26. 頼まれごと
昼の教室で、蜷川累だけが、誰にも呼ばれていない。
十一月の白い光は、窓ぎわの机の縁で細く切れ、そこから内側へ入ってこない。薄く曇った教室では、人の顔よりも、行き交う声の輪郭のほうがはっきり浮かぶ。この人はいつも、何かを頼まれる側にいた。プリントを集めるのも、席替えのくじを作るのも、誰かと誰かのあいだに立つのも、たいてい最後は彼のところへ回っていく。今日は、どれも回ってこない。
「それ、蜷川に頼めば?」
「……いや、いい。自分でやる」
「なんで?」
「なんとなく」
名前は出ている。ただ、頼む先として呼ばれるはずの名前だけが、声の輪から外されている。
噂は名を名乗らない。だから誰も、自分は名指しなどしていないと言える。そう言えるかわりに、取り消す方法もない。取り消す先がどこにも無いせいで、外された名前は外されたまま、低い声に運ばれて昼を越え、午後まで残る。
聞こえるのは、息だけだ。この教室では何も拾えないが、拾えなくても分かることはある。誰かが言いかけて、言い切らずに口を閉じるたび、机と机のあいだの空気が一度だけ縮む。九月には、その縮みがいつも笑いのほうへ抜けていった。十一月のそれは、どこへも抜けずに床の近くへ溜まる。
◇
十六時三十分。
放送室は、廊下より二度ぶんくらい冷たい。窓は閉じているのに、機械の乾いた熱と外からしみた寒さが卓の上でくっきり分かれ、つまみへ伸ばした手は甲の側だけが冷えていく。
「はい、今日の相談です! ――夢を人に言うと、笑われそうでこわいです」
「うまく言おうとしなくていい。かわりに、一度だけ言って、聞いた人に覚えていてもらえばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
凛が原稿から顔を上げる。椅子の背が小さく鳴る。答えた本人が、その答えを実行される側へ回る例は、九十日でまだ数えるほどしかない。
「え、わたし?」
「二十六番です。相手の夢を聞いて、覚えておく、です。前回僕が引き受けたので、今日は凜さんお願いします」
「……ずるい順番だね、これ」
「順番を決めたのは僕ではありません」
「知ってる。それも、ずるい」
放送を切ると、赤いランプが消え、機械の低い音だけが残る。凛は原稿を伏せ、紙の角を指先で揃える。きれいに重なった角をもう一度撫で、それでも足りないように、また揃える。
「笑わない?」
紙の角を揃える指は、きれいに揃ったあとも止まらず、白い縁を細く往復している。
「笑いません」
「ほんとに?」
「僕が笑ったのを、見たことがありますか?」
始業式の日から、この人は僕を見ている。声だけでなく、口もとや目の動きまで見てきた側が言うのなら、たぶん、それが答えになる。
「……無いね。ぜんぜん無い」
「では、無いままです」
「……朝の放送を、一度だけ、原稿なしでやってみたい」
その一言のところで、息が乱れる。台本の外の一点だけが、いつもどおり崩れる。始業式の日から、僕はこの崩れ方を聞きつづけている。慣れることはなくて、聞くたびに耳の裏が少しだけ熱くなる。
「覚えました。日付と時刻も覚えます」
「日付って何。まだ決めてないんだけど」
「決まったら書き足します」
凛が卓のほうへ手を伸ばす。指先だけが途中の空気に残り、卓へ届く前に、その手はゆっくり引っこむ。
「書き足すって、どこに?」
「頭の中にです」
凛の唇から、ようやく小さな息が笑いになってこぼれる。それから紙を出し、ペンの尻を二回、卓に鳴らして、二十六番の行へまっすぐ線を引く。
線を引くのは、いつも凛の手だった。教室から戻ったばかりの指が冷えていて、線の始まりだけが薄い。半分ほど走ったところでインクが追いつき、そこから先の黒が濃くなる。
「二十六番を書いたのは俺だぞ。なんで俺が聞かれる側にいねえんだよ?」
扉のところに蜷川が立っている。昼のうちから、行き場のない顔をしていた人である。放送室の敷居は、今日もまたがず、廊下の蛍光灯だけが肩の片側を白く照らしている。九月には、この人が入ってこない部屋なんて、校舎に一つも無かった。
「蜷川の夢は、まだ聞いていません」
「聞かなくていいよ」
◇
十七時。廊下の窓は、もう外より内側のほうが明るい。ガラスには青白い蛍光灯と、こちら側の影が薄く浮かび、その向こうの校庭は冷えた輪郭だけになっている。
「なあ三雲」
「はい」
「二十六番まで、全部、嘘だったんだろ」
「嘘じゃないです。僕、全部やりましたから」
蜷川の口が、少し開いたまま止まる。喉も、眉も動かない。返す言葉を探しているのではない。探し方そのものを忘れた人の止まり方だった。
「……誰も、俺に本当のこと言わねえんだよ」
その息は乱れていない。乱れていない声で言われると、僕の指先のほうが固くなる。乱れていれば拾えるのに、平らなまま滑ってくる声には、僕の耳は何の役にも立たない。
「蜷川の書いた三十件は、よく書けています。二十六番まで、一度も無理がありませんでした」
「……なんだそれ」
「褒めています」
「褒めるとこじゃねえだろ、そこ」
僕は慰めない。責めもしない。この人が欲しがっているのは、たぶんそのどちらでもない。頼まれる側でいるあいだ、この人は自分の名前を誰かに預けたままにできた。預け先が無くなると、名前は本人の手へ戻ってくる。両手は空いているのに、指は制服の脇で曲がり、肩だけがわずかに沈んでいる。戻ってきたものは、思っていたより重い。
「あの日、柱の陰に隠れた人がいるのを、僕は見ました」
言葉が口を離れてから、順番を間違えたことに気づく。この話をいちばん先に聞くべき人は、いま放送室にいる。背中には放送室の明かりが当たっているのに、廊下の冷たさが靴底からすねへ急に上がってくる。
「……お前が言いふらしたのか?」
「言いません」
「ふんっ。どうだか」
蜷川は笑おうとして、片方の口もとだけを引く。形になる前に消し、そのまま廊下を戻っていく。九月には、あの背中ひとつで校舎の空気が動いた。今日はもう、靴音が遠ざかっても、誰もそちらを見ていない。
十七時十分。いつもの十二分。駅へ続く道には店の明かりが細長くこぼれ、乾いた落ち葉が靴の下で鳴る。凛は今日、駅の手前で一度だけ振り返った。
振り返った先に誰もいないことは、たぶん本人にも分かっている。それでも確かめる人の歩き方を、僕は九月から見ている。振り向く直前だけ歩幅がわずかに狭くなり、そのあと元へ戻る。今日は、その戻り方がいつもより遅く、靴音のあいだが長い。
◇
その夜の噂は、一つの名前へ集まっている。誰も名指しはしていない。それなのに、廊下で足を止める向きも、教室で言葉を切る先も、同じところを向いている。名指しをしない集まり方は、名指しより遅く、名指しより長く続く。誰かの名を出した者がいないので、やめさせにいく相手も見つからない。数えている人によれば、あと十二日である。




