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30. 原稿のない朝

 八時前。放送室の扉は、まだ閉まっている。磨りガラスの向こうに明かりはなく、廊下の蛍光灯だけが白く映り込む。


 土曜の校舎は、平日より人の声がひとつぶん少ない。そのぶん、上履きの音は冷えた廊下をまっすぐ走り、曲がり角の先まで届く。


 僕は相談箱の投函口へ、一通を入れた。名前は書かない。それがこの箱の作法である。


 開けさせるために九十日を選んだ人間が、最後に入れる側へ回る。理屈は通っている。胸の内側だけが、その理屈に従わない。


 八時。鍵が短く鳴り、凛が箱を開ける。金属のこすれる音は、冷えた廊下によく響く。


 凛は束を膝の上で分け、一枚ずつめくる。紙の擦れる音が、規則正しく続く。一通のところで、指だけが止まった。十一月に一度だけ、便箋へ一行を書いて渡した、僕の字である。


「……これにする」


「はい」


「聞かないの?」


「聞きません」


 束の残りが、膝の上でそろえ直される。わずかにずれた紙の角が、親指で同じ線へ押し戻される。


「どうして?」


「選ぶのは、凛の仕事だからです」


「……それ、わたしが言った台詞」


「はい。覚えています」


       ◇


 八時五分。廊下の先で上履きが止まり、汐見ゆきが入ってくる。扉を閉める音が、いつもより小さい。


「……りん」


「うん」


「あたし、今日、聞いてていい?」


「うん。聞いてて」


 ゆきの指が、鞄の紐を一度だけ握り直す。硬い布が、指のあいだでかすかに鳴る。


 それだけで、先月の終わりから止まっていた返事が、ようやく届いたらしい。二人は並んで立ち、どちらも相手のほうを見ていない。それでも、肩と肩の間隔だけは九月のころへ戻っている。窓から差す薄い光が、その隙間を細く通る。


 八時十分。都築先輩が来る前に、凛のほうから廊下へ出ていく。背中は小さく見えるのに、歩幅は縮まらない。


「朝の枠を、一回ください」


「土曜授業の日は放送一回だけだよ」


「その一回でいいです」


「いいねえ。番組だからね」


 僕は何も頼んでいない。今日は僕が動く日ではない。凛が自分の足で取った枠なら、僕の理屈を挟む場所もない。


「センパイ、今日は卓、こだまがやる」


「僕の係です」


「今日は違うっしょ。センパイ、聞く側」


「……分かりました」


「ん。決まり」


 卓の椅子を後輩へ譲る。九十日のあいだ、僕がいちばん長く座っていた場所である。立ち上がったあとの座面には、自分の体温だけが薄く残り、朝の冷気にすぐほどけていく。


 八時十四分。凛がマイクの前に座り、スイッチへ手を伸ばす。触れる手前で、指が止まる。伸ばした指の関節だけが、わずかに白い。


「……行ってくる」


 息が乱れる。台本の外の一点である。九十日でいちばん短い、いちばん近い乱れだった。


       ◇


 八時十五分。赤いランプが点く。小さな赤がガラスに映り、放送室の輪郭まで変わる。


「はい、今日の相談です! ――人の言葉を、額面で受け取れません。それでも、信じると決めることはできますか?」


 凛の声は澄んでいる。今日は紙が無い。紙が無いのに、いつもと同じ高さで、同じところで息を継いでいる。


「信じると決めなくていい。かわりに、嘘だったことにしない、と決めればいい」


 答えの紙は、机の上に無い。書いていないものを読む声が、これほど揺れないとは思わなかった。僕の喉だけが、遅れて小さく鳴る。


「じゃあ、それ、やりましょう」


 言ったのは凛である。僕ではない。


 九十日で二十八回、僕が言ってきた言葉を、二十九回目に本人が使った。返されたのではない。凛の声で、先へ運ばれている。


「二年三組、鳴海凛です」


 噂は名を名乗らない。放送は、名乗ってから話す。


「あの日の告白は、嘘でした。今日のは、嘘じゃないです」


 スピーカーの向こうで、校舎のどこかが息を止める。椅子のきしみも、廊下の足音も消える。二メートルどころではない距離の沈黙が、床を伝い、足の裏から上がってくる。


「三雲透くんが、好きです」


 僕はフェーダーに触れない。今日は、切る係がいない放送である。


       ◇


 放送が終わり、赤が消える。消えたあともしばらく、丸い残像が目の奥に浮いている。


 凛は椅子に座ったまま、息を一つ吸う。細い肩が上がる。吸いきったところで、保っていた顔が崩れた。


 声は出ない。両手も上がらない。ただ、頬を伝うものだけが、朝の光を細く曲げながら落ちていく。机に届く前に、顎の先で丸く光る。


 九十日のあいだ、この人は放送のたびに一分の狂いもなく喋ってきた。狂いのある声を出すのは、いつも台本の外の一点だけである。今朝の放送は、その両方が同じところに来ている。


