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将門炎舞記 上巻  作者: 浮島太郎


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第三章 童殿上 【4.簀子縁の若き論】

【4.簀子縁の若き論】(すのこえんのわかきろん)


春の光が清涼殿の簀子縁に降りそそぎ、白木の柱は金砂子を散らしたように輝いていた。

御簾の向こうには沈香の香が漂い、女官たちの衣擦れの音が静かに重なる。

宮中は、どこか張りつめた空気をまとっていた。


――近ごろ、道真の祟りが囁かれている。

その日、主上の御前で、中務卿なかつかさきょうが陰陽寮の官を伴い祈祷の報告を行った。

中務省は八ある省の筆頭格とされ、この時の中務卿は主上の弟君である敦慶親王あつよししんのうであった。この卿は、玉光宮たまひかるみやと称されるほどの容姿端麗さでも知られ、大変優雅な方であったと云う。

この日も、玉光宮を一目でも見ようと、五、六人の女官・女房が、少し離れた廊などで、宮が退出されるのを控えていた。


中務卿に随伴したこの官は、陰陽寮の官で、名を賀茂忠行かものただゆきという。まだ二十にも満たぬ青年で、緋の袍の袖を緊張で固くしている。

卜占、天文、暦の作成など国家の大事に関わっていた陰陽寮は、主上の側近として宮中の事務全般を司る中務省の被管ひかんにあった。



忠行が清涼殿の廊を一人で歩いていると、控えていた女官が声をかけた。

「今日も、道真公の祟りのことを……?」

「は、はい……主上は大層お心を痛めておられます。皇太孫殿下まで……」

青年は深く息を吐いた。


その会話を、童殿上として廊を走っていた国豊が、ふと足を止めて聞いてしまった。

浅葱の袴に白い単衣、まだ幼い総角の髪。

だがその瞳は、春の水面のように澄んでいた。


国豊は、そっと近づいて言った。

「怨霊というのは……恨んだ相手を祟るのでしょう?」


忠行は驚き、国豊を見下ろした。

「そ、そうでございます……」

「では、なぜ罪のない幼い皇太孫さまが亡くなられたのですか?」

国豊の声は静かだった。

「罪があるから罰を受けるのであって、罪がないところに罰はないはずです。」

青年は口を開いたまま固まった。

女官が思わず袖で口元を押さえる。


国豊は続けた。

「もし不幸が起こるとすれば、それは怨霊ではなく、天のさだめではありませんか?」

「……天の、さだめ……」

青年は言葉を失った。


さらに国豊は、幼い眉を寄せて言った。

「それに、菅原道真公は、生きておられたとき理知的で、律令にも通じておられたと聞きます」

「はい……それは、まことに……」

「生きているときに賢かった人が、死んだら愚かになるはずがありません」

「……」


「もし、死んだら訳がわからなくなるのなら、あの世には愚か者しかいないことになります。」

「そ、それは……」

「それでは、あの世の神も仏も愚かだと言っているのと同じではありませんか?」

忠行の顔は真っ赤になり、次の瞬間には真っ青になった。



そのとき――

簀子縁の柱にもたれ、静かに様子を見ていた若い武官がいた。

かなりの背高でひと際目立つ。

滝口の小次郎……平小次郎将門である。

濃紫の直垂に浅葱の指貫、腰には太刀を佩き、烏帽子は端正に結ばれている。

滝口の侍(宮中警護)として清涼殿に上がることを許された、若き俊英の姿だった。


小次郎は、堪えきれずに吹き出した。

「ははっ……まいったな。」

青年がびくりと振り返る。


小次郎は国豊の肩に手を置き、にかっと笑った。

「藤の若君の言うとおりだ。怨霊だの祟りだの、そんなものに振り回されるのは愚か者よ。」

「小次郎さま……」

国豊は驚いたように見上げた。

「道真公ほどの賢者が、死を境にして急に愚かになるはずがない。

其方の言葉は、まっすぐで、理にかなっている」

小次郎の声は、春の風のように温かかった。


忠行は、恥ずかしさに耐えきれず深々と頭を下げた。

「も、申し訳ございませぬ……」

小次郎は笑いながら国豊の頭を軽く撫でた。

「其方は聡いな。十を前にして、もう陰陽寮の官を論破するとはな。」


国豊は頬を赤らめ、うつむいた。

だがその胸の奥には、

“自分の言葉が誰かに届いた”

という小さな灯が、確かに灯っていた。



その夜、陰陽寮の官舎で、忠行はひとり灯火を見つめていた。

国豊の言葉が、耳から離れない。

「生きて賢い者は、死んでも賢い」

「罪なき者に罰はない」

「天のさだめ」

青年は、ふと呟いた。

「あの小舎人は、いったい…」

灯火が揺れ、若き賀茂忠行の影が長く伸びた。


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