶんだけ、消すのが難しくなる。
「かばえとは書いた。放送でかばえとは書いてねえよ」
蜷川が扉のところに立っている。廊下の夕方の光を背負い、敷居をまたがない。前より半歩ぶん、部屋から遠い。そのわずかな距離が、返事より先に目へ入る。
「二十四番です」
「そりゃ知ってる。俺が書いたんだから」
「では、書いたとおりです」
「……書いたとおりって言われると、こっちが困るんだよ」
十七時十分。校舎を出ると、夕焼けが窓を薄く染め、長い影が足元から伸びる。いつもの十二分。凛は今日、いつもより半歩ぶん遅い。隣にいるのに、声をかければ壊れそうな距離がある。遅いぶんを、僕は歩幅で受ける。急かさず、振り返らず、それでも置いていかない。
知っていて黙っている人間のことは、まだ誰も数えていない。名前のないまま、校舎のあちこちに息を潜めている。
◇
その夜の噂は、かばった側へ向いている。廊下で交わされる短い言葉が短い言葉を呼び、問いだけが増えていく。かばうということは、あの人は最初から知っていたのではないか。知っていて黙っていたのなら、それは仕掛けた側と同じではないか。誰も名指しはしない。だからこそ、聞いた側は好きな顔を当てはめられる。話は名前を出さないまま、確かめようのないところへ手を伸ばしていく。数えている人によれば、あと十七日である。その場を離れても、聞いた言葉のほうは残る。
誰が最初に言い出したのかを探していた話は、いつのまにか、誰が黙っていたのかを探す話になっている。そしていま、名前のない声が、黙っていた人間の輪郭をなぞりはじめている。




