25. いつもの呼び方で
箱は一日だけ休み、今日からまた戻った。
十六時三十分。
「はい、今日の相談です! ――親の前だと、どうしても他人行儀になります」
「よそ行きの言葉を使わなくていい。かわりに、いつも呼んでいる呼び方で呼べばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
二十五番は、「相手の家族の前で好きだと言う」である。
「うち、母がいる」
「はい」
「今日、早く帰ってくる日なの」
「では、今日です」
「そんな決め方ある?」
凛が椅子の上で、いちど小さく息を吸い、姿勢を直す。
「二十五番の相手が、その日にいるかどうかで決まります。今日いるなら、今日です」
「……そういうところ、ほんとに変わらないね」
聞こえるのは、息だけだ。その息は、笑ったときの形をしていて、笑い声のほうは出ていない。
◇
十七時十分。昇降口から駅まで、いつもの十二分を並んで歩く。
いつもなら改札で別れ、凛は反対側の階段を降りていく。けれど今日は、僕もその階段を一緒に降りた。上りの電車は、下りより少しだけ混んでいる。窓の外はもう暗い。ガラスには車内の白い明かりと、並んだ二人の輪郭だけが映る。電車が揺れるたび、肩の線が近づいては離れる。
「混んでるほうに乗ってたんですね」
「毎日ね」
「知りませんでした」
「知らないままでよかったのに」
二駅で降り、商店街の途中を右に折れる。凛の家は角から三軒目。玄関の前には、自転車が一台、灯りの下に停めてある。
商店街は夕方の音で満ちている。揚げ物の匂いと、閉店を知らせる音楽と、自転車のベルが、店先の明かりの下で同じ高さに混ざる。この道を毎日歩いて帰る凛の耳は、たぶん僕の耳より丈夫である。僕の知らない凛の暮らしが、道の先まで続いている。
「あの、言っておくけど、うち、狭いから」
「はい」
「あと、母、たぶん、いろいろ聞くから」
「答えます」
「答えなくていいところは、答えなくていいからね」
その言い方は、放送で聞いた形とよく似ている。余計なものを先に捨てる、引き算の答えだ。そんな答えを出す人は、たぶん自分の家でも同じ喋り方をする。
◇
凛のお母さんは、姿より先に声を思い出した。電話の夜、受話器の向こうで僕の名を確かめた人である。顔立ちは凛と似ていない。けれど、言葉を口にする前の間だけは、驚くほどそっくりだ。
「透くん。この前は、遅くにありがとうね」
「こちらこそ、遅くにすみませんでした」
「凛、お茶」
「……うん」
台所のテーブルには、椅子が三つある。三つ目には、たたんだ新聞が置かれている。僕はどの椅子にも座らず、立っている。暖房の風は足元だけを撫で、肩には廊下から来た冷たさが残る。夕飯とお茶の匂いがする、凛の家の空気だ。そこへ僕だけが、まだうまく収まらない。
「立ってると、話しにくいでしょう?」
「立ったまま言います」
「あら」
「言っておきたいことがあります」
凛が湯呑みを二つ抱えたまま、ぴたりと止まる。薄い湯気だけが動く。こわばった手が、少しだけ下がる。
「僕は、凛が好きです」
僕の耳の中で、台所の音が一度だけ、全部止まった。
冷蔵庫が、何も知らないように低く鳴りはじめる。お母さんは湯呑みをテーブルへ置く。それから、僕の言葉を確かめるように、ゆっくりこちらを見る。
「あらあら」
「あらあら、じゃなくて……」
凜は真っ赤になってうつむいた。
「凛は昔から、人の手紙を読むのが上手だったのよ。人の言葉なら、いくらでも」
「お母さん!」
凛の声が、一段だけ高くなる。放送では決して出さない高さだ。その細い声が、狭い台所の壁に当たって戻ってくる。
「自分のはね、書いても出さないの。小学生のころから、そう」
「あの、それより」
「……いま、凛って呼んだわね」
「『いつもの呼び方で呼べばいい』が凜さんの答えでしたので」
湯呑みの底がテーブルに触れ、その音が一度だけ、硬く跳ねる。
「あらそう。じゃあ、うちのいつもの呼び方でいくわね。りんちゃん、お茶うすいわよ?」
「お母さん!」
台所の湯気の向こうで、りんちゃんと呼ばれた人の顔が、怒ったように眉を寄せている。ただ、伏せた目は逃げ場を探している。引き算の答えというのは、答えた本人のところへいちばん強く返ってくるものらしい。
凛は湯呑みを置き、鞄から紙を取り出す。二十五番の行に、迷いのないまっすぐな線が引かれる。人が見ているところでは、この人の手は定規を当てたように狂わない。けれど、紙を押さえる指には、さっきまでなかった力がこもる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「……それ、二十五番だから」
声が震えている。震えたことに本人が気づいて、そこで一度止まる。聞こえるのは、息だけだ。何が本当かは、僕には最後まで分からない。
「はい」
「二十五番だから、言ったんでしょ?」
「言いました」
「……そう」
僕は訂正しない。訂正すれば、この人が答えなければならなくなる。今日は、その答えを出す日ではない。今日の用事は、二十五番を果たすことだけである。果たしたぶんの線は、もう紙の上に引かれている。
それでも、言ってしまったあとの部屋は、来たときと同じではない。湯呑みの湯気も、冷蔵庫の低い音も変わらない。それなのに、僕の側だけが、ほんの少しずれている。言葉は口から出た瞬間、相手へ届くより先に、言った人間の形を変えるものらしい。作り替えられた僕は、まだ自分の手をどこに置けばいいのか決められずにいる。
◇
家に着いたのは十九時を過ぎていた。冷えた夜の中、台所の電気が点いている。玄関に手をかける前から、明るい声がわずかに漏れてくる。
「センパイ、おそーい。おばあちゃん、ごはん食べちゃったよ」
「なぜ君がいるんですか?」
「差し入れ。ついでに味見。ついでにおかわり! ふふっ」
「ついでが二つあります」
「ついでが二つあります、だって。センパイ、そういうとこ変わんないわぁ」
こだまは箸を持ったまま、台所の椅子を一つ、当然のように占領している。祖母は湯呑みを二つ出し、そのうち一つを後輩のほうへ寄せている。台所には卵焼きの甘い匂いと、さっきまでの笑いの名残が、まだ温かく残っている。
「センパイのおばあちゃん、卵焼き上手っしょ」
「祖母は火加減にうるさいので」
「知ってる。センパイもうるさいもん」
祖母は、湯呑みを包んだまま笑っている。その声は、よく知る台所の空気まで明るくする。この家で祖母を笑わせられる人間が、僕以外にもいるらしい。僕が今日いなかったぶんの席は、いつのまにか埋まっていた。
埋まっているのを見ても、腹は立たない。胸の奥は、思っていたより静かだ。そんな自分のほうが、少しだけ意外である。
◇
その夜の噂は、もう学校の外へ出ている。保護者会でその話が出たらしい、と誰かが言い、別の誰かが本当かと聞き返す。子どもの噂は校門で止まるものだ。けれど、止まらなかった話は大人の口へ移り、そこで少しずつ形を変える。移った先では、面白がる人と心配する人の割合が入れ替わる。笑い声は減り、声をひそめる時間が長くなる。数えている人によれば、あと十五日である。
入れ替わったところで、数えている数だけは同じである。




