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将門炎舞記 上巻  作者: 浮島太郎


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第三章 童殿上 【5.春雨に灯る若灯】

【5.春雨に灯る若灯】(はるさめにともるわかび)


春の雨が、小一条の忠平卿の庭に細い糸のように降りていた。

白砂に落ちる雨粒は静かに弾け、若葉の匂いが空気に満ちている。

池の面には薄紅の花びらが散り、風に揺られて円を描いていた。


その日、左大臣・藤原忠平卿は、中務卿・敦慶親王――玉光宮を迎えていた。

玉光宮は濃紫の直衣に白の指貫を合わせ、雨に煙る庭を眺めながら微笑んだ。

「左大臣殿、春雨の庭を眺めるには、これほどの邸は他にありますまい」

忠平卿は静かに頭を下げた。

「宮がお越しくださるとは、恐れ入ります」


玉光宮の後ろには、陰陽頭の老官と、若き賀茂忠行が控えていた。

忠行は緋の袍をまとい、若いながらも鋭い眼差しを宿している。

玉光宮は扇を揺らしながら言った。

「左大臣殿、宮中では、そなたの小舎人が陰陽寮の忠行を論破したと噂でな。

姫宮の御簾の奥にまで届いておるようだ」

忠平卿は、わずかに微笑んだ。

「国豊は、まだ幼いながら理を好む子にございます。

――噂の類にございますれば、宮中の花のようなものにて」

玉光宮も笑みを返した。

「うむ、あれは春の戯れよ。

――だが、今日の話はそれではない」

扇の動きが止まった。


忠行が一歩進み出る。

その眼は、国豊の噂などとうに忘れたように、もっと深いところを見つめていた。

「左大臣さま……実は、あの日、清涼殿の簀子縁にて、滝口の小次郎さまを拝見いたしました。」

忠平の扇が、かすかに揺れた。

「小次郎……将門殿を?」

忠行は静かに頷いた。

「はい。あの方の左の眼……光の加減かと思いましたが、どうにも重瞳に見えました。」

忠平卿は低く息を呑んだ。


「重瞳……楚の項羽がそうであったと伝わる、英雄の相、覇者の相……」

玉光宮の声は、雨音に溶けるように静かだった。

忠行は続ける。

「国家の命運を左右する時にのみ現れると伝わります。あれは、ただの武人の相ではございませぬ」

忠平卿の胸に、冷たいものと熱いものが同時に走った。

(将門……あの若者が……?国豊の若灯とは異なる、もっと大きな火が……)


忠行は深く頭を下げた。

「左大臣さま。どうか一度、将門さまの占をお許しください。これは、ただの好奇ではございませぬ。」

玉光宮も静かに言葉を添えた。

「忠行の目は確かよ。わたしも、あの偉丈夫には尋常ならぬ気配を感じる。」


忠平卿は長く息を吐き、雨に濡れた庭を見つめた。

薄紅の花びらが池に落ち、静かに波紋を広げている。

「……よい。将門殿には、そなたの願いを伝えよう。

ただし――試すためではなく、あの者の灯を、正しく導くための占であれ。」

忠行は深く頭を下げた。

「は、はい……肝に銘じます」


玉光宮は雨に煙る庭を眺めながら呟いた。

「重瞳……天が遣わす者か、あるいは……」

忠平の胸には、若灯とは異なる、もっと大きな火種が、春雨の奥で静かに燃え始めている気配が、確かに広がっていた。



玉光宮が忠平邸を訪れから数日、

清涼殿の簀子縁で、宮中の小舎人(童殿上)が陰陽寮の若官をことわりで詰めたらしいとの噂は、まるで春の霞のように宮中の隅々まで広がっていった。

春の宮中は、光と影が複雑に交わり、女房たちの噂話が風よりも早く広がる季節であった。

「聞きました? あの坊が、陰陽寮の忠行殿に理を説かれたとか」

「ええ、『罪なき者に罰はない』と、まるで学者のように申されたそうですよ。」

「滝口の小次郎さまも褒めておられたとか。」

「小次郎さまが? あの方が子供を褒めるなんて珍しいわ。」

「それだけ、聡いということでしょうね。」

女房たちの声は、御簾の影をすり抜け、弘徽殿へ、後宮へ、そして

――皇女のもとへと静かに流れ込んでいった。



その日、皇女は北廂で文を写していた。

春の光が御簾を透かし、金の糸のように揺れている。

侍女の弁子が、そっと近づいて囁いた。

「姫宮さま……」

皇女は筆を止め、静かに顔を上げた。

「何かしら」

弁子は声を潜めた。

「清涼殿で、面白い噂があるようですよ。」

皇女のまつげが、かすかに揺れた。

「なんでも小舎人のひとりが、陰陽寮の若官に理を説かれて……怨霊だの祟りなど理に合わぬ、と申したとか。」

「……小舎人が?」

弁子は頷いた。

「はい。噂では、あの笛を吹いてくれた坊のようなのです。」


春の風が御簾を揺らし、影がゆらりと揺れる。

(笛の音のように澄んだ心を持つ子……)

皇女は御簾の向こうの光を見つめ、胸の奥にそっと手を当てた。

そこには、確かに温かいものが灯っていた。

(また……あの笛を聞きたいな。)

その願いは、誰にも言えぬまま、春の夕影の中で静かに息づいていた。



春の雨はなお静かに庭を潤し、そのしずくのひとつひとつが、まるで宮中に広がる噂のように、音もなく世界を満たしていった。そして、その雨に紛れて灯った小さな光は、忠平の胸にも、御簾の奥の皇女の胸にも、確かに息づき始めていた。


春雨に、若灯はそっと世に明かりを添えたのであった。


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