27. 落とさない指
教室の向きが、今日は放送室のほうへ回っている。顔は黒板を向いていても、声の先だけが廊下へ伸びている。
昨日まで、探す目は教室の中を巡っていた。今日は扉の外へ出て、白い蛍光灯が続く廊下のずっと先、その部屋の前で止まっている。
「鳴海だって、知ってて乗ってたんだろ」
「じゃなきゃ九十日も続くわけない」
「え、じゃあ二人とも嘘つきってこと?」
「そこまでは言ってねえって」
僕は唇を動かさない。ここで何かを言えば、その話には言った人間の名前が付く。名前の付いた話は、足音より速く廊下を走る。そうして広がった話は、たいてい別の誰かを削っていく。
この教室では何も拾えない。人が多くて、音に隙間がないからである。それでも、言い終わりが尻すぼみになるところは、離れていても見える。本気で言っている声は、たぶんああいう終わり方をしない。
分かっていながら、僕は机の木目から目を上げない。乾いた筋を目で追っているあいだにも、削られる先は一つずつずれていく。頼む先を外された人の次には、答えを出しつづけてきた人が置かれる。
◇
十六時三十分。窓に残った夕方の光が、機材の角で細く切れている。
「はい、今日の相談です! ――二つのうち、どちらかを諦めないといけません。決め方が分かりません」
「どちらも守ろうとしなくていい。かわりに、先に手放すほうを一つだけ決めておけばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
二十七番は、〈相手のために、ひとつ諦める〉である。何を諦めるのか、その答えの場所だけがまだ空白のままだ。
「今日のは、決めるのが先だね」
「はい」
「決まってる?」
「決まっていません」
決めるより先に、扉が短く鳴って開く。
こだまが、廊下の冷えた空気を押し込むように入ってくる。胸に抱えているのは録音機ではなく、棚から出した箱のほうだ。箱の側面には去年の日付が油性ペンで書いてある。黒い字は端だけ薄れているが、書いた人はもうこの学校にいない。
「センパイ、そこどいて」
「何をする気ですか?」
「流す」
「録るなとは言いましたが、流すなとも言っています」
こだまの手は、箱の角を持ったまま動かない。けれど、持ち方だけがいつもの茶化す手つきではない。指の関節が白くなるまで、硬い角をつかんでいる。
「知ってる」
「知っていて、やるんですか?」
「うん」
こだまは箱を置き、マイクの前に座る。椅子が短くきしむ。座ってからは、こちらを一度も見ない。
聞こえるのは、息だけだ。この部屋は静かなので、後輩の息が、いつもより浅いのが届いてくる。浅い息のまま口を開く人は、たいてい途中で止まる。この子は止まらない。
「……これ、こだまの言葉だから。誰の借りでもないから」
人の言葉を返さずに喋るこの子を、僕は初めて聞く。九月から、この後輩の言葉は、いつも誰かの言葉の裏返しだった。裏返す相手を探さずに口を開くと、声はこんなに細くなり、マイクの手前でかすかに揺れるものらしい。
◇
流れたのは、去年の春を閉じ込めた音である。
スピーカーの底のほうで、薄いノイズに混じり、まず机がきしむ。それから紙が擦れ、息を吸う気配が入り、そのあとに声が来る。
録音の中の放送室で、一人ぶんの声が原稿を読んでいる。読み間違え、言い直し、また間違え、そこでこらえきれないように小さく笑う。笑った息がマイクに触れ、少し間を置いてから、もう一度、頭から読み直す。
いま隣に座っている人の声である。同じ高さで、同じ癖で、それでも今の声より薄く、半歩うしろからこちらへ届く。
僕の指はフェーダーにかかっている。落とせば三秒で止まる。止めるのは簡単だ。つまみを下げても、音がそこで切れた理由までは誰にも分からない。去年の十一月に僕がそれをやったときは、助けたつもりでいた。けれど、消したものまで含めて本当に助けだったのかを、僕はいまも確かめられずにいる。
僕はフェーダーから指を外さず、凛を見る。
凛は唇を結び、首を横に振る。
それで手を止める。指はかけたまま、落とさない。九十日のあいだ、僕がいちばん得意だったやり方を、今日ここで置いていく。指の腹には、つまみの溝の冷たさだけが残る。
二十七番は、それで決まる。
凛は紙を出し、二十七番の行へ線を引く。放送室の灯りはもう落としてあって、廊下からこぼれる白い光だけが机の端まで届いている。紙を擦る細い音と一緒に、線が少し斜めに走る。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「……あれ、聞かれちゃった」
息が乱れる。台本の外の一点である。
「でも、あれ、わたしの声だった」
「そうだよ」
「勝手にやってくれたわね」
「うん、やった」
「……もう」
凛はそれ以上、こだまに何も言わない。こだまの肩は、次の言葉を待つ高さで固まっている。言わないことのほうが、この子には効く。効いているのは、たぶん怒られなかったからではない。自分の判断を、誰にも取り消されなかったからである。
「怒んないの?」
「僕は怒らないよ」
「……ずるいっしょ、それ」
「ずるいのは、たぶんお互いさまです」
「センパイに言われたくない」
◇
十七時。廊下の蛍光灯を背にして、都築先輩が扉から半分だけ顔を出す。
「職員室から。音源の管理、しばらく私が持てって」
「はい」
「今年いちばんの放送事故だねえ。……いや、番組だねえ」
「どちらですか?」
「番組だよ。事故は事故で終わるけど、番組は続きがあるからね」
先輩は扉の枠を指で二回叩く。乾いた音が廊下へ抜ける。今日はもう、その指が何を数えているのか見ないことにしている。
「続きは、あと何日ですか?」
「そこは君が数えるところでしょ」
保管庫の鍵は、その場で先輩の手へ移る。金属の小さな音がして、手のひらにあった冷たさがなくなる。十月に箱の鍵を渡して、十一月に音源の鍵を渡す。僕の持ち物は、九十日のあいだに順番に減っていく。それなのに、空いた手のひらは、握り直さなくても平らなままでいる。
「二十七番は〈ひとつ諦める〉だ。俺は何も諦めてねえのに、なんで俺のほうが減ってんだよ」
蜷川が廊下で言っている。声は開いた扉をまっすぐ抜けてくるのに、誰に向けたのかは分からない。
「聞こえてますよ」
「聞こえるように言ってんだよ」
「では、聞きました」
「……お前、ほんと、そういうとこ」
「よく言われます」
十七時十分。いつもの十二分。空はもう青黒く、街灯の白さの中を、二人ぶんの影がゆっくり伸びたり縮んだりする。今日は二人とも、いつもより歩くのが遅い。
◇
その夜の噂は、声のほうへ移っている。今日の放送のあれ、いつもの声だったよな。ずっと、あんなふうに練習してたのか。笑っていた側から順に言葉が短くなって、短くなったところで止まる。完璧だと思っていたものの下に、間違えて言い直した回数が積んであったと知ると、人はいったん黙るものらしい。数えている人によれば、あと八日である。




