第一章 静寂の中の邂逅 【3.水楓(みずかえで)】
忠平を迎える宴が華やかに開かれる中、国豊は笛の稽古に励む。忠平は幼子の素質を見抜き、笛に“水楓”と名を授ける。湖面に映る月と篝火の揺らぎの中、国豊の胸には静かな温もりが広がる。笛は彼の心を支える友となり、後の人生を象徴する存在として、幼い日の記憶に深く刻まれていく。
【3.水楓】
碧い湖に面した釣殿では、昼の申の刻より、右大臣・忠平卿の御入を寿ぐ酒宴が華やかに催されていた。
楽人の調べが風に乗り、朱塗りの欄干には、色とりどりの直衣姿の貴人や女房たちが影を落とし、水面には、金銀の杯を掲げて笑う面々の姿が、ゆらりと揺れて映っていた。
やがて日が西山の端に沈みかけるころ、湖上を渡る初夏の風が肌を撫で、釣殿に満ちていた喧騒も、潮の引くように静まりはじめた。遠くでは、まだ几帳の陰で盃を重ねる者もいたが、多くは庭へと歩み出て、夕映えに染まる宇治川の流れや、木幡山の稜線を眺めながら、沈みゆく陽の名残を惜しむように、しばし物思いに耽っていた。そのころには、中空には早くも淡い月が姿を見せ、湖面には月光を宿す静かな波が揺れていた。
忠平は、静かに中座して、国豊母子が住まう対屋に向かう廊を渡った。
国豊は、静かな庇の柱に身を寄せて、幼い指先で笛の穴を探っていた。唇を尖らせて吹き込まれた息は、風に交じって消えていく。
忠平は杯を傾けながら国豊の頭を撫でた。
「息は押しつけるのではない。水の上を渡る風のように吹くのだ」
板敷に腰を下ろし、国豊に笛の手ほどきをした。
「良い音だ。その笛は、おまえの友となる」
忠平は、思い出したかのように言った。
「この笛にはまだ、名が無い…“水楓”と名付けよう。水に影を落とす楓のように、おまえの心も、澄んだ音を宿すだろう」
蔀戸の格子の隙間から見える水面には白い月が揺れ、湖面に細い光の道を落としていた。鵜飼の篝火が水面を照らし、赤く滲んでいる。その光が国豊の幼い心に、静かで温かな灯をともした。
水と光が揺れる宇治の情景とともに、幼い国豊の心の輪郭を描きたかった。
笛は彼の心の拠り所であり、後の武士たちとは異なる、貴族的な精神性の象徴でもある。
“水楓”という名は、国豊の人生を通して響き続ける象徴だ。水面に映る月、篝火の赤、静かな風――そのすべてが彼の心を形づくる。




