28. 始発の左側
その日は、前の日の放送から、もう始まっている。
「はい、今日の相談です! ――一緒に見たいものがあるのに、誘う口実がありません」
「口実を作らなくていい。かわりに、待ち合わせの時刻だけ決めればいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
二十八番は、二人で同じ朝日を見る、である。朝は放送より先に来る。順番は待ってくれない。だから今日のうちに、決めるところまで済ませておく。
「日の出は六時二十八分です」
「それだけ?」
「それだけです」
凛はペン先を止め、顔を上げてこちらを見る。窓の外はもう暗く、ガラスには部屋の灯りが薄く映っている。机の上の小さな灯りだけが、二人の手元を丸く切り取り、紙の白さと指先を浮かせている。
「どこで、とか、何時に集まって、とか……」
「時刻だけ決めればいい、と答えたのは凛です」
「……自分の答えって、けっこう不便だね」
凛は息をこぼすように笑い、鞄から手帳を出して、隅に何かを書きつける。角はまるく削れ、表紙には長く持ち歩いた手の跡が薄く残っている。
「こだまも行く」
扉の隙間から、こだまがいつのまにか顔と肩を半分だけ差し入れている。
「来なくていいです」
「六時二十八分でしょ。時刻、決まってるっしょ」
「決まっているのは、二人ぶんの時刻です」
「ふぅんだ、けち!」
◇
六時十分。駅の改札に、制服は二つしかない。
外はまだ夜の底にあり、ホームの蛍光灯だけが冷たい白で浮いている。吐いた息も白い。券売機のあたりでは、掃除の人がモップを止め、場違いな制服を確かめるようにこちらを見る。
始発は上りと下りで別の電車だ。僕たちは反対の側から来て、同じ改札で会う。凛はホームの階段を上がりきると、朝の挨拶より先に手を差し出した。
「はい。返す」
差し出された手のひらに、左のイヤホンが載っている。十月からずっと、この人の鞄の中で揺られてきたものだ。
「今朝も、右だけで乗ってきたんでしょ?」
「はい」
「何日ぶりだと思ってるの?」
「数えていません」
「数えてよ、そこは」
数えているのは日数と件数の二つだけである。それ以外を数えはじめると、たぶん、終わりのほうが近く見える。この人が鞄の内側にそれを入れて持ち歩いていた日数を、僕は数えないことにしている。数えたら、返ってきたことのほうが重くなる。
◇
両耳が揃っていたのは、改札から歩き出すまでの一分だけだ。
その一分のあいだ、駅の音が急に平らになる。片方だけで聞き続けた世界は、いつのまにか左へ傾いていたらしい。傾きが戻ると、音が両側から同じだけ触れてきて、かえって肩が落ち着かない。
歩き出す直前、僕は左をもう一度、凛の手のひらへ戻す。
「え、いいの?」
「片方ずつのほうが、二十八番に近いので」
「……それ、二十八番に書いてないと思うけど」
左はしばらく凛の指先に載り、そのまま耳へ入っていく。
「書いてないことは、やってもいいことになっています」
「誰の決まり?」
「九月からの運用です」
朝の道では、帰りの十二分をそのまま逆向きにたどる。同じ道でも、上りと下りで見えるものは違う。看板の裏、固く閉まったシャッター、まだ湯気を立てていない店先。夜の側から見ていたものが、朝の側ではどれも、始まる前の形をしている。
パン屋の換気口から、焼く前の粉の匂いが流れてくる。白く乾いた匂いだけが先に起きている道を、二人並んで歩く。
六時二十四分。校門はもう開いている。放送室の鍵を開けるのは凛で、僕はその背中のすぐうしろで待つ。鍵の回る音は、誰もいない朝の廊下だと、夕方の倍くらい大きい。
六時二十八分。東の窓。
空の低いところが赤く、その色が校舎の壁を横から舐めていく。光は思ったより速い。速いはずなのに、見ているあいだだけは止まって見える。窓ガラスの冷たさが、触れていない額の手前までじわりと届く。
聞こえるのは、息だけだ。隣の息と自分の息が、同じ間隔で二つ、窓の前に並んでいる。
凛が二十八番の行に線を引く。紙へ差し込む赤が強すぎて、引いたばかりの線は黒く見えない。
線を引くのは、いつも凛の手だった。光が動いてから、線はようやく線になる。
「……終わったら、この時間、どうなるの?」
息が乱れる。台本の外の一点である。
「起きます」
「そうじゃなくて」
「はい」
「……うん。分かってる」
六時五十分。扉が勢いよく開き、こだまが冷たい空気ごと、息を切らして飛び込んでくる。
「起きたら六時半だったし」
「日の出は二十八分でした」
「知ってる。だから走ったの」
「走っても二十二分は戻りません」
息を切らした後輩の頬は、外の寒さにさらされて赤い。乱れた前髪と、肩を上下させる速さと、吐くたびにほどける白い息。走ってきた距離だけが、この子の言葉のかわりになっている。
「知ってるってば!」
◇
その日は、一日じゅう耳が半分だけ開いたままだった。左は凛の耳へ渡したから、自分の側は片方しか塞がっていない。放課後になると、椅子を引く音も、紙の擦れる音も、人の息も、ぜんぶ同じ近さで入ってくる。
今朝は始発だったので、起きたのはいつもより早い。眠りの足りない頭は、音を選り分けるのが下手だ。廊下ですれ違う三十人ぶんの呼吸が、靴音や衣擦れと混じったまま頭の内側で重なり、こめかみから目の奥へ鈍い痛みを押し込んでくる。
「……大丈夫?」
「聞こえすぎているだけです」
「それ、大丈夫じゃないやつでしょ」
「はい」
「なんで返したの、片方?」
凛の指が、鞄の内側にあるいつもの場所を、布越しになぞっている。
「二十八番が今日だったので」
「終わったら、返してもらうからね」
「はい」
十七時十分。いつもの帰り道。今日は歩幅を半分にしてもらう。隣の靴音まで、僕の耳に合わせてゆっくりになる。
◇
その夜の噂は、数のほうへ寄っている。数えてる奴がいるらしい、あと三日だって。誰が数えはじめたのかは誰も知らない。知らないまま、廊下の会話の最後に、その数だけが付くようになった。付いた数は、次の日には一つ減っている。減っていくものを、人は最後まで見たがる。九月にこの数を面白がって口にしていた人たちは、いま同じ数を、声をひそめて渡し合っている。数は同じで、渡し方だけが変わった。