 僕は何も言わない。言えば、この人がまた答えなければならなくなる。今は、問いを増やす理由がない。


「……見ないで」


「見ています」


「ばか」


「泣くとは思っていませんでした」


 卓の向こうで、後輩が音を絞っている。つまみを回す指はゆっくりで、機械のかすかな唸りまで遠のいていく。


「わたしもだよ」


「三十番は、みんなの前で、もう一度告白する、でした」


「……知ってる。読んだの、わたしだもん」


 八時三十分。凛が鞄のファスナーを開け、新しいボールペンを出す。つるりとした軸が、窓の光を細く返す。


 先月、開けないまま持ち歩いていた包みから出てきたものである。ノックの音が一度鳴り、三十番の行へ線が引かれる。下ろしたばかりのインクは濃く、紙の白をきっぱり分ける。


 線を引くのは、いつも凛の手だった。


 凛が紙を持ち上げ、朝の窓へかざす。薄い紙が光を含み、指の影まで透ける。


 裏から見ると、線だけが残っていた。


 三十本ぶんの黒が、朝の光の中に並んでいる。まっすぐなのも、斜めのも、途中で細くなって消えたのも、二度に分かれたのもある。どれも同じ黒ではなく、それでも同じ紙の上に収まっている。


       ◇


 扉のところに、都築先輩が立っている。廊下の光を背にして、表情は薄い影に隠れている。いつからいたのかは、もう聞かない。


「いいねえ」


「番組でしたか?」


「……番組じゃなかったねえ、これは」


 この人が番組でないと言うのを、僕は初めて聞く。いつもの語尾なのに、今朝だけは、置き場所を決めかねたように長く伸びた。


「じゃあ、何だったんですか?」


「知らないよ。私は口を出さない主義だからね」


 八時三十五分。教室で、蜷川累が言ったらしい。声は大きくなかったのに、教室の隅までよく通った、とあとで聞く。


「俺が書いた」


 誰にも頼まれていない。その一言のあと、教室では椅子の音さえ止まったという。話は人から人へ渡り、昼までに校舎を一周する。


 昼の廊下で、蜷川と一度だけすれ違う。窓の外は明るいのに、廊下の床だけが青く冷えて見える。


「三十番は、笑いながら振らせるつもりで書いたんだけどな」


「書いたとおりでした」


「どこがだよ?」


 蜷川の声は、九月より半音低い。口もとは笑う形のままなのに、最後の音だけが床へ落ちる。


「みんなの前で、もう一度告白する、です」


「……順番が逆だろ、それ」


「順番の指定は、ありませんでした」


 十二時十分。土曜授業は四時間で終わる。終業の鐘が止むと、教室からほどけた声と椅子の音が、冷えた校舎に広がる。


 昇降口から駅まで、いつもの十二分を同じ速さで歩く。急ぎも遅れもしない。今日の十二分である。並ぶ靴音だけが、いつもより近い。


 空はよく晴れ、風だけが冷たい。冬へ傾いた光が、歩道の端を白くする。落ち葉が一枚、前を横切り、二人ぶんの歩幅のあいだで止まる。


「三十件、全部やりました」


「うん」


「……知ってる。線を引いたの、ぜんぶわたしだから」


「三十本、数えました」


 紙の端が、風で一度だけ持ち上がる。黒い線の列に空の光が差し込み、すぐ指の下へ戻る。


「わたしも数えてた」


「では、合っています」


「……ふふ。合ってる」


 聞こえるのは、息だけだ。今日のその息は、澄んでいるほうでも、乱れているほうでもない。ただ隣にある。


「一行、書き足してもいいですか?」


「いいよ」


「では、書きます」


 凛が駅前のベンチに腰を下ろし、紙を膝の上で開く。座面が小さく鳴り、冷たい風が紙の縁を押す。三十番の行の下に指を置く。


「うん」


「線は、引かなくていいです」


「なんで?」


 三十一番は、今日のうちに終わる件ではない。駅前を抜ける風が、開いた紙を細かく揺らす。


「まだ、果たしていないので」


「……ずるいよ、それ」


「はい」


 凛がペンを差し出す。受け取った軸には、指の熱がまだ残っている。僕は三十番の行の下へ、一行だけ書いた。


『三十一 これからも、一緒に帰る』


 僕はそっと凛の方に手を差し出す。


「……え?」


 凛は恥ずかしそうに逡巡して――――おずおずと握った。


 伝わってくる柔らかく暖かな体温。ふわりと香る華やかな匂い――胸の奥から湧き上がってくる想いに、思わず笑みが浮かんでしまう。


「ふふっ」


 ブラウンの潤んだ瞳が見上げてくる。


「うん」


 九十日にわたる数奇な騒動を超え、今たどり着く絆――――。


 この温かさを僕は一生忘れない。


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