29. 柱の陰
十六時三十分。
「はい、今日の相談です! ――ずっと黙っていたことがあります。今さら言うのは、ずるいですか?」
「今さらだと言い訳しなくていい。かわりに、いつから黙っていたかを先に言えばいい」
「じゃあ、それ、やりましょう」
凛がマイクのスイッチを切る。落としたのは僕ではない。赤いランプが消え、機械の低い音だけが狭い部屋に残る。切れてからも、僕はマイクの位置を自分のほうへ寄せない。ここから先は、校内へ流すものではない。この部屋の空気だけに残せばいい。
「二十九番は、相手に、嘘をひとつ打ち明ける、です」
「うん」
「始業式の日から知っていました」
凛の手が、原稿の角に触れたまま止まる。指先の下で、紙だけがかすかに反る。
「……何を?」
「あの告白が、罰ゲームだったことをです」
「……始業式の日って、初日じゃない?」
「初日です」
◇
柱の陰から、白い縁が細くのぞいていた。誰かがこちらへ構えている物の縁だ。二メートルもない。だから、笑いを押し殺しきれず鼻へ抜けた息が三つ、柱の向こうに並んでいるのも聞こえた。
あの日の昇降口には、外の熱がまだ床の奥まで残り、上履きの底がすこし柔らかく沈む。汗と埃と、開けたままの扉から入り込む草の青い匂いが、ぬるい空気の中で混じっている。
紙も見ている。握りつぶされて落ちたものを拾い、手のひらで開いて、読んだ。表題と、番号の付いた三十行。その並びまで、いまも目の奥に残っている。
「拾ったの、あのとき?」
紙の角がどちらへ折れていたかまで、僕はまだ覚えている。必要のない細部ほど、目の裏に残る。
「はい」
「読んだ?」
あの日の紙には、握りつぶされた跡が、角まで固く残っていた。机で伸ばしても戻らない皺が文字を何度も折り、そこだけは、読む目が引っかかる。紙からは、昇降口の埃と、手の汗が乾いたような匂いがした。
「読みました」
「人の声に、息の乱れが混じるのが聞こえます」
「……え」
「中身は分かりません。嘘かどうかも分かりません。証明する方法も、一つもありません」
聞こえるのは、息だけだ。その一文を、僕は生まれてから一度も人に言ったことがない。言ってしまうと、口の中が急に乾く。
「……ずっと?」
「はい」
「じゃあ、なんで、九十日なんて」
「箱を開けたかったからです」
九月に一度、同じことを聞かれている。あのときは答えなかった。答えれば、次はこの人が答えなければならなくなる。そう考えたからで、その理由は今日も変わらない。変わらないのに、今日は言う。今日も黙るほうが、もう嘘になる。
「一年半で、一通しか入っていませんでした。九十日あれば、六十回くらいは開きます」
「……そんな理由で」
「そんな理由です」
九月に自分で選んだ数を、僕はいま初めて他人へ説明している。口に出し、順に並べると、思っていたより自分に都合のいい数だった。凛が黙っているぶん、その事実だけが机の上へ濃く残る。
「三十件は?」
「箱を開ける口実です」
「……ひどい人だね」
凛は笑わない。口元はすこし動いたのに、音にはならない。笑わないまま、目の縁だけが薄く赤くなっていく。九十日のあいだ、この人はいつも先に答えを出す側にいた。答えを出さなくていい場所へ置かれると、人はこんなに長く黙るものらしい。原稿を押さえる指にだけ、ゆっくり力が戻る。
僕は、それ以上を言わない。言えば、この人の残っている場所が一つ減る。
◇
「じゃあ、こだまが嘘つくから当ててみてよ」
扉の隙間から、後輩が体を半分だけのぞかせている。手は扉の枠にかかり、靴の先だけが放送室の床に乗っている。いつからいたのかは、この際もう聞かない。
「今日は昼、パン二個食べた」
「本当です」
「じゃあ、三個」
「嘘です」
二つとも、息の形が違っていた。最初は短く喉で切れ、次は鼻へ細く抜ける。違いが分かるだけで、どちらが本当かは分からない。耳が届くのは、そこまでである。
「……たまたまっしょ」
「たまたまです」
「認めるの早くない?」
こだまは腕を組み、眉間に浅い皺を寄せたまま、扉の枠へもたれている。靴の先が、床を短く擦る。この子が納得しないほうが、僕にはありがたい。疑う声が残るかぎり、これはただの偶然でいられる。
証明にならないことが、いまここで、誰にも分からない形で証明された。それでいい。証明できないから、僕は暴かずに済んだ。
「怒っていいところなのに、怒れないの」
凛が言う。声はもう落ち着いている。けれど、語尾だけが机の上でかすかに揺れる。
「……ぜんぶ、わたしが答えたとおりにされてるから」
息が乱れる。台本の外の一点である。
「二十九番の行、引くね」
「はい」
ペン先が紙を擦る音は、思ったより長い。線は二十九番の行をはみ出し、三十番の行の上まで走って、そこで止まる。止まった先に、黒いインクが小さく溜まる。
線を引くのは、いつも凛の手だった。
「……聞こえてたんだ、ずっと」
「はい」
「じゃあ、明日のことは、わたしが決めていい?」
「はい」
九十日のはじめに、期限を決めたのは僕である。机の上に勝手な終点を置いた。だから、最後の一日を決めるのは、この人である。そこだけは渡さなければ、計算が合わない。
「即答だね」
「明日のことは、僕の係ではないので」
凛が椅子ごとこちらへ向き直る。脚が床を擦り、狭い部屋に乾いた音が広がる。九十日で、この人が正面から座り直したのを見るのは二度目である。目をそらす場所が、もう机の上にはない。
「じゃあ、今日までのことは、誰の係だったの?」
「僕です」
「……ちゃんと、やってた?」
「三十件のうち、二十九件は」
残りの一件は、紙の上でまだ線を待っている。そこだけ紙の白さが細く残り、さっきの長い音から取り残されている。
「残りの一件は?」
「明日です」
「……明日は、わたしが決めるんだよね?」
「はい。決めてください」
◇
十七時十分。いつもの十二分。
この十二分が九十日で最後になることを、二人とも口に出さない。言葉にすれば歩幅まで変わりそうで、出せない。出さないまま、いつもと同じ速さで歩く。信号は二回とも青で、駅の案内音は昨日と同じ調子で響き、街灯の点く順番も変わらない。隣の靴音も、近づきも離れもしない。何も変わらないことのほうが、今日は珍しく胸の奥へ残る。残ったものが、足取りをわずかに重くする。
肩の高さに、冬の匂いがある。乾いた風が制服の襟から入り、皮膚の上だけを冷たく撫でる。昇降口で一度だけ吸い込んだ空気が、駅までのあいだずっと喉の奥に残っている。息を吐いても、そこだけは薄く冷えたままだ。
改札で、凛が振り返らずに手を挙げた。指先が蛍光灯の白い光を横切り、そのまま人の流れへ沈んでいく。僕は、見えなくなるまで改札の手前に立っている。
◇
その夜の噂は、明日を待っている。明日で終わるらしい。終わるのか。終わるとして、終わったあとはどうなるのか。九十日のあいだ数えつづけた人たちは、数え終わったあとの予定を持っていない。笑っていた声はもうどこにも無くて、廊下は妙に静かである。静かなぶんだけ、明日そこで何かが鳴れば、校舎じゅうに届いてしまう。数えている人によれば、あと一日である。




