第一章 静寂の中の邂逅 【2.撫子(なでしこ)の契り】
霧深い初夏の朝、幼い国豊は宇治木幡の庭で独り毬をついていた。そこへ現れたのは、一門の長者・藤原忠平。庶子として都から遠ざけられた国豊に、忠平は温かなまなざしを向け、横笛を与える。初めて触れる“父性”の温もりに、国豊の胸には小さな灯がともる。二人の邂逅は、後の運命を大きく動かす始まりとなる。
【2.撫子の契り】
童子が独り、毬をついている。
紫霧が深く立ちこめる初夏の朝、濡れた草木の匂い、竹林の奥から響く鳥の声、水煙の中に浮かぶ島々、遠くに連なる山々、鏡のように静かな水面と天空との境は消え、山路は露に溶けてゆく。
薄紅色の単衣の袖を、わずかに捲り、毬が跳ねる音に合わせてわずかに首を傾け、まるで跳ねる音を聴いているかのように毬をついている。
頭頂から左右に分けた稚児髪の、ほどよく垂らした前髪、肩にかかるほど長い黒髪は、水辺に漂う霧を吸ったかのように、しっとり艶めき、毬をつくたびに柔らかく揺れている。透明感のある白い肌は、いっそう儚げ(はかなげ)で、この霧の中に融けてしまうかのような危うさがあった。
この童子は、数日ほど前に五歳の誕生日を迎えた。
中臣姓藤原北家魚名流・仲正の若君、のちの藤原国豊である。貴人の子であるが、京の遊女の腹から生まれた庶子であったため、都から離れた宇治木幡のこの別業(別邸)に、生母とともに置かれた。
この日は、一門の長者たる右大臣・藤原忠平を初夏の遊興に迎える宴の初日であり、仲正の宇治別業には、随行の公卿や殿上人、さらには警護にあたる武士たちが集い、朝からひときわ賑わいを見せていた。
「若君は、何をして遊んでいるのか?」
喧騒から離れた奥まった庭先で、毬をついていた国豊に、柔らかな声がかけられた。
国豊がゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは、この世の威儀を一身に纏う者としか言いようのない眩い(まばゆい)姿の貴人であった。小柄ではあるが、その立ち姿は威厳があり、優雅で、夏の陽を受けた額は涼やかに輝いている。
頭上には、黒漆を幾重にも塗り重ねた立纓の冠、深い威厳を漂わせている濃く染め抜かれた黒袍を身にまとい、袍の下の表袴は、上質な白絹に細やかな文様が淡く浮かび上がっている。胸元には、儀式の証たる平緒が端正に結ばれ、腰には金銀の金具に宝玉を惜しげもなく散らした飾太刀。その鞘の表面には繊細な彫金が施されていた。その装いは、歩みのたびに日の光を受けて、わずかに揺れては光を吸い、また返し、煌めきを放っている。
時の右大臣・藤原忠平、貴人である。
早世した兄、左大臣・藤原時平に代わり一門の氏長者となった。主上(醍醐天皇)の信頼は揺ぎ無く、のちに摂政・関白として執政を務め、太政大臣の位を賜り位人臣を極める。政治的手腕に優れ、その執政は仁と徳に溢れ、官人・女官どもの信頼も篤く、多くの人々に慕われた。
国豊は目を見開いた。このような威厳に満ちた貴人を見るのは初めてだった。
「あなた様は……どなたですか」
忠平は微笑んだ。
「其方の一門じゃ。此方の主藤大夫(仲正)に招かれておる。」
その人の顔を、幼い国豊は知らない。
だが、声の調子も、立ち姿も、どこか安心を与えるものがあった。
忠平は、仲正の庶子の存在は耳にしていた。
高貴な血筋を持ちながら、都から隠されるように宇治に置かれた幼子は、貴族社会の冷酷さを象徴しているようであった。忠平は、政治の世界に身を置きながらも、その境遇に心を痛める稀有な人物だった。
「門葉が捨て置かれているならば、手を差し伸べねばならぬ。」
忠平の情は、“哀れみ”ではなく、
“一門の子(門葉)を見捨てぬ”、という静かな誇りだった。
「その子に、会わねばならぬ・・・」
その直感が、忠平の胸を静かに揺らした。
兄・時平の影に隠れながらも幼い頃から家の期待と格式の中で育った。父・基経も、自分には優しかった兄も早くに亡くなった。
忠平は、庭先でひとり毬をつく国豊の姿に、かつての自分を重ねた。
「毬ばかりではつまらぬであろう、これを取るがよい。」
忠平は、徐に、胸元から一本の、麗美な横笛を取り出した。
「……良いのですか」
顔色を伺うような、大きく、そして静かな幼い瞳。
「遠慮はいらぬ。音は、心を癒し、広くしてくれる」
国豊は、生母以外の優しさに触れたことがなかった。
「……嬉しい……」
忠平は自然な仕草で国豊の頭に手を置いた。
「うむ、それで良い」
父に触れられた記憶がなかった国豊は、驚きで息を呑んだ。
額から流れる一筋の汗が、瑞々しく輝いた。
国豊が初めて受け取った笛は、単なる贈り物ではなく、彼の心を支える“象徴”となる。孤独な幼子に差し伸べられた手は、後の忠平との深い絆の萌芽でもある。歴史の大河の中で、運命はしばしば静かな瞬間から動き出す。国豊の人生の第一歩を、読者にもそっと感じてもらえたなら嬉しい。




