第一章 静寂の中の邂逅 【1.南の朱雀】
宇治木幡の地は、かつて秦氏が治水を担い、巨椋池を聖なる水域として守ってきた。平安中期には藤原北家の荘園となり、貴人たちが別邸を構え、歌舞や舟遊びを楽しむ雅の地として栄える。水と霧が織りなす幽玄の景観は、訪れる者の心を静かに揺らし、物語の舞台として千年の時を越えて息づいている。
第一章静寂の中の邂逅
“青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも”
天智天皇崩御(672年)の前後に、倭大后が詠んだと云われる三首の歌のひとつに見える木幡の山は、天智天皇陵に近い宇治にある。後世、この山に豊臣秀吉が伏見城を築城するのだが、その際、秀吉が好んだと云う「桃の木」をたくさん植えたので「桃山」と呼ばれるようになった。
この“木幡”という地名は、古代飛鳥朝の時代まで、山背国から葛城郡、紀伊郡(北は現在の伏見稲荷大社のある京都府伏見区南部から、南は薬師寺や法隆寺がある大和郡山付近まで。なお、当時、紀伊郡は和歌山の紀伊ではなく京都)を含む広範な地域を指していた。
この物語の舞台となる平安時代中期には宇治郡内だけを指すようになり、明治以降には行政区画としての木幡村が画定され、現在の地名へと継承されている。
【1.南の朱雀】
千年の昔、この一帯を潤す宇治川水系は、たびたび氾濫を起こし、多くの命を奪い、大地の実りを損ねた。これを憂いた桓武天皇は、平安京遷都に先立ち“弓月の君” の子孫である秦氏に、この地の治水・開拓を命じた。
力を蓄え過ぎた秦一族の力を削るための政略であったとも考えられるが、この時代に、これほど広大な水域を治める高度な治水・土木建築技術を提供することができた族は、大陸由来の知見を持つ秦氏を措いて他になかった。
渡来人の子孫である秦氏一族は、宇治・桂・木津の三流が合流する、この“巨椋の入り江” 周辺の治水に成功し、その地域の統治を朝廷から許された秦氏は、“巨椋の波が多く寄せる地”、“秦氏の支配が許された地”、に因んで、この地を「許波多荘」(こはたのしょう)と名付けた、とする説がある。
この、満々と水を湛えて広がる巨椋池は、周囲四里(16km)に及ぶ広大な遊水地となった。人々は、この巨椋池を、平安京を守護する聖なる水辺とし、「南の朱雀」として崇め奉ることで、水による災厄を鎮めようとした。
時が過ぎて平安時代中期、秦氏が治めた宇治木幡の地は、藤原北家一族の荘園(所領)となった。藤原一門の公卿をはじめとする富裕な貴人たちは、山紫水明を誇るこの地に広大な別邸を構え、女房や楽人を侍らせ、歌舞・管弦・舟遊びに興じた。
寝殿造りの母屋から、庭園に向かって突き出した廊下を渡り、壮麗な装飾が施された釣殿の簀子に座して湖面を眺めれば、柴を積んだ小舟が静かに行き交い、湖畔では網代かけの漁夫たちが忙しく働き、宇治川沿いには水車が並び新たな水辺の風物詩として絶えず回っていた。
中世絵巻の一場面がそのまま閉じられたような静寂さに満ち、幽玄の世界に誘われる宇治木幡の地は、今も、訪れる者の心に言葉にならない余韻を残す。
物語の幕開けにふさわしく、まずは宇治木幡という土地そのものの“記憶”を描いた。水が支配する地形、秦氏の技術、巨椋池の霊性――これらは後の国豊の運命にも深く影を落とす。
水の気配、霧の揺らぎ、古代から続く祈りの層が、この章全体に静かな重みを与えている。国豊が生まれ育つ場所が、どれほど豊かな歴史と霊性を宿していたか――その理解が、後の展開をより深く味わわせてくれるはずだ。




